a 長文 5.3週 na2
 表面的な生活の上では、人間というものは、案外に早く適応てきおうするものだ。二十年前のことなど、すっかり忘れわす て、今の生活にどっぷりつかることが可能かのうである。
 しかし、心の底のほうは、それほど早くは、変われないのではないだろうか。さらに、人間たちの心の共通の底、いわば人間たちの文化と力とか、情感じょうかんとかいったものは、それほど変われないのではないだろうか。
 これも、表面的には風俗ふうぞくはめまぐるしく変わる。流行のうつり変わりは早い。それにともなって、生活態度たいども変わる。表面的に見るかぎり、人間の価値かち観が、どんどん変わっているように見える。
 とくに若者わかものの場合、古いものを持たないだけに、その時代の表層ひょうそう感覚をものにすることは簡単かんたんである。いつでもおとなたちは若者わかものを特別の目で見ようとする。ぼくの若いわか 時代だってアプレ(戦後)と呼ばよ れたものだ。
 それでも、表層ひょうそう意識いしきではなくて、人間たちに共通の、深層しんそう無意識むいしきにとっては、時間の流れは意外におそいのではないだろうか。それが、文化といった形になるには、ゆっくりとした時間が必要なのではないか。それで、あまり急速な変化は、深層しんそう無意識むいしきによってうらぎられたりする。
 ぼくはなにも、いままでの秩序ちつじょ感覚を絶対ぜったい的なものと、考えるわけではない。それも、表層ひょうそうのもので、秩序ちつじょ感覚なんてのは、どんどん変わったところで、人間はそれに適応てきおうできるものだ。たとえば、都市化が進めば、たいていの人間は、とくに若者わかものは、都市的な感覚で暮らせるく   ようになるものだ。都市には都市なりの秩序ちつじょ感覚が生まれる。それでもぼくには、その深層しんそう無意識むいしきは、そんなに急には変わらないのではないか、と思えるのだ。
 たとえばぼくは、月に何回かは、東京と京都を日帰りで往復おうふくするような生活が表層ひょうそうでは自然なようになってしまった。しかし、
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なにかしら深層しんそうでは、そうした時間でそれだけの距離きょり往復おうふくすることへの抵抗ていこうがある。移動いどう可能かのうになった便利さへの抵抗ていこう、そんなものを感じてしまうのである。
 もっとすごい人だと、昨日はパリ、今日は東京、明日はニューヨーク、なんて人もあるかもしれない。そのうちに、それが珍しいめずら  ことでなくなるかもしれない。しかしそれは、何万年もの間、自分の目のとどく範囲はんいをテリトリー(なわばり)として生きてきた、このヒトという生物にとって、異様いようなことのような気がしないか。
 それほどでなくても、東京の友人と、電話で話すことは、いまではなんでもなくなった。これだって、二十年前だと、「長距離ちょうきょり電話」はかなり特殊とくしゅなものだったわけで、ずいぶん便利になった。しかしこれだけの距離きょりの人間がいつでも声をかわしうるということは、いくらか異様いようなことである。
 飛行機による遠距離えんきょり移動いどうとか、電話による遠距離えんきょりの交信とか、そうした文明の利益りえきを、べつになんの気なしに受けながら、ときにぼくには、心の底のヒトが、なにか抵抗ていこうしているような気がする。
 山であったところが、町に変わる。ぼくは山の緑が好きだが、そうしたことを別にしても、あれだけの山林が、これだけの時間に、市街に変化してよいのだろうか、いつもそんな気がする。
 戦後の日本にしても、農村から都市への人の流れが、あまり急速だったような気がする。ひとびとの生活はそれに適応てきおうしているが、文化がそれにおいつけないでいるのではないだろうか。戦後日本の物質ぶっしつ的変化のスピードに、精神せいしん的変化はおいついていないような気がぼくにはするのだ。
 たぶん、社会の急速な変化は、いろいろとチグハグなものをもたらすのだろう。そのチグハグがおもしろいとも言えるし、そうしたものが進歩へのブレーキの役を果たすとも考えられよう。そうしたものが見えてきたのも、いまの時代である。

(森つよしの文章より)
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