1上野で絵を見たあと、夕方からは日比谷でチェコのヤナーチェク弦楽四重奏団の演奏会をきいた。
モーツァルト、ドヴォルジャーク、ブラームスの順に三曲きいたが、ドヴォルジャークがいちばんであった。2実はこの日、はじめの二曲は二階席できいて、最後の曲を、芝居でいえばカブリツキに当たるところの招待席できく珍しい経験をした。そして、招待席と二階席とでは、どうも、音の大小ではなく、音色の質がかなり違うということに気がついた。3正直なところ、私には、二階の方がまとまった印象をもつことができた。一階正面の最前列に座っていると、音楽がすこし近すぎるのではないかという感じである。おそらくそれは物理的で同時にまた心理的な問題であろう。
4同じ音楽でも、あるときはひどく感心し、別のときはさほどでないことがある。それと似て、ある席ではすばらしい演奏が、ほかの席では何割か割引きしなくてはならぬということがないとは言えないだろう。
5芸術において、作品は必ずしも絶対ではない。時、所を超越して価値にすこしのくるいもないという芸術がないのは、どんな作品にも、それを受けとる人間の心が必要だからで、両者のふれ合うところにしか美は生まれない。
6そんなことを考えるともなく考えていると、きょうめいということばが頭に浮かんだ。
人の意見に共鳴する、などと、いまでは比喩として用いられるが、もともとは物理現象を指すことばであって、いまも物理学で共鳴という術語は生きている。
7むかし中学校で共鳴の実験をしたものだ。振動数の等しい二つの音叉の一方を鳴らすと他方もつられて鳴り出す。その実験、やれと言われてやっただけで、別に不思議とも思わなかったが、いまから考えると、もったいないことをしたものだ。8もうすこしよく心に留めておけばよかったと悔やまれる。いまやりたくてもだいいち音叉がない。それはとにかく、比喩であることすら忘れられて使われている。
9共鳴ということばを、もう一度、物理の世界へお返ししてみると、そこに、われわれの芸術的感動の原理のようなものが、チラリと姿をのぞかせるように思われる。
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