a 長文 1.1週 ne
1「うーん、どう書こうかなあ」
 私(わたし)にとって、毎年の年賀状(ねんがじょう)作りは大変なものだ。なぜかというと、ついつい凝り(こ )すぎてしまうからである。やはり年賀状(ねんがじょう)は手書き、手作りがいちばんだと思う。2父はパソコンで年賀状(ねんがじょう)を印刷しているが、私(わたし)は断固(だんこ)として手作りにこだわっている。一枚(まい)一枚(まい)、感謝(かんしゃ)の思いを込め(こ )ながら、宛名(あてな)を書く。もちろん、裏面(うらめん)だってすべてオリジナルの構図(こうず)を考えて作っていく。
 3今年の年賀状(ねんがじょう)では、いも判(ばん)に挑戦(ちょうせん)してみた。サツマイモを輪切りにして、彫刻(ちょうこく)刀で削っ(けず )てハンコにするのだ。かなり大変だったが、干支(えと)である「卯(う)」や、「賀正(がしょう)」という文字を彫っ(ほ )た。
 4そんなふうに手をかけるので、出来上がった年賀状(ねんがじょう)を出すのはいつもぎりぎりだ。分厚い(ぶあつ )年賀状(ねんがじょう)の束をポストに押し込ん(お こ )で、私(わたし)はようやく、安心してお正月を迎え(むか )られる。
 5しかし、私(わたし)の年賀状(ねんがじょう)作りは、年が明けてもまだ終わらない。毎年必ず、私(わたし)が出さなかった意外な人から年賀状(ねんがじょう)が届く(とど )からだ。こういう驚き(おどろ )があることも、新年の楽しみの一つだろう。6けれども、もらった年賀状(ねんがじょう)には返事を書かなければいけない。そうして私(わたし)は、またまた机(つくえ)に向かう羽目になる。
 今年のお正月、そんなときに事件(じけん)は起きた。
7「いも判(ばん)がない!」
 私(わたし)が叫ぶ(さけ )と、こたつでくつろいでいた家族が、一斉(いっせい)にこちらを見た。一生懸命(いっしょうけんめい)作ったいも判(ばん)が、いつの間にかなくなっていたのだ。これでは返事を書くことができない。
 8家族を無理やり起こして、こたつ布団(ぶとん)を引きはがしてまで探し(さが )た。まるで、去年やり忘れ(わす )た大掃除(そうじ)を今ごろやっているかのようなありさまだった。しかし、それでも見つからない。
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 9私(わたし)がしょげていると、飼い犬(か いぬ)のユメが足元に寄っ(よ )てきた。慰め(なぐさ )てくれるのかと感動したが、よく見ると、その口あたりの毛が赤くなっている。私(わたし)はハッとした。
「犯人(はんにん)は、おまえだな!」
 0そう。なくなったいも判(ばん)は、今はユメのお腹(なか)の中(なか)。材料がおいもだっただけに、置いておいたものをユメがぺろりと食べてしまったのだ。
「では、おまえをいも判(ばん)の代わりに」
 私(わたし)はユメをつかまえると、その肉球に朱肉(しゅにく)をつけて、返事の年賀状(ねんがじょう)にペタン、と押し(お )た。いも判(ばん)ならぬ「いぬ判(ばん)」というわけだ。自分のしたことが分かっていないのか、ユメはうれしそうにしっぽを振っ(ふ )ていた。
「えーと、干支(えと)じゃないけどごめんね。」
 戌年(いぬどし)ならよかったのに、と私(わたし)は心の中でつぶやいた。だが、これはこれでかわいらしくて、いいかもしれない。
「災い(わざわ )転じて福となす」ということわざもある。こだわって作るのもいいが、とっさにひらめくアイデアで対処(たいしょ)することも大切だ、とわかった気がした。
「うん、これでよし!」
 私(わたし)は笑顔で、ユメと顔を見合わせた。

(言葉の森長文作成委員会 ι)
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a 長文 1.2週 ne
 1そっ啄(  たく)の機という言葉がある。得がたい好機の意味で使われる。比喩(ひゆ)であって、もとは、親鶏(おやどり)が、孵化(ふか)しようとしている卵(たまご)を外からつついてやる、それと卵(たまご)の中から殻(から)を破ろ(やぶ )うとするのとが、ぴったり呼吸(こきゅう)の合うことをいったもののようである。
 2もし、卵(たまご)が孵化(ふか)しようとしているのに親鶏(おやどり)のつつきが遅れれ(おく  )ば、中で雛(ひな)は窒息(ちっそく)してしまう。逆に(ぎゃく )、つつくのが早すぎれば、まだ雛(ひな)になる準備(じゅんび)のできていないのが生まれてくるわけで、これまた死んでしまうほかはない。
 3早すぎず遅(おそ)すぎず。まさにこのときというタイミングがそっ啄(  たく)の機である。
 自然の摂理(せつり)はおどろくほど精巧(せいこう)らしいから、ほかにもいろいろな形でそっ啄(  たく)の機に相当するものがあるに違い(ちが )ないが、かえる卵(たまご)はもっとも劇的(げきてき)なものといってよかろう。
 4われわれの頭に浮かぶ(う  )考えも、その初めはいわば卵(たまご)のようなものである。そのままでは雛(ひな)にもならないし、飛ぶこともできない。温めてかえるのを待つ。
 時間をかけて温める必要がある。だからといって、いつまでも温めていればよいというわけでもない。5あまり長く放っておけばせっかくの卵(たまご)も腐っ(くさ )てしまう。また反対に、孵化(ふか)を急ぐようなことがあれば、未熟(みじゅく)卵(らん)として生まれ、たちまち生命を失ってしまう。
 ちょうどよい時に、卵(たまご)を外からつついてやると、雛(ひな)になる。6たんなる思いつきが、まとまった思考の雛(ひな)として生まれかわる。
 われわれはほとんど毎日のように、何かしら新しい考えの卵(たまご)を頭の中で生み落としている。ただそれを自覚しないだけである。これがりっぱな思考に育つのは、実際(じっさい)にごくまれな偶然(ぐうぜん)のように考えられている。
 7卵(たまご)はおびただしく生まれているのに、適時(てきじ)に殻(から)を破っ(やぶ )てくれるきっかけに恵まれ(めぐ  )ないために、孵化(ふか)することなく、闇(やみ)から闇(やみ)へ葬り(ほうむ )去られているのであろう。
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 逆に(ぎゃく )、外から適当(てきとう)な刺激(しげき)が訪れ(おとず )て、破る(やぶ )べき卵(たまご)の殻(から)がありさえすれば、孵化(ふか)が起こるのにと思われるときもすくなくなかろう。8ところがそういう時に限っ(かぎ )て、皮肉にも頭の中にちょうどその段階(だんかい)に達している卵(たまご)がない、ということが多い。せっかく、ついばむ力が外から加わっているのに、こうしてむなしく機会を逸し(いっ )てしまうことになる。
 9頭の中に卵(たまご)が温められていて、まさに孵化(ふか)しようとしているときなら、ほんのちょっとしたきっかけがあれば、それで雛(ひな)がかえる。この千に一番のかね合いが難しい(むずか  )。それでそっ啄(  たく)の機が偶然(ぐうぜん)の符合(ふごう)のように思われるのである。0古来、天来の妙(みょう)想、インスピレーション、霊感(れいかん)などといわれてきたのも、それがいかに稀有(けう)のことであるかを物語っている。
 たとえ稀有(けう)だとしても、起こることは起こっているのである。人間ならだれしも霊感(れいかん)のきっかけの訪れ(おとず )は受けるはずで、それをインスピレーションにするか、流れ星のようなものにしてしまうかの違い(ちが )にすぎない。これには運ということもある。いくら努力してみても運命の女神がほほえみかけてくれなければ、着想という雛(ひな)はかえらないであろうと思われる。もっともどんなに運命が味方してくれても、もとの卵(たまご)がないのでは話にならない。人事を尽くし(つ  )て天命を待つ。偶然(ぐうぜん)の奇蹟(きせき)の起こるのを祈る(いの )。
 すこし話が神秘(しんぴ)的になってきた。もっと日常(にちじょう)的な次元で考えてみよう。
 何でもない人間と人間とが、たまたま知り合いになる。互いに(たが  )不思議な感銘(かんめい)を与え(あた )合って、それがきっかけになって、めいめいの人生がそれまでとは違っ(ちが )たものになるということがある。出会いである。一期一会だという。
 ほかの人たちとどれほど親しく交わっていても得られなかったものが、何気ない出会いで与え(あた )られる。ここにもそっ啄(  たく)の機が認め(みと )られる。われわれはそれと気付かずに、そういう偶然(ぐうぜん)を一生さがし求
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長文 1.2週 neのつづき
めつづけているのかもしれない。
 それにめぐり会えたとき、奇蹟(きせき)が起こるというわけだ。
 難解(なんかい)な本は一度ではよくわからない。それに絶望(ぜつぼう)しないで、くりかえし読んでいると、そのうちに理解(りかい)できるようになる。読書百遍(へん)意おのずから通ず。古人はそう教えた。思考も同じことで、初めから全体がはっきりすることはすくない。何度も何度も考えているうちに、自然に形をあらわしてくる。
 人間にとって価値(かち)のあることは、大体において、時間がかかる。即興(そっきょう)に生まれてすばらしいものもときにないではないが、まず普通(ふつう)はじっくり時間をかけたものでないと、長い生命をもちにくい。寝(ね)させておく。温めておく。そして、決定的瞬間(しゅんかん)の訪れる(おとず  )のを待つ。そこでことはすべて一挙に解明(かいめい)される。
 『論語(ろんご)』の冒頭(ぼうとう)にある一句(いっく)「学ビテ時ニ之(これ)ヲ習フ、亦(また)説(よろこ)バシカラズヤ」も読書百遍(へん)と同じように考えることができるかもしれない。勉強したことを機会あるごとに復習(ふくしゅう)していると、知識(ちしき)がおのずからほんものになって身につく。それが愉快(ゆかい)だというのである。学んで時にこれを習う、そっ啄(  たく)の機はいつやってくるかしれない、折にふれて立ち返ってみる必要がある、と教えているのであろうか。
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a 長文 1.3週 ne
 1ソクラテス(紀元前四七〇~()三九九年)は、おそらく哲学(てつがく)の歴史をつうじてもっとも謎(なぞ)めいた人物だろう。ソクラテスはたったの一行も書かなかった。なのにヨーロッパの思想に最大級の影響(えいきょう)をおよぼした一人とされている。2ソクラテスがとんでもなくみっともない男だったことはたしかだ。チビで、デブで、目つきが陰険(いんけん)で、はなは空を向いていた。けれども心は「金無垢(きんむく)のすばらしさ」だったという。ソクラテスの母親はお産婆(さんば)さんだった。3そしてソクラテスは自分のやり方を産婆(さんば)術(じゅつ)にたとえていた。たしかに子供(こども)を産むのは産婆(さんば)ではない。産婆(さんば)はただその場に立ち会ってお産を手伝うだけだ。ソクラテスは、自分の仕事は人間が正しい理解(りかい)を「生み出す」手伝いをすることだ、と思っていた。4なぜなら本当の知は自分のなかからくるものだからだ。他人が接ぎ木(つ き)することはできない。自分のなかから生まれた知だけが本当の理解(りかい)だ。(中略(ちゅうりゃく))
 5ソクラテスはソフィストたちの同時代人だった。ソフィストたちと同じようにソクラテスも人間と人間の生活を論じ(ろん )、自然哲学(てつがく)者たちの問題にはかかわらなかった。(中略(ちゅうりゃく))6けれどもソクラテスは重要なところでソフィストたちとはちがっている。ソクラテスは、自分は知識(ちしき)(ソフォス)のある人間やかしこい人間ではないと考えていた。だからソフィストたちとは反対に教えてもお金を取らなかった。7そうではなくてソクラテスはことばの本当の意味で自分は哲学(てつがく)者(フィロソフォス)だと名乗ったんだ。フィロソフォスとは「知恵(ちえ)を愛する人」ということだ。知恵(ちえ)を手に入れようと努力する人のことだ。(中略(ちゅうりゃく))8哲学(てつがく)者は自分があまりものを知らないということを知っている。だからこそ哲学(てつがく)者は本当の認識(にんしき)を手に入れようといつも心がけている。ソクラテスはそういうめったにいない人間だった。ソクラテスは自分は人生や世界について知らない、とはっきり自覚していた。9そしてここが大切なところだよ、自分がどれほどものを知らないかということでソクラテスはなやんでいたのだ。哲学(てつがく)者とは自分にはわけのわからないことがたくさんあることを知っている人、そしてそのことになやむ人だ。だから哲学(てつがく)者はひとり合点の知識(ちしき)でもってはな高だかの半可通(はんかつう)よりもずっとかしこいのだ。
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0「もっともかしこい人は自分が知らないということを知っている人だ」とはもう言ったよね。ソクラテスはこういう言い方もしている。わたしは自分が知らないというたった一つのことを知っている、とね。このことば、メモしておくこと。なぜなら哲学(てつがく)者たちのあいだでもこんな告白はめったにないからだ。さらにはこんなことをおおっぴらに言うのは、命にかかわるたいへん危険(きけん)なことでもあった。いつの世にも疑問(ぎもん)を投げかける人はもっとも危険(きけん)な人物なのだ。答えるのは危険(きけん)ではない。いくつかの問いのほうが千の答えよりも多くの起爆(きばく)剤(ざい)をふくんでいる。『裸(はだか)の王様』の話は知っているよね? 本当は王様はまっ裸(はだか)なのに家来のだれ一人そう言う勇気がなかった。ふいに子どもがさけぶ。王様は裸(はだか)だ、と。勇気ある子どもだね、ソフィー。これと同じようにソクラテスは人はどれほどものを知らないかをはっきりさせた。裸(はだか)だということをつきつけた。つまりこういうことだ。ぼくたちはふさわしい答えがおいそれとは見つからないような重要な問いをつきつけられる。ここから先、道は二つある。一つは自分と世界を全部ごまかして、知る値打ち(ねう )のあることはすべて知っているみたいなふりをする道。もう一つは大切な問いには目をつぶって前に進むことをすっかりあきらめるという道。とまあ人間は二種類に分かれるんだね。少なくとも人間は思いこみが強くてかたくなか、どうでもいいや、と思っているかのどちらかだ。これはトランプのカードが分けられるようなものだ。黒のカードはこっちの山に、赤のカードはそっちの山にと積みあげていく。ところがジョーカーが出てくる。これはハートでもクラブでもないし、ダイヤでもスペードでもない。ソクラテスはアテナイのジョーカーだったんだ。彼(かれ)は思いこみが強くてかたくなでもなかったし、どうでもいいと思ってもいなかった。ソクラテスは自分は知らないということを知っていただけだ。そしてそのことを思いつめていた。それでソクラテスは哲学(てつがく)者になったのだ。あきらめない人、知恵(ちえ)を手にいれようとあくことなく努める人に。
(ヨースタイン・ゴルデル)
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a 長文 1.4週 ne
 ぼんゴロ二つをだしただけで、ぼくらはアオたちを無得点におさえ、なんなく一回表をおえた。てんで気をよくしちゃったぼくらは、いきおいにのって攻撃(こうげき)にうつった。
「小細工よりも、じゃかすか、かっとばしなさい。むこうのボールは、内角低めをねらってるだけだから、バットを短めに持ってあわせていくのよ。」
 キリコがしんけんな目つきで、ぼくらに作戦をあたえてくれる。いまじゃキリコはぼくらの監督(かんとく)けんコーチで、ぼくらに負けないくらい試合に身を入れてくれるんだ。こいつはいっそうぼくらをはりきらせた。
 試合は五回戦だけど、やつらもなかなかねばる。それに四回戦になると、暑さのせいか、ジックのボールのスピードがおちた。こいつをばちばちひっぱたかれて、二塁打(にるいだ)一つ、三塁打(さんるいだ)二つを取られちまった。得点は八-六と、まだリードしてたけど、ジックはすっかりくさり、くさったとこへ、アオのやつが、みんなをあおりたててやじりはじめた。ジックは完全にダウンだ。コントロールまでみだれちゃって、暴投(ぼうとう)を二度もやり、四球やエラーを続出させた。
 どうにか守備(しゅび)陣(じん)がそれをカバーして、とにかく四回の表はおわらせたけど、結果はさんたんたるもので、八-十とひどい逆転(ぎゃくてん)をやられちまった。
 ベンチにもどると、ジックはグローブを力いっぱい地面にたたきつけた。
「おれは、もう、野球をやめた!」
 そうとう頭にきちゃったらしくて、ぼくやキリコがいくらなだめても、ますますかっかっしちゃうばかりなんだ。ぼくもすぐ頭にきちゃうほうだけど、ジックのはちょっと特別製(せい)なんだ。
 ミツコやデッコが、景気づけのために、みんなをリードして、いせいのいい歌をうたってくれたりしたけど、ぼくらはしょぼくれちまって、戦意もだんだん遠のいてくんだ。
「おどろいた子たちね。わたしがいつもいってるでしょ。『勝ち』『負け』で、なんでもわりきっちゃおうとするから、そんなことになるのよ。さあ、負けるとわかっても、戦うだけは戦わなければいけないわ。どんなはめになったって、その中でせいいっぱいの努力をするのよ。」
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 キリコはバッターに立つ者ひとりひとりのしりを、大きな手で、ぴしゃぴしゃひっぱたいては元気づけた。が走者、一、三塁(さんるい)のチャンスもむなしく、無得点におわっちまった。
 まだふてくされているジックをとりまいて、守備(しゅび)につく気にもなれず、ぼくらは、タイムを要求して、ぶらぶらしていた。
 六組のきたないやじは、ますますさかんになってくる。ミツコやデッコたちが、負けずにやりかえすのだけど、それもなんだかしだいにいきがさがる。ぼくも最初のうちは、みんなとどなったりしていたんだけど、ジックのがんこさにあきれ、ジックにはらをたてた。
「じゃあ、おまえは、この試合を不戦敗にしようってのかい。」
 ぼくはジックをにらみつけた。けど、ジックのやつグローブをひっぱたくばかりで、さっきからなにもいわないんだ。
 ピッチャーはジックしかいないから、ぼくらはもうどうしようもないんだ。ほかのやつに投げさせれば、もっともっとわるい結果になるのはわかりきっている。それでここんとこは、どんなことしたって、なんとかジックに投げてもらわなけりゃならない。とぼくは決心した。
「あ、あのサブちゃん――。」
 そのとき、おずおず横のほうから、ぼくに話しかけたやつがいた。
「なんだ。うるさいな。」
 ふりむいてぼくはそいつをにらみつけた。すっかりいらいらしてたんだな。
 立っていたのは金井(かない)だった。みんながなにごとかというふうに、金井(かない)のまわりに集まってきた。さじを投げたように、遠くのベンチからぼくらをながめていたキリコも、立ちあがってこっちを見てる。
「ぼくに、投げさせて、みてよ。」
 ひとつひとつのことばを、くぎるように、金井(かない)ははっきりいった。
「なんだって!」
 ぼくはじぶんの耳をうたがった。もやしのうまれかわりみたいにひょろひょろして、おまけに、いままでだって野球をしてるのなんか見たこともないやつなんだから、それもむりないというもんだ。
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長文 1.4週 neのつづき
 ところが金井(かない)のやつ、よっぽど心をきめてるらしく、もいちどはっきり、
「ぼくに投手をやらせてよ。」
といったんだ。ぼくは思わずわらっちまった。でも、金井(かない)の顔は真剣(しんけん)なんだな。奥歯(おくば)をぎゅっとかみしめて、まともにぼくを見つめるようすにあっとうされて、ぼくらはだまりこんじまった。
「よし!」と、ぼくは金井(かない)の上気した顔にむかっていた。「投げてみろ。」
 みんながざわめいた。ベンチにいたジックが、なにかいいたそうだったけど、ぼくはかまわずみんなにかたを組ませ、「いくぞっ!」とさけんだ。みんなもさけんだ。ぼくらは七度さけんだ。ミツコやデッコたちみんながかん声をあげ、拍手(はくしゅ)し、ぼくらをはげました。ジックがベンチでそわそわしてた。キリコがぼくらにウインクを送ってよこした。
 金井(かない)はファーストミットを取った。
「おまえはピッチャーをやるんだろ。」
と、ぼくはすこしあきれていった。みんながわらった。
「これが使いなれてるんだ、ごめんよ。」
 金井(かない)はわらい、それから、ベンチに取り残されたようにすわり、しりをもぞもぞ動かしているジックのところにかけていった。
「いっしょうけんめい投げてみるから、そのあいだにちょうしをなおしといてよね。」
金井(かない)はそれだけいいおわると、ひどくはずかしいことをしたかのように走ってマウンドにのぼった。
 ぼくら九人は顔を見あわせ、ちょっとくちびるをかんでわらった。やれるとぼくらは思った。そうさ、六組になんか、負けてたまるもんか! ぼくは、ジックにしかめっつらを作っておどけてみせ、みんなといっしょに、声をだしあいながらポジションについた。
 金井(かない)は左だった。うまいというほどではなかったけど、コントロールがきいたから、左だというだけで、けっこう六組の攻撃(こうげき)をおさえることができた。それでもその回で二点入れられた。
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 スコアは八-十二だ。だけど、それぐらいはものの数ではなかった。やる気じゅうぶんのいま、四点ぐらい、なんなくとりもどせると思えた。自信は前からあったんだ。ただ、くさっちまって、やる気をなくしてただけなのさ。
「お天気屋さんたち、がんばるのよ。野球は最終回の裏(うら)からよ。」
 キリコは金井(かない)の頭に手をおいて、ぼくらをはげました。
 金井(かない)はジックにむかって、
「打つほうはてんでだめだから。」
と、バッターをゆずった。ジックだって、いつまでもぐずぐずしてるやつじゃない。
「すまん。」と、金井(かない)を見ていい、「さっきはわるかったな。」
と、ぼくらにいった。ぼくらはジックをひやかしてわらった。
「ほんとに、ありがと。」と、ジックはもいちど金井(かない)にいった。
 金井(かない)はまっかになってうつむき、しきりと二点入れられたことを気にした。ぼくらは金井(かない)のせなかやかたや、頭をたたき、「気にするな。」「ドンマイ。」「ドンマイ。」
といった。クラスのみんなが、いせいのいい歌をうたう中で五回の裏(うら)、ぼくらは最後の攻撃(こうげき)をかけた。

(後藤(ごとう)竜二(りゅうじ)「天使で大地はいっぱいだ」)
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a 長文 2.1週 ne
1「今年の恵方(えほう)は、南南東だから、窓(まど)の方を向いて食べるのよ。」 
そう言って、母は、恵方(えほう)巻き(ま )を家族みんなに配った。父は、 
「恵方(えほう)だか阿呆(あほう)だか知らないけど、昔は、こんなことはやらなかったなあ。」 
などとぶつぶつ文句(もんく)を言っている。2そんな父を横目で見ながら、母は、 
「さあ、始めるわよ。用意、スタート。」 
と、威勢(いせい)のいいかけ声をかけた。そのかけ声に後押し(あとお )されるようにみんなで恵方(えほう)巻き(ま )を食べ始める。恵方(えほう)巻き(ま )を食べるときには笑ってはいけない。3「笑う門には福が来る」ということわざも、節分には通用しないらしい。 
 私(わたし)はいつも、なぜか笑いをこらえきれなくなり、くすくすと笑ってしまう。だから、今年こそは、最後まで笑わずに食べようと決心していた。しかし、スタートと同時に、もう笑いが込み上げ(こ あ )てくる。4しばらくは、必死にその笑いをこらえていたが、こらえればこらえるほど、おかしさがつのり、私(わたし)は思わず吹き出し(ふ だ )てしまった。それをきっかけに、姉が笑い出し、私(わたし)たちを横目で見ていた父の表情(ひょうじょう)も崩れ(くず )た。気づくと、父は、目に涙(なみだ)を浮かべ(う  )ながらくっくっくっと笑いをこらえている。5そんな中、ただ一人冷静なのは、母だ。顔色一つ変えず、南南東を向いて、黙々と(もくもく )恵方(えほう)巻き(ま )を食べている。姉も私(わたし)も、母の、この強靭(きょうじん)な精神(せいしん)力を受け継が(う つ )なかったようだ。 
 恵方(えほう)巻き(ま )を食べた後は、これも恒例(こうれい)の豆まきだ。6父も、豆まきには積極的に参加する。いちばん大きな声を張り上げ(は あ )ているのは父だ。我が家(わ や)では、毎年「鬼(おに)は外、福は内」と言いながら豆をまくが、地方によっては、「鬼(おに)は内」とかけ声をかけるところもあるそうだ。7私(わたし)は、みんなの幸せを願う節分の日に、鬼(おに)だけ外に追い出すという発想に、かねてから疑問(ぎもん)を抱い(いだ )ていた。鬼(おに)も幸せになれば悪さをしないと思うからだ。だから、「鬼(おに)は内」とかけ声をかけるように父に提案(ていあん)してみた。8父は、
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「昔から、鬼(おに)は外、福は内と決まっているんだ。鬼(おに)はお庭にお逃げ(に )なさいってなもんだ。」 
と取り合ってくれない。習慣(しゅうかん)とは恐ろしい(おそ   )ものだ。仕方がないので、私(わたし)は、心の中で「鬼(おに)は内、福も内」と言いながら豆まきをした。 
 9豆をまいた後は、みんなで年の数だけ豆を食べるのだが、姉も私(わたし)も年の数だけでは足りず、年の数の何倍も豆を食べてしまう。年の数以上の豆を食べるとどうなるのか心配だったので、調べてみると、自分の年の数より一つ多く食べると、体が丈夫(じょうぶ)になって、風邪(かぜ)をひかないという説もあることを知り、ほっとした。0年の数の何倍も食べれば何倍も丈夫(じょうぶ)になるに違い(ちが )ない。さらに調べてみると、豆は「魔滅(まめ)」に通じ、鬼(おに)に豆をぶつけて、邪気(じゃき)を追い払う(お はら )という意味があるらしい。私(わたし)は、ますます鬼(おに)がかわいそうになった。せめて、豆をぶつけた後は、家に入れて、介抱(かいほう)してあげてもよいのではないだろうか。 
 節分のような日本独特(どくとく)の行事は、そのいわれを正しく理解(りかい)し、後世に伝えていくことも大事だが、それ以上に大切なのは、家族そろって季節ごとの行事を楽しみ、温かい時間を過ごす(す  )ことだと思う。 
「しょうがない。鬼(おに)も中に入れてやろう。鬼(おに)は内、福も内。」 
父の声が響い(ひび )ている。 

(言葉の森長文作成委員会 Λ)
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a 長文 2.2週 ne
 1チョウチンアンコウには、上唇(うわくちびる)のすぐ上に背びれ(せ  )から変わったイリシウムと呼ば(よ )れるただ一本のアンテナがある。
 イリシウムの先端(せんたん)には、エスカという丸いふくらみがあり、この部分が発光するのでチョウチンアンコウの名がある。2世界的に有名な深海魚である。チョウチンアンコウの最初の記録は一八三七年であるから、もう一五五年も昔から大勢(おおぜい)の学者の興味(きょうみ)を引いていた。しかし生きたチョウチンアンコウがどのようにして光るのかは、長らくだれも知らなかった。3一九六七年、日本の水族館においてそれが確かめ(たし  )られた。
 その年の二月二〇日、鎌倉(かまくら)の海岸の波打ち際(なみう ぎわ)で一ぴきのチョウチンアンコウが海岸に遊びに来ていた一般(いっぱん)の人に拾われた。4これは珍しい(めずら  )魚だということで、そのチョウチンアンコウは、段ボール(だん   )箱に入れられて、八キロ離れ(はな )た江ノ島(え しま)水族館に運ばれ、海水に戻し(もど )たところ元気を取り戻し(と もど )、八日間生きた。わが国での、そして、たぶん世界でのチョウチンアンコウの最長生存(せいぞん)記録である。
 5連絡(れんらく)を受けて逗子(ずし)の自宅(じたく)からかけつけた横須賀(よこすか)市自然博物館の羽根田博士は、チョウチンアンコウが水槽(すいそう)の中で発光する様子をくわしく観察されて学術(がくじゅつ)報告(ほうこく)を書かれ、後日、私(わたし)にもそのいきさつを直接(ちょくせつ)話して下さった。6温厚(おんこう)な博士が、その時の思い出話をして下さっているうちに、だんだん興奮(こうふん)されるのを見てびっくりした。そんなにもたいへんなことだったのだと、再(さい)確認(かくにん)した。
 7生きているチョウチンアンコウのイリシウムの先端(せんたん)には、小さなザクロの実のように丸くふくらんだエスカがあり、乳白色(にゅうはくしょく)半透明(とうめい)の上に銀色と淡紅色(たんこうしょく)のリングがあって、暗いところで青白く光って見えた。魚をつついて刺激(しげき)すると、イリシウムを立て、エスカから明るく光る発光液(えき)を前方に向けて噴出(ふんしゅつ)した。8エスカの左右にある肉質(にくしつ)突起(とっき)の先端(せんたん)で真珠(しんじゅ)のような白い小球が光を放ち、エスカから垂れ下がる(た さ  )黒くて細長いフィラメントの先端(せんたん)にも小さな発光器
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があって、魚がイリシウムを振り(ふ )動かすと、これもキラキラと美しく光った。
 9「この生きたチョウチンアンコウは、今までのいろいろな謎(なぞ)をといてくれた。このような機会はおそらくもうないであろう」と、横須賀(よこすか)市自然博物館の報告(ほうこく)に書き添え(か そ )られた羽根田博士にとって、あの日は一生で一番幸せな日だったことであろう。
 0もっとも、深海魚の発光が水族館で観察された例は、これが初めてではない。
 ずっとさかのぼって、イタリアのナポリ水族館では、一八九九年に生きたダルマザメの発光がガラス越し(ご )に観察されている。このサメは長くは生存(せいぞん)しなかったらしいが、これがたぶん、生きた発光魚を水族館で観察した、最古の観察記録ではないだろうか。ナポリ水族館は、一八七四年にオープンした海洋研究所の附属(ふぞく)水族館で、サンタルチアの海岸に面して建ち、とくにわが国の大学臨海(りんかい)実験所のモデルにされてきた水族館である。
 また駿河湾(するがわん)に話を戻す(もど )と、ここにはツラナガコビトザメという世界一小さなサメがいる。成長のいい個体(こたい)でも二五センチ止まり、ふつうは一二、三センチの小さなサメで、頭が大きく三等身なので、ツラナガの名がある。体の下半分一面に小さな発光器が散在(さんざい)し、尾びれ(お  )と腹( ふく)びれの一部に白い部分があって、ここがとくに強く光る。羽根田博士はツラナガコビトザメの発光が発光ザメの中で、最も美しく見事であると太鼓判(たいこばん)を押し(お )ている。
 ツラナガコビトザメは、駿河湾(するがわん)ではサクラエビといっしょに海面近くまで浮上(ふじょう)し、サクラエビの網(あみ)に入る。個体(こたい)数は多くもないがまれでもない。駿河湾(するがわん)でとれる深海の発光ザメは、ツラナガコビトザメ以外にも、フジクジラ、カラスザメ、カスミザメと、数多い。サメばかりではない。駿河湾(するがわん)は発光生物の宝庫(ほうこ)なのだ。発光しない深海生物ならば、その種類はもっと多い。
 ところが、そのことごとくがまだ水族館では飼え(か )ないでいる。東海大学海洋科学博物館では、一九八九年以来生きた化石といわれるラブカを中心に、駿河湾(するがわん)の深海魚の飼育(しいく)に挑戦(ちょうせん)してきた。しか
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し、正直いって、前途(ぜんと)遼遠(りょうえん)である。ラブカやギンザメもメンダコも、ようやく一〇日間程度(ていど)は生かしつづけることはできたが、それは残念ながら飼育(しいく)したというよりも生存(せいぞん)していたという方がふさわしい。
 深海魚が水族館で飼え(か )ないのは、それが深海に棲ん(す )でいるという事実よりも、深海に棲ん(す )でいるために皮膚(ひふ)や内臓(ないぞう)が傷つき(きず  )やすい、体がもろくてこわれやすい、環境(かんきょう)の変化に弱いという理由の方が大きいようだ。水族館では、傷つき(きず  )弱って入ってきた魚の健康を回復(かいふく)させることがほとんどできないので、そこが一番弱い。それでも、駿河湾(するがわん)の海岸に建っている水族館に勤務(きんむ)する一人として、いつかは発光魚を含む(ふく )深海生物が水族館で生きているのを見たい、見せてあげたいと思う。水温も、比重(ひじゅう)も、水質(すいしつ)も、明るさも、自在(じざい)に調節できるようになった現在(げんざい)の水族館で、未解決(みかいけつ)の課題として挑戦(ちょうせん)するのにふさわしい相手であろう。
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 1島に住む動物と大陸に住む動物とでは、体の大きさが違う(ちが )。ゾウのような大形のものを比べる(くら  )と、島のものは大陸のものより、体が小さくなる傾向(けいこう)がある。島はせまい。小さな島で物が小さくなっていくのはもっともな話のようだが、事態(じたい)はそう単純(たんじゅん)ではない。2ネズミやウサギのような小形のものを比べる(くら  )と、こちらは島のほうが大陸より、ずっと大きい。
 島では大きいものは小さくなり、小さいものは大きくなる。島に隔離(かくり)された動物に見られる、このような体のサイズの変化の方向性(せい)が「島の法則(ほうそく)」と呼ば(よ )れるものだ。3変化の方向性(せい)は、いま現に(げん )生きているものだけを見ているより時間を追って化石を調べていったほうが、はっきりする。大氷河(ひょうが)時代には海面が下がり、多くの島が大陸とつながったが、深い海でへだてられていたもの(セレベス、地中海の島々、西インド諸島(しょとう)など)は島として残り、そこではゾウ・カバ・シカ・ナマケモノなどが小形化していった。
 4もっともあざやかなのはゾウの例だ。ゾウはだんだんと小さくなり、ついには成獣(せいじゅう)になっても肩(かた)までの高さが一メートル、仔()牛ほどしかないものが出現(しゅつげん)した。大陸では巨大(きょだい)なマンモスがのし歩いていたのである。5一方ネズミを見てみると、島のネズミは大きくなり、ネコほどもあるものが出現(しゅつげん)した。
 なぜ島では動物のサイズが変化するのだろうか? 一つの要因(よういん)は捕食(ほしょく)者であろう。島という環境(かんきょう)は、捕食(ほしょく)者のすくない環境(かんきょう)である。6一般(いっぱん)的に言って、捕食(ほしょく)者が生きていくには、自身の十倍以上のえさになる動物を必要としている。島という限ら(かぎ )れた面積の中では、えさになる動物の数もたかがしれてくるわけで、そのくらいの数では捕食(ほしょく)者は生きて行けなくなり、島では捕食(ほしょく)者がほとんどいない、もしくはまったくいないという状況(じょうきょう)が出現(しゅつげん)する。7こういう状況(じょうきょう)下ではゾウは小さくなり、ネズミは大きくなっていく。
 ゾウはなぜ巨大(きょだい)なのか? それは大きな図体で捕食(ほしょく)者を圧倒(あっとう)しようとしているからだ。あれだけ巨大(きょだい)ならばトラもライオンも歯がた
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たない。ネズミはなんであんなに小さいのか? 8小さければ捕食(ほしょく)者の目につきにくいし、小さな穴(あな)やものかげにすばやくかくれることもできる。ゾウやネズミはだてに大きかったり小さかったりしているわけではない。
 巨大(きょだい)であることや矮小(わいしょう)であることは、それなりの代価(だいか)を支払わ(しはら )ねばならぬことである。9たとえば巨大(きょだい)な体を支える(ささ  )骨格(こっかく)系(けい)にはかなりの無理がかかっているようで、ゾウは骨折(こっせつ)などせぬよう、一歩一歩慎重(しんちょう)に足をはこんでいく。ネズミの場合にはエネルギー上の問題がある。体の小さいものほど、体重の割(わり)には体の表面積が大きい。0熱は表面からどんどん逃げ(に )ていくから、体温を一定に保と(たも )うとおもったら、小さい動物は、体重あたりにして、大きいものよりずっとたくさん食べて熱をつくりださねばならない。体重は半分でも、食料は半分というわけにはいかないのである。
 ゾウの巨大(きょだい)さは畏敬(いけい)の念を引きおこすものだ。しかしゾウにしてみれば、大きいからみんなハッピー、というものでもなく、できれば「ふつうの動物」にもどりたいのであろう。ネズミにしたってそうだ。だからこそ、捕食(ほしょく)者のいない環境(かんきょう)に置かれると、大きいものは小さく、小さいものは大きくなって、ほ乳類( にゅうるい)として無理のないサイズにもどっていく――これが島の法則(ほうそく)の一つの解釈(かいしゃく)である。
 しばらくアメリカの大学で過ごす(す  )機会を得た。あちらの教授(きょうじゅ)陣(じん)の中にはおそれいるばかりの偉人(いじん)がいて、これでは太刀打ちできないなと、すっかり思い知らされたが、一歩大学の外に出ると、スーパーのレジにしても、自動車修理工(しゅうりこう)にしても、あきれるほど対応(たいおう)がのろいし不適切(ふてきせつ)。一般(いっぱん)の日本人の有能(ゆうのう)さに、いまさらながら気づかされた。日本という島国では、エリートのスケールは小さくなり、ずばぬけた巨人(きょじん)とよびうる人物は出て来にくい。逆(ぎゃく)に小さい方、つまり庶民(しょみん)のスケールは大きくなり、知的レベルはきわめて高い。大きいものは小さくなり、小さいものは大きくなる――島の法則(ほうそく)は人間にも当てはまりそうだ。
 獰猛(どうもう)な捕食(ほしょく)者に比せ(ひ )られる様々な思想と戦い、きたえぬかれた大
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長文 2.3週 neのつづき
思想を、大陸の人々は生み出してきた。偉大(いだい)なこととして尊敬(そんけい)したい。しかしこれらの大思想は、人間が取り組んで幸福に感ずる思考の範囲(はんい)を、はるかにこえてしまっているのかもしれない。動物に無理のない体のサイズがあるように、思想も人類に似合い(にあ )のサイズがあるのではないか。日本よりさらに小さな島にいて、大思想を持たないしあわせと、いくばくかの劣等(れっとう)感とを、日々あじわっている。

(本川達雄(たつお)「島の法則(ほうそく)」)
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a 長文 2.4週 ne
 「飽和(ほうわ)化市場」という言葉がある。いろいろな商品の普及(ふきゅう)率(りつ)がもう限界(げんかい)のところまできている消費市場をあらわす言葉だ。たいていのモノはひととおり行きわたった、という状態(じょうたい)である。
 飽和(ほうわ)化市場の特徴(とくちょう)は、いままでもっていた製品(せいひん)から新しいものに買いかえていく需要(じゅよう)は多いが、市場全体が成長していく力はもう限界(げんかい)のところまできている、という点だ。
 そのため、売り手側としても、いままでと同じような売り方では商品が売れない。そこで、それぞれ独自(どくじ)の商品を開発したり、新しい売り方を考えたり、これまでとはちがった分野へ進出したりと、あらゆる手を試みる。ここまでに紹介(しょうかい)した販売(はんばい)方法の工夫だとか、競合商品にはない独自(どくじ)の機能(きのう)やデザインの開発などといったことも、こうした市場があふれている。
 たとえばモノ。すでに述べ(の )たように、ヘッドホン・ステレオ一つ取りあげても、似かよっ(に   )た商品がたくさんのメーカーから発売されている。たくさんの商品のなかから、きみは一つの商品を選んで購入(こうにゅう)するわけだ。そのためにカタログを取りよせたり、お店の人の話を聞いたりして情報(じょうほう)を集め、比較(ひかく)した上で決める。
 つまり、きみの前には、とてもたくさんのメニューがあり、そこからある一つを選択(せんたく)するというわけだ。
 サービスという商品を購入(こうにゅう)する場合も同じだ。
 外食の代表といえるファースト・フード。あるチェーン店で新しいハンバーガーが登場したと思ったら、すぐに別のチェーン店にも似(に)たようなメニューがつけ加えられる。もちろん、「一味ちがった」商品としてだ。
 ここでもきみは、さまざまなお店のさまざまなメニューのなかから一つのサービスを購入(こうにゅう)するための選択(せんたく)をすることになる。
 新しい商品やサービスが市場にでるまでには、売り手側の「商品差別化戦略(せんりゃく)」がおこなわれている。消費者側の情報(じょうほう)を得るための調査(ちょうさ)、その情報(じょうほう)をすぐに利用できるように蓄積(ちくせき)したデータベースの作成、テレビやイベントをとおしての宣伝(せんでん)・広告・商品を効率(こうりつ)よ
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く売るための仕掛け(しか )など、売り手側の努力はこれまでみてきたとおりだ。
 だから、きみは、売り手側の商品差別化戦略(せんりゃく)という大きな「仕掛け(しか )」をかいくぐって、たくさんのメニューから一つを決め、選択(せんたく)するのである。これは、とてもたいへんなことなのだ。
 たしかにメニューはたくさんある。
 だが、それは、メニューがいまほど多くなかったときにくらべて、よりよい選択(せんたく)ができるということなのだろうか?
 ちがいをうたって登場した商品は、すぐに似(に)た商品が登場することで、ちがいの部分がなくなってしまう。きみの「ステイタス」にふさわしいはずの独自(どくじ)の商品が、すぐにその独自(どくじ)性(せい)を失ってしまう。イタチごっこみたいなもので、ちがいはますます細分化し、たいした意味をもたなくなってくる。
 たいした意味のない「ちがい」を選ぶためにたくさんの商品が用意されているのが、はたしてほんとうに豊か(ゆた )なことなのだろうか。わたしたちは、そんな「幸せ」を求めてきたのだろうか。何度でも自問してみる必要がありそうだ。
 おびただしい商品にかこまれて毎日暮らし(く  )ているわたしたち。わたしたちが生活すること=消費することである。住宅(じゅうたく)、家具、食品、衣服、電気製品(せいひん)、新聞、書籍(しょせき)、日用雑貨(ざっか)といったモノから、電気、ガス、交通手段(しゅだん)をはじめとするサービス財(ざい)まで、日々消費しつづけているのだ。
 そのわたしたちの多様な消費が、ふたたび多様な生産を促す(うなが )。
 そして新しく生産された生産物が、消費者であるわたしたちに、また新たな欲望(よくぼう)をひきおこす。
 こうして生産と消費が循環(じゅんかん)しながらふくらんでいくのである。しかも、売り手と買い手のどちらも、先がみえていないときているのだ。
 こうした生産と消費のくりかえしのなかで、地球資源(しげん)は減少(げんしょう)をつづけ、生産にともなう排出(はいしゅつ)物や消費生活からでる廃棄(はいき)物などによって、環境(かんきょう)汚染(おせん)がすすんでいる。それも、地球的な規模(きぼ)でおこ
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長文 2.4週 neのつづき
っているのである。
 気をつけなくてはいけないのは、地球環境(かんきょう)を汚染(おせん)しているのは、生産をしている企業(きぎょう)側だけではない、ということだ。汚染(おせん)に責任(せきにん)があるのは、買い手であるわたしたちも同じだ。生産をささえている消費者側の責任(せきにん)も大きい。
 つまり、わたしたちは他人とのちがいを示す(しめ )ために地球資源(しげん)をつかい、環境(かんきょう)汚染(おせん)物質(ぶっしつ)を排出(はいしゅつ)しつづけている可能(かのう)性(せい)をもっているわけだ。もしそうだとしたら、わたしたちは、自分たちの消費のあり方そのものを問いなおさなくてはいけない。
 たとえば、わたしたち日本人がふだん食べているエビ。
 日本人のエビ消費は、この三十年間に六倍以上になり、売り上げは一兆円をこえたそうだ。世界最大のエビ消費国だ。そのほとんどは東南アジアからの輸入(ゆにゅう)によっている。エビの稚魚(ちぎょ)は、東南アジア各地にひろがる広大なマングローブの沼地(ぬまち)で育っており、そのエビを捕獲(ほかく)するために大型船もはいっている。そのためエビ資源(しげん)はしだいに少なくなり、マングローブの沼地(ぬまち)も荒らさ(あ  )れているのだそうだ。
 日本人が直接(ちょくせつ)荒らし(あ  )まわっていないにしても、わたしたちのエビ消費が、結果としてマングローブを枯らす(か  )ことになっているのは否定(ひてい)できない。
 これは一つの例であって、わたしたちの生活が、このように間接(かんせつ)的に環境(かんきょう)を破壊(はかい)していることは、じつに多い。わたしたちがおびただしい消費を重ねることが、考えてもみないようなところに悪影響(あくえいきょう)をあたえ、傷つける(きず   )ことになっているわけだ。
 そうした直接(ちょくせつ)みえない他人や世界へ、どこまで想像(そうぞう)力をはたらかせることができるかが、これからますます問われることになるだろう。もちろんこれは大人だけの問題としてでなく、きみたち一人一人がこれから考えなければならない問題だと思う。

(児玉裕(ひろし)「あなたは買わされている」)
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a 長文 3.1週 ne
1「あれ? おかしいなあ。」 
トースターの中には、ほかほかに温まったコロッケが入っているはずだった。確か(たし )に、コロッケは入っていたのだが、コロッケを乗せたトレイは、まるで蜂蜜(はちみつ)のようにとろりと溶け(と )出し、ほとんど原型をとどめていなかった。2やはり、トレイごと入れてはいけなかったのだ。今ごろになって気づいても後の祭りだ。トースターに入れる瞬間(しゅんかん)、このまま入れても大丈夫(だいじょうぶ)なのだろうかと不安がよぎったが、上にかかっているラップだけを取れば大丈夫(だいじょうぶ)だろうと安易(あんい)に判断(はんだん)したのが間違い(まちが )だった。 
 3私(わたし)は、とてもお腹( なか)がすいていたが、当然のことながら、コロッケは諦め(あきら )なければならなかった。しかも、母が帰ってくる前に、トースターの中で溶け(と )ているトレイを取り除か(と のぞ )なければならない。空腹(くうふく)の私(わたし)にとって、それは非常(ひじょう)に過酷(かこく)な労働に思えた。4でも、母に見つかったら叱ら(しか )れるに違い(ちが )ない。私(わたし)は、急いで布巾(ふきん)を濡らし(ぬ  )、トースターの中の形のないトレイを取り除こ(と のぞ )うと、手をつっこんだ。 
「あちっ。」 
私(わたし)は、思わず手を引っ込め(ひ こ )た。トースターの中はまだ熱かった。冷ましてからでないと作業ができない。5でも、時間がない。仕方がないので、うちわを持ってきて思い切り仰い(あお )でみた。すると、トースターの底の方に残っていたパンくずが舞い上がり(ま あ  )、さらに大変なことになりそうだったので、すぐにやめた。私(わたし)は、ただ布巾(ふきん)を手に、付近をうろうろするしかなかった。6そうこうしているうちに、母が帰ってきてしまった。トースターを見た母は、すべてを悟り(さと )、あきれたようにため息をついた。 
 結局、トースターは、母が掃除(そうじ)をしてくれた。一段落(いちだんらく)したところで、私(わたし)は母に、料理で失敗したことがないかどうか聞いてみた。7母は、中学生のころ、家族のために野菜炒め(いた )を作ったことがあるそうだ。フライパンで野菜を炒め(いた )、味つけをする際(さい)、勢い(いきお )よくコショウを振っ(ふ )ていたら、ビンのふたが取れて、一ビン分のコショウが
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野菜にかかってしまったらしい。8母は、くしゃみを連発しながらも、とっさに、野菜をザルに移し(うつ )、ジャージャーと水をかけて洗っ(あら )たそうだ。母の素早い(すばや )判断(はんだん)が功を奏し(そう )、野菜炒め(いた )は無事に出来上がり、家族全員がおいしいと言って食べたという。水で洗っ(あら )た野菜炒め(いた )がおいしいわけはないだろうと思ったが、口には出さなかった。9母は、 
「料理に失敗はつきものよ。でも、終わりよければすべてよし。」 
と笑った。 
 私(わたし)の場合は、スーパーで買ってきたコロッケを温めようとしただけなので、料理の失敗とは言えないが、そのおかげでトースターがきれいになったので、やはり、終わりよければすべてよしなのだと思いたい。0失敗したからこそわかることもある。私(わたし)は、もう二度と同じ失敗を繰り返さ(く かえ )ないだろう。失敗は、決して悪いことばかりではないということがわかった。 
「あれ? おかしいなあ。」 
台所からお鍋( なべ)のこげるにおいがしている。 

(言葉の森長文作成委員会 Λ)
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a 長文 3.2週 ne
 1レオナルド・ダ・ヴィンチ()の「モナリザ」は、先にもあとにも誰(だれ)にもかけなかった傑作(けっさく)です。心をやわらげてくれるかとおもうと、胸(むね)がきりっとなるモーツァルトの音楽は、ただすばらしいとしかいいようがなく、あれだけの音楽はやはりモーツァルトにしか作曲できなかったでしょう。2アインシュタインは空間は四次元だと、それまで誰(だれ)も考えなかったことをみちびきだしました。
 まったく新しいすばらしいものをうみだす「創造(そうぞう)」の秘密(ひみつ)はどこにあるのでしょうか。3創造(そうぞう)はあまりにも謎(なぞ)めいているので「天才」にだけできることとかたづけてしまいがちです。しかし、天才だから創造(そうぞう)できたといってしまうと、「創造(そうぞう)」を説明したことにならないでしょう。4それでは「人間のすばらしさ」とはなにかを考えるのをなげだしてしまうことになります。
 まったく新しいものといっても、人間はなにもないところから、魔法(まほう)の力でそれをうみだすのではないわけです。そのもとになるものがあったのです。5ただし、それまであったままだと、創造(そうぞう)にはならないので、それまであったものをいろいろ組みあわせて、そのできたいくつもの新しい組みあわせの中から、美しいもの、心にうったえるもの、正しく自然を説明できるものをえらびだし、世の中の人達がその価値(かち)をみとめたものが創造(そうぞう)です。6ここで「組みあわせ」のかわりに「変化させて」といわれたほうがわかりやすいとおもう人は、そういいかえてもよいでしょう。
 かんじんなのは、それまでほかの人がやらなかった組みあわせをこころみるか、こころみないかです。7それまであったものを少し変化させるか、させないかです。それをためしてみなければ、創造(そうぞう)はおこらなかったのです。ためしに組みあわせてみたり、変化させてみるのですから、だめでもあたりまえです。ですから、だめでもともととおもって、ためしてみるしかないのです。
 8第一に、創造(そうぞう)のきっかけがあまりにも小さな、なんでもないようなことだったのと、第二に、最初のきっかけのあと、ためすのをくりかえした組みあわせや変化の努力があまり大きかったので、第三に、実はあまりにも長い時間がかかっているために、9最初のこころみと最終の成果との間があまりにへだたっているので、どうやってそれが創造(そうぞう)されたのか、それを創造(そうぞう)した本人にもおもいだせず
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わからなくなって、突然(とつぜん)ひらめいたかのように創造(そうぞう)がおこったと考えられたり、説明されてしまうのではないでしょうか。
 0こう考えてくると、だめでもともとだとおもって試してみるかどうか、よいとかんじたらそれをくりかえしつみかさねるかどうか、それが創造(そうぞう)にたどりつくかどうかの境目(さかいめ)になります。(中略)
 創造(そうぞう)が人間にふさわしい仕事であることは、脳(のう)の構造(こうぞう)と働きからも説明できます。創造(そうぞう)とは、人間が意味があり、価値(かち)があるとおもう新しい組みあわせですから、ふたつ以上のいろいろなことがらが同時に脳(のう)の中に存在(そんざい)しなくてはならないでしょう。脳(のう)の中ではさまざまな働きに関係する細胞(さいぼう)が、あちらでもこちらでも興奮(こうふん)したり抑制(よくせい)されたりしています。いわば、大脳(だいのう)はいつもいろんなことがらを組みあわせ、組みかえているわけです。つねに大脳(だいのう)は創造(そうぞう)ばかりやっているようなものではないでしょうか。
 大脳(だいのう)の中の神経(しんけい)細胞(さいぼう)のネットワークは、刺激(しげき)や学習によって別の神経(しんけい)ネットワークに変化をもたらします。それはたとえるならば、ことがらに新しい光をあて、てらしだすことになります。ことがらに新しい解釈(かいしゃく)をほどこすことになります。おなじことがらでも、それを位置づける背景(はいけい)や脈絡(みゃくらく)がかわることにあたります。これを心理学や言語学などでは、「新しい文脈のもとで、意味が変化する」といいます。
 たとえば「タイム」といっても、状況(じょうきょう)によって「経過(けいか)した時間の長さ」であったり、午後三時といったような「時刻(じこく)」であったり、日本人の間ならば「ちょっと待ってほしい」という意味であったりします。それを人間は正しく解釈(かいしゃく)します。このような大脳(だいのう)の働きがつみあげられて、ダ・ヴィンチ()やモーツァルトやアインシュタインの「創造(そうぞう)」をうみだしたのです。このような脳(のう)の働きを役だて、創造(そうぞう)のために「こころみ」をつみかさねないのは、まったく人間らしくないことになります。

(赤木昭夫の文章による)
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a 長文 3.3週 ne
 1月ができた原因(げんいん)については、進化論(ろん)で有名なダーウィンの息子のジョージ・ダーウィンという人が考え出した説が学会で認め(みと )られていました。それによると月は地球の一部がちぎれて飛び出してできたものだが、面白いことに太平洋は月が飛び出した跡(あと)だという説を立てたのです。2ジョージ・ダーウィンという人は、たいへんあたまのいい人で、この月の成因(せいいん)説は、ただの思い付きというわけではなくて、推論(すいろん)にいろいろな根拠(こんきょ)があげられているのです。たいへんうまい説明なので当時は反論(はんろん)する学者もいなくて、それが決まった学説となってしまいました。3ですから、私(わたし)たちは学生の時にこういう説を教わったわけなのですが、こんな説は今ではすっかり消えてなくなってしまいました。
 4地球の成因(せいいん)の方は、四十年程(ほど)前に、ドイツのワイッゼッカーという人が、惑星(わくせい)は太陽から飛び出したのではなくて、昔、太陽系(たいようけい)をおおっていたガス体から固体の粒(つぶ)だけが残って、それが太陽の周りをぐるぐる回っているうちに衝突(しょうとつ)し合ってだんだんに成長して、いくつかの惑星(わくせい)になったという説を立てました。5それで、ビュッフォンの説は消えてしまったのです。そのワイッゼッカーの学説もその後十年ほどたって、アメリカのユレーという人と、ソ連のシュミットという人が修正(しゅうせい)して、地球や木星などの惑星(わくせい)のもとになった粒(つぶ)というのは、太陽系(たいようけい)をおおっていた粒(つぶ)ではなくて、太陽の引力によってつかまえられた宇宙塵(うちゅうじん)、つまり隕()石ということになったわけです。
 6そして、月の方も、ダーウィンの説ではなく、地球のできる時に同じような現象(げんしょう)で地球と一緒(いっしょ)になってできたものだという説が、今日、定説となって、月は地球の兄弟だと考えられるようになったわけです。
 7だが、こういった学説も月ロケットで、人間が月から石のサンプルを持ち帰ったり、ロケットの観測(かんそく)機が火星や土星まで飛んでいって、情報(じょうほう)を送ってきたりすると、古い説では解釈(かいしゃく)がつかないことだらけで、また、いずれ新しい学説が誕生(たんじょう)することになるわけです。
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 8こういうことは天文学、あるいは地学などに限ら(かぎ )ず、いろいろな科学の領域(りょういき)で起こってもふしぎはないわけです。まだ、本当は科学は何もかも知っているわけではなくて、ほんの自然の姿(すがた)の一部をかじっているにすぎないのですから、いろいろと角度を変えて自然を見ているとつぎつぎと新しい発見が生まれてきます。9そしてそこから新しい学説が発展(はってん)し、それをもとにしてまたすぐれた技術(ぎじゅつ)が誕生(たんじょう)するといったことがこれからも続いていくはずです。
 0今までのでき上がった科学の理論(りろん)とか解説(かいせつ)とかにこだわりすぎてすべてをそれにのっとって(=基準(きじゅん)として従っ(したが )て)考えるという傾向(けいこう)が強すぎますと、新しい発展(はってん)が起こらなくなります。古いものにとらわれずに新しい見方をする、あるいは逆転(ぎゃくてん)の発想という言葉がありますが、そういう考え方をしていると、案外そこから面白い発展(はってん)が起こるのです。
 これは科学者でなくても、一般(いっぱん)の方々が広く眺め(なが )ている観察、あるいは考え方からもみな同じ事情(じじょう)が生まれるはずですし、そういう点からも皆さん(みな  )が日常(にちじょう)観察しているものから、新しい科学の目が生まれる、ということも十分にあり得ることだと思います。
 昔、ウェーゲナーという学者が大陸移動(いどう)説を提唱(ていしょう)しました。この人は、地質(ちしつ)学とか物理学とかの理論(りろん)に基づい(もと  )て考えていたわけではなく、世界地図を見ておりましたらいろいろな大陸の形が、ちょうどジグソーパズルの切れ端(き はし)のように、寄せ(よ )集めると一つになってしまいそうな感じがしたことから大陸移動(いどう)を考えたのです。なるほど合わせてみると、南米とアフリカとは一緒(いっしょ)になりそうですし、アメリカ大陸もユーラシア大陸も、南極大陸もみんな一つに組み合わされそうに見えます。
 そういうところからウェーゲナーは大陸は昔は一つになっていたのが、ある時から分かれて移動(いどう)したのではないだろうか、地球の内部が融け(と )た液体(えきたい)でその上に固体の大陸が浮かん(う  )でいる、それがちぎれて、だんだん地球全体に分散したのではないだろうかと考えて、
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長文 3.3週 neのつづき
大陸移動(いどう)説という学説を立てたのでした。
 たいへん面白い説ですが、当時の学界では、それは単なる思いつきだということで黙殺(もくさつ)されてしまったのです。近頃(ちかごろ)になって、いろいろな観測(かんそく)の技術(ぎじゅつ)が進みますと、どうやらウェーゲナーの学説が本当であったらしいということで、プレート・テクトニクスという学説(=地球の皮膚(ひふ)を形づくる厚(あつ)さ一〇〇キロの岩板の動きを研究する学説)ができて、実際(じっさい)に大陸が移動(いどう)するのだということが、事実として認め(みと )られるようになったのです。そこでウェーゲナーは今たいへん高く評価(ひょうか)されるようになっておりますが、こういう、こだわらない自由な心で科学を論じる(ろん  )というのも一つの進歩の道だと言えるわけです。
 そういう意味でも、皆さん(みな  )の自由な観察力や、考え方から思いついたことをどんどん科学者や科学界にぶつけていきますと、それは皆さん(みな  )にとってもたいへん楽しいことですし、科学者にとっても楽しいことになるはずです。そして、そこから、思いがけない科学の進歩も生まれるということになりますと、なんともすばらしいことであるに違い(ちが )ありません。

(崎(さき)川範行(のりゆき)「科学ってこんなに面白い」による)
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 ぼくは子どものころ、弱虫だったので、どちらかというと、いじめられる側だった。それでも、ぼくよりもっといじけた子にたいして、いじめなかったかというと、そうも言いきれない。いま考えると、そのぼくは、とてもみじめだ。
 たとえば、近所に鬼がわら(おに   )のような顔の子がいて、「鬼(おに)の子」とはやして、いじめたことがあった。そこへ、その子の母親が涙(なみだ)を流して飛びだしてきたとき、まったくびっくりした。いじめている側は、ことの重要さを理解(りかい)していないことが多い。
 いじめている人間が、強いわけではない。抑圧(よくあつ)されている人間は、いじめる相手を探し(さが )がちなものだ。上級生が下級生をいじめる学校は、たいてい管理がきびしい。クラブだって、リベラル(自由主義(しゅぎ)的)な雰囲気(ふんいき)のあるところだと、上級生も下級生も友だちづきあいしている。いじめている人間はたいてい、体制(たいせい)によっていじめられている、弱い人間なのだ。強ければ、弱い者いじめなんか、する必要がない。
 ときには、だれかをいじめているという、加害意識(いしき)のないことも多い。その集団(しゅうだん)が、いじめを作っている。いじめられるほうにしてみれば、そのほうがつらい。罪(つみ)の意識(いしき)なしに悪いことをするほど、困っ(こま )たことはない。
 それでも、やがて、もしもまともに成長すれば、そのときの自分が、こうした状況(じょうきょう)に強制(きょうせい)されて、罪(つみ)の意識(いしき)なしに、だれかをいじめていた事実に気がつく。たいてい、そのときには、もう過去(かこ)をとりもどすことができない。しかも、その自分は、そうした状況(じょうきょう)のなかで、弱くみじめで、その弱さゆえに、そんなことをしていたことがわかる。
 こうした、みじめな気持ちを持つようには、ならぬほうがよい。いじめられている子もみじめだろうが、あとになって考えてみると、いじめたほうだって、それに劣ら(おと )ず、みじめなものだ。
 とくにこのごろ、一種の村八分みたいな、いじめ方があるらしい。彼(かれ)もしくは彼女(かのじょ)が、存在(そんざい)しないように扱う(あつか )。顔を合わさず、声をかわさず、存在(そんざい)自体を無視(むし)してしまう。これは、一種の精神(せいしん)的殺
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人である。暴走(ぼうそう)よりも、万引きよりも、もっとひどい、最大級の非行(ひこう)だと思う。
 ときに、いじめの計画者がいないことさえある。集団(しゅうだん)自体が、いじめ存在(そんざい)になる。ちょっと怪談(かいだん)じみたこわさがある。こうしたとき、みんな普通(ふつう)の中学生で、だれも、いじめているという意識(いしき)のないことがある。これは、なおこわい。いじめていないつもりで、いじめてしまっている、このこわさの感覚は、怪談(かいだん)の感覚である。
 ときには、いじめられている子までが、それを意識(いしき)していないこともある。こうなると、最高にこわい。意識(いしき)していなくても、いじめは存在(そんざい)している。意識(いしき)にのぼらない魂(たましい)の底で、一種の夢魔(むま)の世界で、だれかがだれかをいじめている。
(中略(ちゅうりゃく))
 中学生の間で、いじめが増え(ふ )ているというのを、悪い子がいるからだとは、ぼくは思わない。いじめっこも、たいていは、普通(ふつう)の子だと思う。いまの中学生の状況(じょうきょう)が、そうした弱い部分を作っているのだとは思う。
 それでも、もしきみが、よく考えてみて、だれかをいじめているとしたら、すぐにやめたほうがよい。あとでかならず、それはきみにとって、とてもみじめな思いになる。相手にたいしてだけでなく、きみ自身の未来のために、すぐにやめたほうがよい。
 だれかをいじめたくなるには、きみのおかれている空気があろう。それはわかる。でも、そのために、だれかをいじめるとしたら、それはきみの弱さだ。人間というものは、弱いもので、ぼくは人間の弱さを、むしろいとおしむほうだが、この場合だけは、いや、この場合こそ、きみに強くなってほしい。
 やる気を出せとか、根性(こんじょう)でがんばれとか、そんな声にのっかって、強くなれというのは、ぼくの趣味(しゅみ)ではない。それより、どんな状況(じょうきょう)にしろ、状況(じょうきょう)に負けて、他人をいじめることで心のバランスをとったりしないような、自分自身の心の強さがほしい。

(森毅(あつし)「まちがったっていいじゃないか」)
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