a 長文 11.2週 mu2
 上野で絵を見たあと、夕方からは日比谷でチェコのヤナーチェク弦楽げんがく四重奏団の演奏会をきいた。
 モーツァルト、ドヴォルジャーク、ブラームスの順に三曲きいたが、ドヴォルジャークがいちばんであった。実はこの日、はじめの二曲は二階席できいて、最後の曲を、芝居しばいでいえばカブリツキに当たるところの招待席できく珍しいめずら  経験をした。そして、招待席と二階席とでは、どうも、音の大小ではなく、音色の質がかなり違うちが ということに気がついた。正直なところ、私には、二階の方がまとまった印象をもつことができた。一階正面の最前列に座っていると、音楽がすこし近すぎるのではないかという感じである。おそらくそれは物理的で同時にまた心理的な問題であろう。
 同じ音楽でも、あるときはひどく感心し、別のときはさほどでないことがある。それと似て、ある席ではすばらしい演奏が、ほかの席では何割か割引きしなくてはならぬということがないとは言えないだろう。
 芸術において、作品は必ずしも絶対ではない。時、所を超越ちょうえつして価値にすこしのくるいもないという芸術がないのは、どんな作品にも、それを受けとる人間の心が必要だからで、両者のふれ合うところにしか美は生まれない。
 そんなことを考えるともなく考えていると、きょうめいということばが頭に浮かんう  だ。
 人の意見に共鳴する、などと、いまでは比喩ひゆとして用いられるが、もともとは物理現象を指すことばであって、いまも物理学で共鳴という術語は生きている。
 むかし中学校で共鳴の実験をしたものだ。振動しんどう数の等しい二つの音叉おんさの一方を鳴らすと他方もつられて鳴り出す。その実験、やれと言われてやっただけで、別に不思議とも思わなかったが、いまから考えると、もったいないことをしたものだ。もうすこしよく心に留めておけばよかったと悔やまく  れる。いまやりたくてもだいいち音叉おんさがない。それはとにかく、比喩ひゆであることすら忘れられて使われている。
 共鳴ということばを、もう一度、物理の世界へお返ししてみると、そこに、われわれの芸術的感動の原理のようなものが、チラリと姿をのぞかせるように思われる。
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 われわれはみんな心のおく音叉おんさをもっている。絵を見、音楽をきき、詩や小説を読む――そういう外からのいろいろの刺激しげきは意識されない波となってこの胸中の音叉おんさに達する。それによって、われわれは「心を動かし」、「感動し」、あるいは「心の琴線きんせんにふれた」と言うが、要するにそれは共鳴である。
 ただ、物理実験で使用する音叉おんさには振動しんどう数がはっきりしているのに、心の琴線きんせんが共鳴をおこす振動しんどう数はまだはっきりしていない。それがとらえられれば、鑑賞かんしょうが学問となるかもしれない。
 芸術的共鳴の成立する条件については何ひとつわかっていないが、鑑賞かんしょう者が作品、表現にあまり接近しすぎては共鳴に不便らしいこと、その距離きょりが美感に関係のあるらしいことなどは見当がつきそうである。ひょっとすると、共鳴によって芸術の与えるあた  感動を説明できるかもしれない、そう思ったら、自分でもおかしいくらい心が高ぶって来た。

外山滋比古とやましげひこ「きょうめい」より)
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