a 長文 5.2週 na2
 しばらくかげをひそめていた教養という言葉が、またもや人々の注意をひくようになった。かわいた海綿かいめんのように人々はできるだけたっぷりと教養を身に吸いこます   せようとあせっている。結構けっこうなことだと思うが、教養という言葉については従来じゅうらいから一つの誤解ごかいが広く行われているようにわたしには思われる。というのは、雑誌ざっしや書物、ないしは講演こうえんなどで、いわゆる教養講座こうざといわれているものを見ると、そのほとんどが、多種多様な知識ちしきの、しかもその断片だんぺん紹介しょうかいに終始しているように見えているからである。そうして世間でも、いろんなことを雑然とざつぜん 心得ていて、どんな話題にでも口を出せる人を、教養の高い人と簡単かんたんにきめてしまっている。
 しかし、教養と知識ちしきとは決して同じものではないのである。というよりは、知識ちしきはそのままでは決して教養にはならないのである。いくら絵かきの名前をたくさん知っていても、美に対する感覚がちっともみがかれていないような人は、美術びじゅつの教養のある人ということができない。作家や作品に広く通じていても、人間の感情かんじょう生活や人生のしょ問題に粗雑そざつな考察しかめぐらすことのできないような人間には、文学は少しも教養とはなっていないのである。
 もちろん教養には知識ちしきや学問が必要である。いかに耳の感覚の鋭敏えいびんな人でも、ベートーヴェンもショパンもきいたことのないような人を音楽の教養のある人ということはできない。つまり教養とは、その人の血となり肉となり、その人の人格じんかくを内部からしっかりと支えささ ているような知識ちしきを指すのであり、教養によってその人の天性てんせいの感覚や人格じんかくがますますみがかれ、深められ、高められて行かなければならないのである。知識ちしき人格じんかく没交渉ぼっこうしょう状態じょうたいにある場合には、真の教養は決して生まれることができない。無知無学の人を教養ある人間ということはできないが、博識はくしきの学者にも教養のない人間は少なくないのである。
 次に注意しておきたいことは、教養を身につけるということは、知的貴族きぞくになることでは決してないということである。例え
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ば、美術びじゅつ鑑賞眼かんしょうがんを養うことによって、普通ふつうの人々には感じえない深さにまで絵画や彫刻ちょうこくの美しさを感じえた場合、自分か一般いっぱんの人々よりは一段といちだん 高尚こうしょうな人間になったような誇りほこ をいだくことは有りがちのことであるとしても、そのような誇りほこ をいだくために、またそのような特権とっけん階級とならんがために、教養を深めようとするのであるとすれば、その人はついに真の教養を身につけることはできないであろう。なぜなら、くりかえして言うように、教養の目的は、あくまで自己じこの人間完成の上に置かれなければならないからである。

河盛好蔵かわもりよしぞう『愛・自由・幸福』より)
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