a 長文 4.1週 na2
 1たとえば粗大(そだい)ゴミのゴミ捨て(す )場へ行くと、まだまだ使えるものがいっぱい捨て(す )てある。それは環境(かんきょう)を汚染(おせん)するわけです。そんなことならばもうちょっと高くても品質(ひんしつ)のいいものを買って、おじいさんから孫まで生活の思い出の残るものをずっと伝えていけば家具なども捨て(す )なくていい。2そうすればゴミ捨て(す )場もそれだけよけいな負担(ふたん)を背負わ(せお )ずにすむわけです。けれども、日本人は使っては捨て(す )、使っては捨て(す )という生活に疑問(ぎもん)を持っていません。
 3何年も寸法(すんぽう)ひとつ狂わ(くる )ずに、引き出しも扉(とびら)もピッタリとしている家具への愛着は、毎日の暮らし(く  )、人生、自分の世界をつくっていたものへの愛でもあり、そういう年月に耐える(た  )ものをつくった人の腕前(うでまえ)に対する尊敬(そんけい)でもあるわけです。
 4たとえば何代も読みつがれる名作といわれる文学作品は、アブクのように消えるいわゆる「よみもの」よりも多くの人に長く愛され、尊敬(そんけい)されているでしょう。いつまでも本棚(ほんだな)に置いておきたいと思うでしょう。5そこから得たものは、それぞれの人格(じんかく)の中に深くはいりこんで、読者の人間を豊か(ゆた )にしたでしょう。すぐに忘れ去る(わす さ )一過(いっか)性(せい)のよみものとは、違う(ちが )ものだと思います。それはモノに対しても同じであるはずなんです。
 6では、ほんとうの豊か(ゆた )さ、なんとなく豊か(ゆた )な気持ちで毎日が送れる時とはどういうときかと考えてみますと、『パパラギ』という本をお読みになった方がいらっしゃるかどうかわかりませんが、南のある島の酋長(しゅうちょう)が書いた本です。7その中でこういうことを言っている。人間というのは頭だけで生きているのではない。足だけで生きているのでもないし、手だけで生きているわけでもない。心もあるし、身体もあるし、頭もある。8頭も手も心で感じることも、目も耳も全部が同時に満足することが必要だ、ひとつに統一(とういつ)された満足感が必要だ。そういう生活が人間として幸せで豊か(ゆた )な生活なんだと言っている。
 頭だけあるいは手だけを酷使(こくし)して、ほかのところを顧み(かえり )ないと、人間は必ず病気になり、健康な心と身体を失う、と言っています。
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9つまり人間は、全体で生きていて、全体を働かせ、全体を楽しませ、全体がひとつとなって幸せになることが豊か(ゆた )なのだと言っているのです。一部分だけが満足している状態(じょうたい)は、病気だと言っているのです。0
 同じことは教育の中にもあります。教育は全人格(じんかく)的発展(はってん)、人間としての成長を促す(うなが )ものですが、現在(げんざい)、日本の教育は偏差(へんさ)値(ち)の点をとる教育になっています。だから学校は楽しくない。人間の子として楽しくないのです。
 また、日本は労働時間が非常(ひじょう)に長いです。残業をすれば残業手当てももらえます。お金だけ、あるいは企業(きぎょう)の中で出世することだけを考えれば、頭と職業(しょくぎょう)に必要な手、目だけを働かせて「職業(しょくぎょう)バカ」になることもできる。それが日本ではたいへんいいことだと考えられている。あの人は会社のために妻(つま)も子も忘れ(わす )、一身を捧げ(ささ )て、ただただ会社のために尽くし(つ  )てきた。企業(きぎょう)にとってはいい社員であるのですが、そういうのは豊か(ゆた )ではないと『パパラギ』は言っている。
 つまり、会社人間は、ある専門(せんもん)的なことについてはベテランになっていくし、お金も儲ける(もう  )かもしれません。しかし、もしその人が学校を出てからまともな本を一冊(さつ)も読んでいない。自分の仕事にかかわるものは読んでいるかもしれないが、人間の土台になる教養というものは、何も身につけていない。会社で働くだけで、それこそ図書館にも行かないし、山登りもしないし、音楽会にも行かないし、地域(ちいき)社会のために何かをするということもしない。ただ会社で働くだけ。だとしたら、まったく豊か(ゆた )ではありません。それは人間としての生活ではないからです。

(暉峻(てるおか)淑子(いつこ)『ほんとうの豊か(ゆた )さとは』「岩波ブックレット」より、一部改変)
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a 長文 4.2週 na2
 1あることがらや出来事を私(わたし)たちが他の人に伝えたいと思った時、大きくわけてふたとおりの方法が考えられます。一つはそれを写真やビデオに写して見てもらうということです。もう一つの方法は、手紙を書いたり電話をしたりして、読んだり聞いたりしてもらうということ」です。2かりに、前者を「映像(えいぞう)による伝達」、後者を「言葉による伝達」と呼ぶ(よ )ことにしましょう。
 さて「映像(えいぞう)による伝達」と「言葉による伝達」を比較(ひかく)した場合、どちらが、ことがらや出来事を正しく伝えることができるかと質問(しつもん)されたら、みなさんはどう答えますか。
 3最近は、テレビやビデオなどの目覚ましい発達にともなって、映像(えいぞう)の力を私(わたし)たちもいやというほど見せつけられることがしばしばです。特に、衛星(えいせい)放送が可能(かのう)になってから、私(わたし)たちは、世界で起きている出来事をいながらにして同時中継(ちゅうけい)で見ることができるようになりました。4ごく最近の中国の天安門事件(じけん)の時も、そこに集まった群衆(ぐんしゅう)の熱狂(ねっきょう)的な姿(すがた)や、その後の軍隊の出動の様子などは、まるで私(わたし)たちがそこにいるかのような錯覚(さっかく)を与える(あた  )ほど生々しいものでした。5そうした、生々しいリアルな映像(えいぞう)に接する(せっ  )と、その迫力(はくりょく)に圧倒(あっとう)されてしまい、「映像(えいぞう)による伝達」の前では、「言葉による伝達」も影(かげ)がうすくなってしまうように思えます。そして、さきほどの質問(しつもん)にも、文句(もんく)なしに「映像(えいぞう)による伝達」に軍配をあげることになりそうです。6昔から「百聞は一見にしかず」ということわざもあり、「映像(えいぞう)による伝達」の優位(ゆうい)は、疑え(うたが )ないことなのかも知れません。
 しかし、ほんとうにそうなのでしょうか。ほんとうに「言葉による伝達」は、おとっているのでしょうか。7たとえば、みなさんのことを全く知らない人に、みなさんの家族の紹介(しょうかい)をしようという時、家族全員のそろった写真をとって送れば、一番てっとり早いし、なによりも分かりやすいように見えます「しかし、それで、ほんとうにみなさんの家族を相手の人によく理解(りかい)してもらえるでしょうか。8なるほど家族それぞれの顔や姿(すがた)などは、言葉で説明する
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より分かりやすいでしょう。そして、家族全体の持っている雰囲気(ふんいき)のようなものも、ある程度(  ていど)はその写真によって伝わることでしょう。しかし、それ以上のことになるとどうでしょうか。9その写真ではみんなニコニコ笑っていても、ひょっとしたら、兄と弟は口もきかないような関係にあるかも知れません。父は、実際(じっさい)には病気がちで、家族のみんなが心配しているような状態(じょうたい)にあるかも知れません。0母は、心の中では、夫の病気や子供(こども)たちのことをいつも気にして、疲れ(つか )ぎみかも知れません。そうした、少し入り組んだことは、やはり一枚(まい)の写真では表現(ひょうげん)することはできないでしょう。その写真をみた人は、「ああ、幸せそうな家族だな」というふうに理解(りかい)して、それで終わりということになりかねません。
 それに対して、言葉で書いた文章では、家族の顔や姿(すがた)を十分には伝えることはできないでしょうが、家族の中のかなり複雑(ふくざつ)な問題でも、説明することができます。それによって、写真では伝わらない家族のほんとうの姿(すがた)を相手に伝え、理解(りかい)してもらうことができるのです。
 映像(えいぞう)は瞬間(しゅんかん)的に人をとらえ、その中に引きこみます。その魅力(みりょく)を私(わたし)たちはよく知っています。そして何よりも、映像(えいぞう)はリアルです。しかし、そこに落とし穴(お  あな)があることも事実なのです。つまり、私(わたし)たちはしばしば、映像(えいぞう)を「現実(げんじつ)そのもの」と思ってしまうというあやまちをおかしてしまうのです。
(中略(ちゅうりゃく))
 「映像(えいぞう)による伝達」と「言葉による伝達」では、いちがいにどちらがすぐれているとは言えないでしょう。しかし、「映像(えいぞう)の時代」などと言われる現代(げんだい)社会では、私(わたし)たちは、ともすれば「映像(えいぞう)による伝達」を過信(かしん)しがちです。「文章のウソ」以上に「映像(えいぞう)のウソ」は危険(きけん)なのです。私(わたし)たちは、そういう「映像(えいぞう)による伝達」の危険(きけん)性(せい)をよくわきまえて、常に(つね )真実とは何かを考えるように心がけなければなりません。
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a 長文 4.3週 na2
 1われわれが歩いたり、走ったりする運動を考えてみましょう。足を前後に往復(おうふく)させて前進します。犬や馬もそうです。足は四本ですが、やはり往復(おうふく)運動です。鳥はどうでしょう。烏(からす)も羽を上下に動かして進みます。2カエルが泳ぐのも往復(おうふく)運動ですし、魚も尾びれ(お  )を左右に往復(おうふく)させて推進(すいしん)力を生み出しています。神様がお造り(つく )になった生物は、みんな往復(おうふく)運動で前進します。
 それでは、人間が作った道具はどうでしょうか。3ノコギリも手で使うノコギリは、前後に往復(おうふく)させて板を切ります。しかし、これでは能率(のうりつ)が悪いということで、回転ノコが考え出され、製材(せいざい)所などでは大変なスピードで木を切っています。
 4ジェームス・ワットが発明し、産業革命(かくめい)のもとになった蒸気(じょうき)機関も、そこから取り出せた力は往復(おうふく)運動でしたが、蒸気(じょうき)機関車は、ピストンの往復(おうふく)運動を回転運動に変えて使っています。回転運動をフルに利用したものに自動車があります。
 5回転運動がふえるのは、速いからです。自動車と動物の走るスピードを比べ(くら )てください。いかに速い競走馬でも、大衆(たいしゅう)車のスピードにもかないません。このことは、自動車の方が馬よりはるかにすぐれているかのような印象をあたえます。6人間の知恵(ちえ)は、とうとう神様の知恵(ちえ)を追いぬいたと考える人もいるかもしれません。
 たしかに、車輪の発見は技術(ぎじゅつ)の発達史上における大きな発見で、四本足で走る馬より、回転する車の自動車のほうが楽だし、速くもあります。7しかし、実際(じっさい)に走ってみると、楽に走れて速いのは平らで道のよいところだけで、山あり谷ありといったデコボコ道では、必ずしも楽ではありません。道のないところは車では進めません。人間や動物なら、川は泳いで渡り(わた )ますし、ガケもよじ登ることができます。8やはり人間の知恵(ちえ)は神様の知恵(ちえ)にかなわないわけです。
 現代(げんだい)社会は、言ってみればどこも平らですが、それは人間が作ったもので、自然ではありません。平らなところがふえたので、世の中すべてが平らであると思いこむ人がふえてしまったようです。
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 9舗装(ほそう)道路を車ですっ飛ばすように、世の中を突っ走れる(つ ぱし  )と思っていたところに、つまずきを生じたのが環境(かんきょう)破壊(はかい)であり、エネルギー危機(きき)だったといえます。
 自動車もスピードを出しすぎたので事故(じこ)がふえました。0そこで、高速道路でも事故(じこ)の多いところは少しデコボコをつけることが一部で考えられています。人間の知恵(ちえ)から再び(ふたた )神様の知恵(ちえ)に帰ろうというのでしょうか。
 人間の知恵(ちえ)にはおのずと限界(げんかい)があることをわれわれは十分に理解(りかい)しなければなりません。人間の作ったものは、たいへん便利で能率(のうりつ)的ではあっても、場合によっては案外落としあながあるものなのです。そういう意味で、われわれはもう一度、神様からあたえられた自然を見直す必要がありそうです。
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a 長文 4.4週 na2
 1電車や飛行機の中で、乗務(じょうむ)員に対して理由もなく横柄(おうへい)な人がいる。こっけいだ。乗せてもらわなくては困る(こま )くせに、何をいばっているのだろう。旧(きゅう)国鉄の内部には「乗せてやる」という言い回しがあったそうで、それもひどい勘違い(かんちが )だと思うけれど。
 2「いや、お客は偉い(えら )。買う時は、だれもが王様になる」という考え方もあるだろう。しかし、それだと無用のストレスが社会に広がりそうで、賛同(さんどう)しかねる。王様やお姫様( ひめさま)の気分にしてあげることを目的とした一部のサービス業を例外として。
 3子供(こども)のころ、駄菓子(だがし)屋でキャラメルを買う時や、食堂で親が精算(せいさん)をしている時、「買ってやったぞ」とお客様面をしていた。高度経済(けいざい)成長期に育ったので、小学生でもいっぱしの消費者として扱わ(あつか )れた結果と言える。4そんな私(わたし)が現在(げんざい)のように「転向」したのは、自分が社会に出て接客(せっきゃく)の現場(げんば)にいたせいだろうが、それに先立つ経験(けいけん)もある。
 中学生になるかならずかという夏休み。両親の郷里(きょうり)である高松で過ごし(す  )、源平(げんぺい)合戦で有名な屋島に遊びに行った。5三つ年下の弟と二人だったように思う。平日のことで山上に人は少なかった。蝉しぐれ(せみ   )の遊歩道を散策(さんさく)した私(わたし)は、ある光景に出くわす。
 休憩(きゅうけい)所の店先に帽子(ぼうし)をかぶったおじさんが立ち、中をのぞいていた。五十代ぐらいの人だったのではないか。6連れはいなかった。うどんでも食べて店を出ようとしていたらしい。おじさんは財布(さいふ)を片手(かたて)に、店の奥(おく)に向かって言った。「ごちそうさまぁ」
 意外な言葉だった。代金を払お(はら )うとしているのに店員の姿(すがた)が見当たらない場合、とりあえず「すみませーん」と呼びかける(よ    )ものだと思っていた。7いや、それしか思いつかなかった。なのに、このおじさんは無料でもてなされたかのように「ごちそうさま」と言う。一瞬(いっしゅん)だけ違和感(いわかん)を覚えた後、私(わたし)の内に変化が起きた。
 自分のために料理を作ってくれたのだから、お客として代価(だいか)を支払う(しはら )としても「ごちそうさま」と言うのが礼儀(れいぎ)にかなっている。
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8考えたこともなかったけれど、それはそうだと納得(なっとく)し、お客は偉い(えら )わけではない、と知ったのだ。
 後日、食堂だかレストランだかで食事をして店を出る時に、私(わたし)は小声でぎこちなく「ごちそうさま」と言ってみた。9すると、照れくさい気もしたが、それだけのことで一歩大人に近づいたように感じた。以来、店側に不始末がないかぎり「ごちそうさま」を言い添え(そ )ている。
 屋島で見た何でもないひとコマが、私(わたし)を少しだけ変えた。あのおじさんには、今も感謝(かんしゃ)している。0先方は、すれ違っ(  ちが )ただけの少年に何事かを教えたとはゆめゆめ思っていないだろうが、大人の言動が子供(こども)にあたえる影響(えいきょう)は、かほど大きいのだ。平素(へいそ)から心しておかなくてはならない。
 書店員をしていて、いろんな人と遭遇(そうぐう)した。ブックカバーをつけただけで「どうもありがとう」と言ってくれる人ばかりではない。ささいな行き違い(い ちが )で激昂(げきこう)し、アルバイトの大学生に「おれは客やぞ。社長に電話したろか!」と金切り声でさけぶ小学生をなだめたこともある。根性(こんじょう)の曲がったガキだな、と思いつつ、君はろくな大人と会ったことないんだね、とかわいそうになった。

(有栖川(ありすがわ)有栖()「お客は偉く(えら )ない」『二〇〇七年七月二十九日 日経新聞(にっけいしんぶん)文化面コラム』)
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a 長文 5.1週 na2
 1自分が好感をもっていない相手と話さなければならないことほど気の重いことはない。しかし、これは職場(しょくば)や学校、近所付き合いなど、あらゆる日常(にちじょう)生活の中で私(わたし)たちがしばしば避け(さ )ては通れない現実(げんじつ)といえる。その解決(かいけつ)策(さく)はただ一つ。それは我慢(がまん)することである。
 2嫌い(きら )だからといって、皮肉やイヤミを言えば、よけいに不愉快(ふゆかい)な思いをすることになるし、わざとらしくニコニコ親しげにふるまうのもかえって不自然である。不快(ふかい)な感情(かんじょう)を表に出さないように注意し、ごく自然に対応(たいおう)するのがベストということになる。
 3しかし、初対面で嫌(いや)な感じの人と思っていても、付き合っているうちにだんだん相手を見直すことも時にはあろう。人間には案外隠さ(かく )れた部分が多いものだ。一度や二度会った程度(ていど)では、その人のすべてがわかったとは言いがたい。
 4私(わたし)がラジオの人生相談をしていて思ったのは、人間の観察眼(がん)はそれほど確か(たし )なものではないということだった。たとえば、「夫がこんな人間だったとは思いませんでした。」と言ってくる人は、観察眼(がん)が足りなかったということになる。いいと思った人が嫌(いや)になる。5だからその逆(ぎゃく)で、嫌(いや)な人間が嫌(いや)でなくなる可能(かのう)性(せい)もあるということだ。
 映画(えいが)評論(ひょうろん)家の淀川(よどがわ)長治さんは、十六歳(さい)の時に見た映画(えいが)の「俺(おれ)はなあ、嫌い(きら )な奴(やつ)に今まで会ったことがねェ。」というせりふに感動したという。6それ以来、淀川(よどがわ)さんは、「いまだかつて嫌い(きら )な人に会ったことがない。」という信条(しんじょう)をもつようになった。
 相手が失礼なことをしたり、非常(ひじょう)に冷たいとき、昔は怒っ(おこ )たが、ある時期から腹(はら)が立たなくなった。7それはその人が失礼なことを失礼だと思っていないことに気が付いたからだという。「人間はみんな根がよい人ばかりなのだから、嫌(いや)だと思ってはいけないんです。自分が相手に愛情(あいじょう)を抱け(いだ )ば、きっと向こうもそれを感じてくれるはずです。」と、淀川(よどがわ)さんは言っている。
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 8他にも、俳優(はいゆう)の森繁(もりしげ)久弥(ひさや)さんは、人と付き合う時はその人の長所だけを見てそこだけ認め(みと )合った付き合いをするという。どんな嫌い(きら )な相手にも必ず長所はある。9欠点を見てそれをどうこう批判(ひはん)するのではなく、その長所の部分のみでかかわりあえばいいということである。
 人付き合いというものは、こちらの気持ち次第でかわっていくものなのである。0

(斎藤(さいとう)茂太(しげた)『心のうさの晴れる本』より)
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a 長文 5.2週 na2
 1しばらく影(かげ)をひそめていた教養という言葉が、またもや人々の注意をひくようになった。かわいた海綿(かいめん)のように人々はできるだけたっぷりと教養を身に吸いこま(す   )せようとあせっている。2結構(けっこう)なことだと思うが、教養という言葉については従来(じゅうらい)から一つの誤解(ごかい)が広く行われているように私(わたし)には思われる。というのは、雑誌(ざっし)や書物、ないしは講演(こうえん)などで、いわゆる教養講座(こうざ)といわれているものを見ると、そのほとんどが、多種多様な知識(ちしき)の、しかもその断片(だんぺん)の紹介(しょうかい)に終始しているように見えているからである。3そうして世間でも、いろんなことを雑然と(ざつぜん )心得ていて、どんな話題にでも口を出せる人を、教養の高い人と簡単(かんたん)にきめてしまっている。
 しかし、教養と知識(ちしき)とは決して同じものではないのである。というよりは、知識(ちしき)はそのままでは決して教養にはならないのである。4いくら絵かきの名前をたくさん知っていても、美に対する感覚がちっともみがかれていないような人は、美術(びじゅつ)の教養のある人ということができない。作家や作品に広く通じていても、人間の感情(かんじょう)生活や人生の諸(しょ)問題に粗雑(そざつ)な考察しかめぐらすことのできないような人間には、文学は少しも教養とはなっていないのである。
 5もちろん教養には知識(ちしき)や学問が必要である。いかに耳の感覚の鋭敏(えいびん)な人でも、ベートーヴェンもショパンもきいたことのないような人を音楽の教養のある人ということはできない。6つまり教養とは、その人の血となり肉となり、その人の人格(じんかく)を内部からしっかりと支え(ささ )ているような知識(ちしき)を指すのであり、教養によってその人の天性(てんせい)の感覚や人格(じんかく)がますますみがかれ、深められ、高められて行かなければならないのである。7知識(ちしき)が人格(じんかく)と没交渉(ぼっこうしょう)な状態(じょうたい)にある場合には、真の教養は決して生まれることができない。無知無学の人を教養ある人間ということはできないが、博識(はくしき)の学者にも教養のない人間は少なくないのである。
 8次に注意しておきたいことは、教養を身につけるということは、知的貴族(きぞく)になることでは決してないということである。例え
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ば、美術(びじゅつ)の鑑賞眼(かんしょうがん)を養うことによって、普通(ふつう)の人々には感じえない深さにまで絵画や彫刻(ちょうこく)の美しさを感じえた場合、9自分か一般(いっぱん)の人々よりは一段と(いちだん )高尚(こうしょう)な人間になったような誇り(ほこ )をいだくことは有りがちのことであるとしても、そのような誇り(ほこ )をいだくために、またそのような特権(とっけん)階級とならんがために、教養を深めようとするのであるとすれば、その人はついに真の教養を身につけることはできないであろう。0なぜなら、くりかえして言うように、教養の目的は、あくまで自己(じこ)の人間完成の上に置かれなければならないからである。

(河盛好蔵(かわもりよしぞう)『愛・自由・幸福』より)
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a 長文 5.3週 na2
 1表面的な生活の上では、人間というものは、案外に早く適応(てきおう)するものだ。二十年前のことなど、すっかり忘れ(わす )て、今の生活にどっぷりつかることが可能(かのう)である。
 しかし、心の底のほうは、それほど早くは、変われないのではないだろうか。2さらに、人間たちの心の共通の底、いわば人間たちの文化と力とか、情感(じょうかん)とかいったものは、それほど変われないのではないだろうか。
 これも、表面的には風俗(ふうぞく)はめまぐるしく変わる。流行のうつり変わりは早い。それにともなって、生活態度(たいど)も変わる。3表面的に見るかぎり、人間の価値(かち)観が、どんどん変わっているように見える。
 とくに若者(わかもの)の場合、古いものを持たないだけに、その時代の表層(ひょうそう)感覚をものにすることは簡単(かんたん)である。いつでもおとなたちは若者(わかもの)を特別の目で見ようとする。4ぼくの若い(わか )時代だってアプレ(戦後派(は))と呼ば(よ )れたものだ。
 それでも、表層(ひょうそう)意識(いしき)ではなくて、人間たちに共通の、深層(しんそう)の無意識(むいしき)にとっては、時間の流れは意外におそいのではないだろうか。それが、文化といった形になるには、ゆっくりとした時間が必要なのではないか。5それで、あまり急速な変化は、深層(しんそう)の無意識(むいしき)によって裏(うら)ぎられたりする。
 ぼくはなにも、いままでの秩序(ちつじょ)感覚を絶対(ぜったい)的なものと、考えるわけではない。それも、表層(ひょうそう)のもので、秩序(ちつじょ)感覚なんてのは、どんどん変わったところで、人間はそれに適応(てきおう)できるものだ。6たとえば、都市化が進めば、たいていの人間は、とくに若者(わかもの)は、都市的な感覚で暮らせる(く   )ようになるものだ。都市には都市なりの秩序(ちつじょ)感覚が生まれる。それでもぼくには、その深層(しんそう)の無意識(むいしき)は、そんなに急には変わらないのではないか、と思えるのだ。
 7たとえばぼくは、月に何回かは、東京と京都を日帰りで往復(おうふく)するような生活が表層(ひょうそう)では自然なようになってしまった。しかし、
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なにかしら深層(しんそう)では、そうした時間でそれだけの距離(きょり)を往復(おうふく)することへの抵抗(ていこう)がある。8移動(いどう)が可能(かのう)になった便利さへの抵抗(ていこう)、そんなものを感じてしまうのである。
 もっとすごい人だと、昨日はパリ、今日は東京、明日はニューヨーク、なんて人もあるかもしれない。そのうちに、それが珍しい(めずら  )ことでなくなるかもしれない。9しかしそれは、何万年もの間、自分の目のとどく範囲(はんい)をテリトリー(なわばり)として生きてきた、このヒトという生物にとって、異様(いよう)なことのような気がしないか。
 それほどでなくても、東京の友人と、電話で話すことは、いまではなんでもなくなった。0これだって、二十年前だと、「長距離(ちょうきょり)電話」はかなり特殊(とくしゅ)なものだったわけで、ずいぶん便利になった。しかしこれだけの距離(きょり)の人間がいつでも声をかわしうるということは、いくらか異様(いよう)なことである。
 飛行機による遠距離(えんきょり)の移動(いどう)とか、電話による遠距離(えんきょり)の交信とか、そうした文明の利益(りえき)を、べつになんの気なしに受けながら、ときにぼくには、心の底のヒトが、なにか抵抗(ていこう)しているような気がする。
 山であったところが、町に変わる。ぼくは山の緑が好きだが、そうしたことを別にしても、あれだけの山林が、これだけの時間に、市街に変化してよいのだろうか、いつもそんな気がする。
 戦後の日本にしても、農村から都市への人の流れが、あまり急速だったような気がする。ひとびとの生活はそれに適応(てきおう)しているが、文化がそれにおいつけないでいるのではないだろうか。戦後日本の物質(ぶっしつ)的変化のスピードに、精神(せいしん)的変化はおいついていないような気がぼくにはするのだ。
 たぶん、社会の急速な変化は、いろいろとチグハグなものをもたらすのだろう。そのチグハグがおもしろいとも言えるし、そうしたものが進歩へのブレーキの役を果たすとも考えられよう。そうしたものが見えてきたのも、いまの時代である。

(森毅(つよし)の文章より)
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a 長文 5.4週 na2
 1樹木(じゅもく)は生命の危険(きけん)を感じると早く子孫を残さなければと多くの種子をつける。実際(じっさい)、柿(かき)の実やどんぐりが豊作(ほうさく)になるようにと子どものころ木の幹(みき)を思いっきり蹴飛ばし(けと  )た経験(けいけん)がある。
 戦後せっせと植えたスギも、林業が儲から(もう  )なくなって手入れがされなくなった。2とくに間伐(かんばつ)がされていないスギ林は、スギ同士の過酷(かこく)な生存(せいぞん)競争でひょろひょろな木となり、ストレスが大きくなっている。こんな環境(かんきょう)によって、スギの木も生命の危険(きけん)を感じ、種子をたくさん残そうと雄花(おばな)をたくさん付け、花粉を大量に撒き(ま )散らしているということなのではないだろうか。
 3九州の熊本(くまもと)から九州自動車道を南下すると、八代インターチェンジを過ぎ(す )てから道路は山間に分け入っていく。多くのトンネルと急カーブが続き、全長約六キロメートルの肥後(ひご)トンネルを抜ける(ぬ  )と、九州で有数の林業地である人吉盆地(ひとよしぼんち)に入る。4道路の両側は急峻(きゅうしゅん)な山地が空を狭め(せば )、森林が天に伸び(の )ている。しかし、近年、その風景に変化が現れ(あらわ )ている。何気なく通る多くの人たちは気付くことはないのかもしれないが、職業(しょくぎょう)柄(がら)、私(わたし)にはどうしても気になってしまう。5それは、至る(いた )ところでかなりの面積にわたり森林が伐採(ばっさい)されていることだ。戦後、せっせと先人たちが植林したスギの林がようやく伐採(ばっさい)できるまでになって、利用されるようになったという意味では好ましい現象(げんしょう)だが、問題なのは、伐採(ばっさい)された箇所(かしょ)に植林された形跡(けいせき)がないことだ。
 6私(わたし)たち、森林・林業にかかわるものからすれば、「伐(き)ったら植える」が常識(じょうしき)である。しかし、今やこのような常識(じょうしき)が常識(じょうしき)でなくなってきている。それどころか、これら植林放棄(ほうき)地の状況(じょうきょう)をみると、森林所有者が森林を土地ごと手放すケースが増え(ふ )ている。7これは、森林を買う木材生産業者が、木材価格(かかく)の下落に伴い(ともな )、採算(さいさん)性(せい)を維持(いじ)するためにより大きな面積の森林を買い入れようとする意
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向があり、これが森林所有者の森林を所有することへの負担(ふたん)感と相まって、土地ごとの売却(ばいきゃく)を後押し(あとお )しているようだ。
 8日本の文化は森と木の文化であるといわれる。
 森林に恵まれ(めぐ  )た国土で、その資源(しげん)を巧み(たく )に利用してきたというのは当たり前だが、とくに日本では、森林を形づくる樹木(じゅもく)の種類が豊富(ほうふ)であることから、樹(じゅ)種の違い(ちが )による木材の性質(せいしつ)も様々であり、その違い(ちが )を上手に使い分けてきた。9住まいや身の回りの道具に至る(いた )まで、こんなものにはどの木を使うという知恵(ちえ)は、すべての人がもっていた。お櫃( ひつ)にコウヤマキ、まな板にイチョウ、つまようじにはクロモジ、下駄(げた)やたんすはキリ、家の土台はクリなどだ。0
 また、木材を無駄(むだ)なく使うということにも意を用いてきた。まさに、日本人は木とともに生き、木によって生活を維持(いじ)し、木の上手な使い方をあみ出してきた民族である。
 しかし、ここ数十年、木の文化は急速に失われつつある。安価(あんか)で均質(きんしつ)に大量生産できる石油化学製品(せいひん)などの代替(だいたい)品が私(わたし)たちの日常(にちじょう)に氾濫(はんらん)するようになったからだ。木材にしても、外国からやってくるものが八割(わり)以上を占める(し  )ようになっている。このままでは、日本の木の文化は、文化財(ぶんかざい)や美術(びじゅつ)品などの特殊(とくしゅ)な伝統(でんとう)文化に残されるだけになるのかもしれない。
 こうなると、国内の木材はますます使われず、価格(かかく)も下落していくだろう。結果、国内の森林を守ってきた林業も立ち行かなくなる。そして、間伐(かんばつ)などの手入れもされず森林の放棄(ほうき)が拡大(かくだい)していくことになる。
 私(わたし)たちにとってなくてはならない森林が、今、危機(きき)に瀕(ひん)している。

(矢部三雄(みつお)『恵み(めぐ )の森 癒し(いや )の木』(講談社(こうだんしゃ)+α新書)より)
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 1この国から一つの種が消えていくことは、たとえていえば私(わたし)たち自身の未来へつながる糸が、一本切れてしまうことにほかなりません。裏返せ(うらがえ )ば、種の多様性(せい)を大切にすることこそが、豊か(ゆた )で安全な人間の未来を約束しうるのです。2さらに、どれだけ多くの生きものがいるかということは、森林の生産力の豊か(ゆた )さを示す(しめ )一つのものさしになります。森林の価値(かち)は、たんに木材などの経済(けいざい)的価値(かち)だけでなく、そこに暮らす(く  )生きものの種類や数も、そのものさしとして含め(ふく )て考えるべきです。3これが、人間と自然の共存(きょうぞん)、共生をめざす新しい考え方です。
 人の思想・信条(しんじょう)や価値(かち)観が画一化された時代が危険(きけん)であったようにそれは自然についても同様のことがいえます。4たとえば、九州のスギノザイタマバエなどによるスギ枯れ(か )のように、単一(たんいつ)樹種(じゅしゅ)で構成(こうせい)されている人工林は一度病虫害が発生すると、いっきに広がり大きな被害(ひがい)をもたらします。とはいうものの、今や日本中の自然林が、スギ、ヒノキの単一経済(けいざい)林にとってかわろうという勢い(いきお )です。5その土地の風土にあった自然林こそあらゆる危険(きけん)に対して、実はもっとも強いのだということを忘れ(わす )てはなりません。
 ブナの森にかぎらず、北海道の亜寒帯(あかんたい)林から沖縄(おきなわ)の亜熱帯(あねったい)林にいたるまで、多様な自然林を守り、健全な状態(じょうたい)で次の世代に手渡し(てわた )ていきたいというのが私(わたし)たちの願いです。6そして、長い間こうした自然林が、風土に根ざした地方文化を育む一つの母胎(ぼたい)ともなってきた歴史的事実も忘れ(わす )てはらないでしょう。
 最近、日本中で、土地土地の固有の自然林が消え、その土地に縁(えん)もゆかりもない「緑」が造り出さ(つく だ )れ、それが当り前の光景となっています。7そうしたことをなんの抵抗(ていこう)もなく受け入れてしまう自然観の欠如(けつじょ)をおそろしいと思います。土地の固有の自然を大切にするということはそれを舞台(ぶたい)にした土地の文化を守ることでもあります。裏返せ(うらがえ )ば、この国の多様な自然こそが、多様な地方文化を支え(ささ )
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ているのです。8その意味で、緑の量を増やす(ふ  )こともさることながら、むしろ、その土地の風土や歴史的必然性(せい)に根ざした緑の質(しつ)、自然の質(しつ)を問うことのできる眼(め)を養いたいものです。
 9その上で、たとえば人知のなせる技(わざ)ともいえる京都北山の人工スギ林もはるか縄文(じょうもん)の昔から受けつがれてきたブナなどの自然林も、ともにすばらしいと言わしめるような、そんなしなやかな感性(かんせい)とバランス感覚を、しっかりと次の世代に伝えておきたいと願わずにはいられません。0
 ブナの森は遠い祖先(そせん)からの贈り(おく )ものであり、そして子孫からの借りものでもあります。私(わたし)たちは二十一世紀へ手渡す(てわた )べき遺産(いさん)の一つとして、この森の将来(しょうらい)に歴史的責務(せきむ)を負っていることを忘れ(わす )てはならないと思います。この国が、母なる森――ブナ原生林を失ったとき、それは私(わたし)たちが孤児(こじ)になるときです。なぜならば人間もまた、自然の子なのですから。
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 1世の中がすべてインスタント化しているのです。インスタント食品はちょうど昭和三〇年代中ごろから出はじめました。そしてそれ以来ずっと私(わたし)たちの暮らし(く  )を取り囲んでいます。2かつては自分で努力をして手をつくして時間をかけて、待っているあいだ心ときめかせて楽しんで、そして結果を得るというので生活が完結しました。ところが、お金を出して始まり、ものを得て終わりといったら、そのあいだは瞬間(しゅんかん)になる。3待たないわけです。高度経済(けいざい)成長期に入って、待つことが消えていってしまいました。カップラーメンの宣伝(せんでん)に「三分間待つのだぞ」というのがありましたが、みなさんはご存知( ぞんじ)ないでしょうね。いまは三分待たなくても、すぐできるんでしょうか。4あるいは、三分は、もうちっとも短い時間じゃなくなったのかもしれません。三分も待つのーと逆(ぎゃく)に売れなくなってしまうのかもしれないですね。世の中めまぐるしく速く動いているのですからね。
 ものごと万事、欲望(よくぼう)がすぐ結果に短絡(たんらく)するようになってしまっている。5本当は何かを願望することと、願望したことが満たされるあいだが実は最も楽しい時間であって、満たされてしまったらもうおしまいなのだというところがあるでしょう。わかりやすくいえば、恋愛(れんあい)なんかまさにそうです。6もちろん、好きだと言ってから、それから先もまた楽しみはありますが、好きになっていくプロセスそのものが実はものすごく、苦しくても楽しい世界ですよね。7彼女(かのじょ)は本当に僕(ぼく)を好いてくれているのかと心配になったり、その時期があるから、好きだということが確認(かくにん)できたときうれしいわけです。もし手軽に得られたら、それはいいかえれば手軽にすてられる世界にもなります。8これはゴミの問題と同じです。手軽に得られるから手軽にすてることができるのです。それではつまらないですね。
 自然のものも、たとえばイチゴなんていまは年中あります。トマトも年中あります。でもかつて旬(しゅん)のときしか食べられなかった。だから、待ち遠しかった。
 9待つ喜びがあったわけです。そして、たとえば旬(しゅん)の初ものを食べると寿命(じゅみょう)が延びる(の  )などということもいいました。初ものを食べると寿命(じゅみょう)がのびる気がするほどうれしいから、そういう言葉か
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出てきたんでしょうね。0あるいは去年食べたときから一年寿命(じゅみょう)があったことを実感できるという幸せがあったから、そういう言葉で表したのかもしれません。
 レジャーにしても、お金を出して得るレジャーに流れていく生活というのは、山の緑、自然の鳥や花と触れる(ふ  )、そういう喜びとは別なんですね。お金で与え(あた )られる喜びの世界に身をゆだねていくことが、季節の喜びを待つ世界をも希薄(きはく)にしているんです。
 困っ(こま )たことですが、余暇(よか)さえもがお金もうけ、金主主義(しゅぎ)のわなの中にはまってしまったようです。商品化され、密室(みっしつ)化されてきました。子どもたちはゲームセンターに、大人たちはパチンコ屋に、孤独(こどく)な時を非(ひ)自然の空間に閉じこもっ(と    )て遊びます。「野外での健康的なスポーツ」としてゴルフが宣伝(せんでん)されていますが、その会員権(けん)は何千万、一億円などという投機の対象であり、ゴルフ場は緑の山をけずって人工的に草を植えた農薬づけの世界なのです。「花と緑」といえば美しい自然を連想させてくれますが、緑の森をつぶして遊園地に作り変えた「花の万博」。高い入園料を払っ(はら )て外国から持ち込ん(も こ )だ植物を無理な気候の中で育てている不自然を見ることになる。あちらこちらとあわただしく交通機関を利用して動きまわれば、一万円はすぐに飛んでしまうしくみのようです。ゆったりと自然の花と緑をたのしむというようにはなっていないのも、お金の世のかなしさなのでしょう。お金によって手軽にということなのです。
 いまのインスタントな時代というのは、欲望(よくぼう)が充足(じゅうそく)されている点だけを見れば幸せそうにみえるけれども、実は大事なものを失っている。本当は不幸な時代かもしれません。

(槌田劭(つちだたかし)『地球をこわさない生き方の本』より)
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a 長文 6.3週 na2
 1ゴミの問題は、限り(かぎ )ある資源(しげん)をどのように有効(ゆうこう)に使うかという大きな課題にもつながっている。ゴミは、物の持ち主から、「おまえはもう役立たずだ。」という、お払(はら)い箱判決(はんけつ)を受けたものだ。2しかし、ある一人の人の、ある一つの目的にはもう役に立たなくなっても、ほかの目的には、あるいはほかの人には、じゅうぶんに役立つことがある。例えば、木製(もくせい)のいすは壊れ(こわ )てしまえば、それに座る(すわ )という目的は達せられない。3しかし、いすに使われている木はじゅうぶんに乾燥(かんそう)していて、狂い(くる )がこなくなっている。木工の材料としてみたら、なかなか値うち(ね  )のあるものである。木工の仕事をしている人にとっては、ぜひとも欲しく(ほ  )なるほどの材料だといってもよい。4それなのに、いすの持ち主がこれはもう要らないと判決(はんけつ)を下すと、それがゴミとして集められて、焼却(しょうきゃく)されてしまうというのでは、ずいぶんむだをしていることになる。5こういうむだをできるだけ小さくしていくこと、つまり、一つの目的には役に立たなくても、それが役立ちそうなほかの用途(ようと)を見つけ出して、物をできるだけ長く生かしてやること、これは、ゴミを少なくするだけでなく、資源(しげん)を有効(ゆうこう)に使うことにもなるわけである。
 6もちろん、物を捨てる(す  )ことにもプラスの面がないわけではない。古いものは不要だと考えて、次々に新しいものに替え(か )ていくという新陳代謝(しんちんたいしゃ)が盛(さか)んであると、次々に需要(じゅよう)が生み出されて、経済(けいざい)活動が活発になる。7これはこれでプラス面である。しかし、その反面として怖い(こわ )のは、みんなが「使い捨て(つか す )式」で物を捨て(す )ていくならば、経済(けいざい)の中に蓄え(たくわ )られていくものがなくなるということである。8せっかく作り出した物、せっかく買ったものをすぐ「不要だ。」と判決(はんけつ)を下して捨て(す )てしまうのでは、また同じ物を作ったり買ったりすることに精力(せいりょく)を使わなくてはならない。9一度作り出したり買ったりしたら、今度は別の物を作ったり買ったりするのに精力(せいりょく)を使ってこそ、物は本当に豊か(ゆた )になっていくのである。何も蓄え(たくわ )られた物がなくて同じ物を繰り返し(く かえ )繰り返し(く かえ )手に入れようとあくせくするようでは、生活に進歩は生まれない。0
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 日本のことわざに、「捨てる(す  )神あれば拾う神あり。」という。これをもじっていえば、わたしたちはどんどん紙を捨て(す )てゴミを作り出しており、「捨てる(す  )カミ(紙)」がいっぱいなのだから、そういうゴミを「拾うカミ(神)」がいてくれなくては困る(こま )のである。
 しかし、そういう神様は、どこか空の高い所に住んでいるのでもなくどこかのほら穴(  あな)に潜ん(ひそ )でいるのでもない。人間が知恵(ちえ)を出して生み出さなければならないものである。
 物を作るときには、再生(さいせい)利用することを初めから考えて作るというのも、神様を生み出す方法の一つになるだろう。できるだけ長持ちする製品(せいひん)を割安(わりやす)にするようにくふうするのも、その一つだろう。今いろいろな知恵(ちえ)を出し合って、ゴミをできるだけ少なくし、資源(しげん)を有効(ゆうこう)に使うようにしないと、やがて人間そのものが地球から捨て(す )られてしまうかもしれないのである。

(岸本重陳(しげのぶ)の文章より)
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 1大学だけでなく、各地の保育園(ほいくえん)や幼稚園(ようちえん)に講演(こうえん)に行く機会もかなりあって、参観に来た母親と子どもの様子をそれとなく観察してきました。極端(きょくたん)にことば数が少ないお子さんの場合、母親のタイプは二通りに分けられるのではないかと思います。
 2一つは、お母さん自身も無口で引っ込み思案(ひ こ じあん)、自己(じこ)主張(しゅちょう)が少なく、ウサギのようにほとんど声を出さないというケースです。おしめを換える(か  )にも、授乳(じゅにゅう)するにも、靴(くつ)をはかせるにも、すべて黙々と(もくもく )行っている。3気質(きしつ)の遺伝(いでん)などもあるでしょうが、子どもの側からすれば、どういう局面でどういうことばを用いるのか、模範(もはん)を示し(しめ )てもらうチャンスが少ないのですから、自分のことばが出てくるまでに、時間がかかるのは当然かもしれません。4ようするにこれは、マザリーズのところで述べ(の )た「くりかえし」の不足だと思います。
 もう一つは逆(ぎゃく)に、母親がひどくおしゃべりで、子どもの自発性(せい)を生かす「間」が不足している場合です。子どもは家で四六時中ことばのシャワーを浴びているはずなのに、なぜこんなに無口なのか。5ほんとにこれがあの母親の子なのかと、わが目わが耳を疑う(うたが )ことがあります。でも長い目で見ると、やはり、因果(いんが)関係の釣り合い(つ あ )が、ちゃんと保た(たも )れているのかもしれません。ふだんはほとんどおしゃべりしない子が、ある日突然(とつぜん)、母親のいないときにかぎって、堰(せき)を切ったように話しはじめる。6いったいこの子、どうなってるのと、まわりの人はびっくり。しばらくすると、ピタッとおさまって、何事もなかったかのようにまた無口な子どもにもどります。そういう子はえてして、大人になってからも、ふだんは寡黙(かもく)な、はにかみやと見なされている場合が多いようです。
 7母親との語らいが子どもの脳(のう)を活性(かっせい)化するという川島さんの実験データは、じつに興味深い(きょうみぶか )ものがあります。だとすれば、臨界(りんかい)期の中心に位置すると思われる大切な時期に、魔法使い(まほうつか )であるはずの母親が魔法(まほう)の力をふるうことを怠れ(おこた )ば、刷り込み(す こ )の力ははたらかないわけです。
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 8「三つ子の魂(たましい)百まで」ということは、三歳(さい)までに学んだことが、百年分に匹敵(ひってき)する決定的な影響(えいきょう)を与える(あた  )ということではないでしょうか。ですから、もし母親が一分間、赤ちゃんに話しかけるとすれば、単純(たんじゅん)計算だけでもその約三十三倍、つまり三十三分間話しかけただけの効果(こうか)を生みます。9十分間話しかければ、三百三十分、五時間以上話しかけただけの質的(しつてき)な影響(えいきょう)力をもつことになります。
 すでにマザリーズのところで述べ(の )たように、母親の話しかけには、くりかえしだけでなく「間」が大切ですが、間を生かすためには、母親の心がその場に居合わせる(いあ   )ことが肝心(かんじん)だと思います。0授乳(じゅにゅう)しながら赤ちゃんに優しく(やさ  )話しかければ、赤ちゃんは体の栄養分だけでなく、同時に「魂(たましい)の糧(かて)」も吸収(きゅうしゅう)しているわけです。もしその時、母親が片手間(かたてま)に新聞を読んでいたり、テレビの画面に夢中(むちゅう)だったり、赤ちゃんから気がそれていたりしたらどうでしょう。そこには気持ちのキャッチボール、つまり心と心の対話が欠如(けつじょ)しているのではないかと思います。赤ちゃんはおそらく、母親の気持ちが自分に、向けられていないことを感知し、心のどこかで欲求(よっきゅう)不満を覚えているにちがいありません。
 ことばと心は、深いところでしっかりつながっています。育児や、家事、職業(しょくぎょう)、趣味(しゅみ)などの明け暮れ(あ く )で、どんなに忙しい(いそが  )母親でも、子どもに接する(せっ  )ときは一期一会、目を見つめながら、心をこめて話しかけたいものです。

(川島隆太(りゅうた)・安達忠夫(ただお)「『脳(のう)と音読』「講談社(こうだんしゃ)現代新書(げんだいしんしょ)」所収(しょしゅう)による」)
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