a 長文 12.2週 mu2
 常識という言葉を辞書を開いて調べると、「一般いっぱんの人が持っている、また、持つべき知識・理解カ・判断力」といった解釈かいしゃくをしている。
 ただ、私個人の解釈かいしゃくを言うなら「社会生活を営むうえで、当然知っている、と予想される知識」となるかもしれない。この「当然知っている、と予想される」というところがこの言葉の難しいところだ。つまり、個人個人の考え方や生きてきた環境かんきょう違えちが ば、この「当然知っている、と予想される」内容も少なからず違っちが てきてしまうからだ。
 私の父、京助は東北の岩手県出身、母は生粋きっすい江戸えどっ子だった。この二人はしょっちゅう意見が衝突しょうとつしていたが、それは正月の雑煮ぞうには何を入れるか、といった大変ささいなことから始まっていた。父は絶対さけの子を入れなくては正月のめでたい気分は味わえない、と言い、母はお雑煮ぞうににそんな生ぐさいものを入れるなんて聞いたことがない、と反論する。
 つまり、父にとっては雑煮ぞうににはさけの子を入れる、ということが「常識」なのであり、母にとっては入れないことが「常識」なのである。そしておたがいに自分の「常識」が正しいと思い込んおも こ でいる。相手も自分と同じ考え方をするはずだ、と予想し、それが外れると、「あの人は常識がない」という言い方をする。つまり「常識」とは大変個人的な考え方の尺度だ、と言えると思う。
 「世間」という言葉がある。これを英語に訳すとWORLD(ワールド)になるが、「世界」と「世間」はちょっと違うちが 。「社会」とも似ているが、受ける感じはやはり違うちが 。土居健郎たけお氏の『甘えあま の構造』によると、日本人の生活は一番内側に身内の世界があり、これは遠慮えんりょがいらない。その外側に世間があり、そこでは窮屈きゅうくつ心遣いこころづか をすべきである。そしてその外側にまったく遠慮えんりょのいらない他人の世界があると考えられてきたのだそうだ。
 日本人にとって「常識」が大切になるのは、この「世間」の世界である。ここでは身内の世界で学んだ「常識」がいろいろな形で試されることになる。「世間さまに笑われる」とか、「世間に出
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はじをかく」というような言葉はいかにも日本的だ。
 しかしこの「世間」から抜け出しぬ だ て、まったく他人の世界に行ってしまえば、「常識」はそれほど大切ではないという考えになってしまうようだ。日本人は公徳心がないとよく言われる。公園や道路に空きカンを投げ捨てたりするのは、この辺に原因がありそうだ。「旅のはじはかきすて」などとも言う。だれも知っている人がいなければ、何をしてもいいというわけであろう。
 欧米おうべいにも我々のような社会生活を営むうえでの「常識」というのは当然ある。そしてそれは日本人の「常識」としばしば食い違うく ちが のもおもしろい。たとえば、私があるアメリカ人に大変世話になって、その次にその人の妹に会った。かれにはとても世話になったのでよろしく伝えてください、と頼んたの だ。日本人なら至極あたり前のことだ。ところがその妹はつっけんどんに、私と兄とは別々の人間で関係ない。そのようなことを頼またの れるのは迷惑めいわくなことだ、と言うのでびっくりした。アメリカ人にとってはそんなことを言われるのは、常識外れということらしい。私はつくづく難しいものだと思った。
「郷に入れば郷に従え」という。つまり、「常識」というのは、そのくらい地域や家庭によって違うちが 、ということだ。逆に言えば「常識」とは、必ずしも普遍ふへん的な知識ではなく、また合理的ですぐれたルールというわけでもないのである。

(金田一春彦はるひこ「日本語を反省してみませんか」より)
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