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 自然科学の中のどのような分野の研究にあっても、研究がその分野の進展に対する何らかの貢献こうけんとなることを目指している以上、そこでは、科学者が行うことは、未知の土地に踏みこむふ   探検家のすることに似た点があると言えよう。当面の研究テーマの中に新しい事実の発見をするとか、既知きち、あるいは、新発見の事実に対する新しい解釈かいしゃくや理論を構築するとかいったことが、進歩への寄与きよとなるのであるから、研究の最前線に立っていれば、科学者個人は自分固有の研究プランや方法に従って研究を進めることになるのは当然であろう。そのとき、自分のもつ研究に対する現状分析ぶんせきの結果や見通しが、大きな役割を果たす。これらを持ち合わせていなかったら、進歩への寄与きよとなるような研究成果があげられることなど、ほとんど期待しえないからである。
 このような分析ぶんせきや見通しが立てられるためには、何が自分にとって疑問なのか、それをどのように解き明かしていったら研究成果につながるのかといった、いわば現実的なテーマヘの迫りせま 方が重要となる。したがって、この作業はきわめて個人的なものであって、客観的にだれにでも当てはめられるというものではない、ということになる。
 科学の研究というと、私たちがしばしば聞かされるのは、大方に受け入れられるような一般いっぱん的な方法があるというもので、その典型的なものとして、帰納と演繹えんえきとの二つの方法があげられる。だが、これらの方法が適用される以前になされるべきことのあることが、忘れられてはならないと私は考える。それは、これらの方法を研究に用いることができるためには、科学者の心中に、研究の出発点を決めるある種の仮説とかアイデアがなければならないからである。もしなかったとしたら、どのように研究を進めればよいのかとか、どんなデータを集めればよいか、あるいはまた、どのように理論的に攻めせ ていけばよいのかといった、研究の進め方が確定されえないはずなのである。
 こうした、研究を進めるに当たっての指針となる仮説やアイデアは、「作業仮説」としばしば呼ばれるが、これなしには、私たちには研究が進められないのだという大切な事実を忘れてはならない。
 この研究テーマの向こうに何かまだ知られていないこととか、
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理解されていない何かがあると感じるのは、たぶん、きわめて個人的なもので、客観性などないものであろう。個人のもつ現状分析ぶんせきの結果が、他の人々とみな同じだったとしたら、ある科学者がある分野の研究の突破口とっぱこうを開くなどということは、なくなってしまうであろう。だれにも同じことができるはずだ、ということになってしまうからである。一人ひとりがまったく異なった像を研究の現場にあって持っているからこそ、ある人には大発見に至る道が開かれたりすることになるのである。
 ある分野の進歩に寄与きよすることになった何らかの研究成果をあげられた人々に、そのような成果をあげることになった手順、あるいは、行き方を客観的に説明してみよと尋ねたず ても、たぶん、その説明はできないであろう。そこには、「何かあるに違いちが ない」といった信念が背景にあり、それからアイデアや作業仮説がつくられていったのだからである。最前線にあって、科学者がしていることを理解するには、アインシュタインが言ったという、「科学者の言うことよりも、彼らかれ が実際にやっていることを見る」ことが、大切なのである。研究成果があげられて、研究の経過が系統的に、当の科学者によって語られるときにはすでに、研究の現場で実際に起こっていたことはほとんどすべて忘れられてしまい、客観性をもった説明だけが残ることになるからである。ここから、科学の研究は客観的に進められるもので、科学には固有な研究方法があるのに違いちが ないという誤解が生まれてくるのである。
 科学の研究は、「科学的」に進められるのかという疑問については、その成果が客観的で、大部分の科学者にとって、当然、あるいは、必然なものとされ、受容されて初めて「事実」として一応承認されるという実際の手順から見れば、「そうだ」と答えたくなる。だが、研究の現場で実際に起こっていることと、あげられた成果の客観性の解釈かいしゃくとを混同してはならない、と私は考えている。

桜井さくらいくにとも「自然科学とは何か」より。一部表記を改めたところがある。)
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