1ソクラテス(紀元前四七〇~三九九年)は、おそらく哲学の歴史をつうじてもっとも謎めいた人物だろう。ソクラテスはたったの一行も書かなかった。なのにヨーロッパの思想に最大級の影響をおよぼした一人とされている。2ソクラテスがとんでもなくみっともない男だったことはたしかだ。チビで、デブで、目つきが陰険で、はなは空を向いていた。けれども心は「金無垢のすばらしさ」だったという。ソクラテスの母親はお産婆さんだった。3そしてソクラテスは自分のやり方を産婆術にたとえていた。たしかに子供を産むのは産婆ではない。産婆はただその場に立ち会ってお産を手伝うだけだ。ソクラテスは、自分の仕事は人間が正しい理解を「生み出す」手伝いをすることだ、と思っていた。4なぜなら本当の知は自分のなかからくるものだからだ。他人が接ぎ木することはできない。自分のなかから生まれた知だけが本当の理解だ。(中略)
5ソクラテスはソフィストたちの同時代人だった。ソフィストたちと同じようにソクラテスも人間と人間の生活を論じ、自然哲学者たちの問題にはかかわらなかった。(中略)6けれどもソクラテスは重要なところでソフィストたちとはちがっている。ソクラテスは、自分は知識(ソフォス)のある人間やかしこい人間ではないと考えていた。だからソフィストたちとは反対に教えてもお金を取らなかった。7そうではなくてソクラテスはことばの本当の意味で自分は哲学者(フィロソフォス)だと名乗ったんだ。フィロソフォスとは「知恵を愛する人」ということだ。知恵を手に入れようと努力する人のことだ。(中略)8哲学者は自分があまりものを知らないということを知っている。だからこそ哲学者は本当の認識を手に入れようといつも心がけている。ソクラテスはそういうめったにいない人間だった。ソクラテスは自分は人生や世界について知らない、とはっきり自覚していた。9そしてここが大切なところだよ、自分がどれほどものを知らないかということでソクラテスはなやんでいたのだ。哲学者とは自分にはわけのわからないことがたくさんあることを知っている人、そしてそのことになやむ人だ。だから哲学者はひとり合点の知識でもってはな高だかの半可通よりもずっとかしこいのだ。
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