a 長文 1.1週 ne2
 1アフリカの田舎(いなか)を自転車で訪れる(おとず  )と、珍客(ちんきゃく)が来たということで歓迎(かんげい)され、村にあるとっておきのゴリラ、サル、芋虫(いもむし)、ナマズ、ヤマアラシなど貴重(きちょう)な食べ物でもてなされた。
 2ある日、目的地の村に到着(とうちゃく)して泊め(と )てもらうことになり、いつものように晩(ばん)ご飯を待っていたが、日が暮れ(く )てもいっこうに声がかからない。おかしいな……、と思いながらお腹( なか)が空いていたので手持ちの食料を食べた。
 3そのときの体験を小学校の子どもたちに話して、「どうしてご飯を出してもらえなかったんだと思う?」と聞く。すると子どもたちは一生懸命(いっしょうけんめい)考えて、
 「村にご飯がなかったから」
 「知らない人だからご飯を出さなかった」
 4「ご飯を出さないで、達さんがどんな反応(はんのう)をするか見ようと思ったから」
 「獲物(えもの)を獲(と)りに行っていたから」
という答えをくれる。相手に理由や原因(げんいん)がある、という考え方だ。
 ところが質問(しつもん)をしていると、ひとりの男の子が小声で「自分の挨拶(あいさつ)が足りなかったから」と答えたことがあった。5これはとても大切な考えだと思う。自分の方にも何か原因(げんいん)があったかもしれない、何かできることがあったかもしれない、という考え方だ。
 僕(ぼく)の前述(ぜんじゅつ)の問いに対する答えは、「毎日ご飯を食べさせてもらうのがいつの間にか当たり前になってしまって、感謝(かんしゃ)の気持ちがなかった。6だからそんな人にはご飯を出さない、と思われたのかもしれない」というものだ。主張(しゅちょう)するのも大事だが、人の家で食べさせていただくのに感謝(かんしゃ)の気持ちがなかった、きちんと挨拶(あいさつ)していなかった、相手に失礼なことをしたなど、もしかしたらこちら側に問題があったかもしれないと考えることを伝えたい。7なんでも人のせいにしていると最後にはなにも見えなくなり、夢(ゆめ)や目標があっても実現(じつげん)させることができなくなってしまう。僕(ぼく)がそう話すと、子どもたちは静まり返って真剣(しんけん)な顔で聞いている。
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 8自転車世界一周というと自分には関係のない話だと思われるかもしれないが、きちんと挨拶(あいさつ)したり、自分の行動に責任(せきにん)を持ったりする点では普段(ふだん)の生活と変わらない。子どもたちはこの辺を敏感(びんかん)に感じ取ってくれる。9そして、「これからは挨拶(あいさつ)をきちんとしよう」とか、「人のせいにするのはやめよう」という感想文をくれ、先生方も「子どもたちが前より挨拶(あいさつ)するようになりました」と言ってくださることがある。
 0また中高生になると、受験も、就職(しゅうしょく)も、クラブも、人間関係も、無意識(むいしき)でも最終的には全部自分で決めている、と話すことがある。挨拶(あいさつ)したらどうなるか? お礼をしなかったらどうなるか? 自分にできることはなかったか? いい答えを聞きたかったらいい聞き方をしなくてはいけないなど、自分の行動一つで展開(てんかい)に大きな違い(ちが )が出てくることを体験から伝える。つまり未来は自分次第でいくらでも変わるという考えだ。
 僕(ぼく)も最初はギニアで井戸(いど)を掘る(ほ )のは相当困難(こんなん)だと思っていた。経験(けいけん)も知識(ちしき)もネットワークもない自分が、ほとんど部族語しか通じない山村でひとりでプロジェクトを起こすのだから。
 でも目的を持ってできることを一つずつやっていたら、いろんな出会いや出来事に恵まれ(めぐ  )て井戸(いど)掘り(ほ )が実現(じつげん)に向かった。小さな行動を積み重ね、あきらめなければいろんなことができる。

(坂本達『やった。』より)
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a 長文 1.2週 ne2
 1私(わたし)たちはヒトという動物である。この動物は何故か(なぜ )やたら自分だけが他の動物と違う(ちが )と思いたがる。いわく、理性(りせい)をもつのはヒトだけだ、他の動物は本能(ほんのう)のおもむくままに生きているに過ぎ(す )ない、いわく、言語をもつのはヒトだけだ、2他の動物の声は情動(じょうどう)のおもむくままに発せられているに過ぎ(す )ない、いわく、自分のしていることがわかるのはヒトだけだ、他の動物はそんなことを意識(いしき)していない、うんぬん。こういうヒトだけに与え(あた )られた特権(とっけん)のおかげで、ヒトは全地球を支配(しはい)するに至っ(いた )た、ヒトは偉い(えら )、と。
 3本当にこんなに自信満々でいいのだろうか。
 ヒトは確か(たし )に他の動物とはいろいろな点で異なっ(こと  )ている。四足動物なのに二本脚(あし)で歩く。体に比べ(くら )て妙(みょう)に頭が大きい。ほ乳類( にゅうるい)の一種なのに、体毛が極めて薄い(うす )。体に似合わ(にあ )ない巨大(きょだい)な巣を作る。4動物界の中では確か(たし )に変わり種かもしれない。しかし、だからといってヒトは偉い(えら )ということにはなるまい。動物界を探せ(さが )ば、変わり種なんぞ、それこそゴマンといる。
 なぜヒトは自分たちだけが他の動物と隔絶(かくぜつ)した存在(そんざい)だと思いたがるのだろう。
 5私(わたし)が小学生だったとき、クラスに双子(ふたご)の転校生がやってきた。一卵性双生児(いちらんせいそうせいじ)で、とてもよく似(に)ている。いつも同じ服を着ており、どうにも区別がつかない。担任(たんにん)の先生も、座っ(すわ )ている席で区別していただけだ。向こうがその気になれば、だますのはいとも簡単(かんたん)である。6ところが、一ヶ月(かげつ)もすると、二人の微妙(びみょう)な違い(ちが )がわかるようになり、そのうちに、一瞬(いっしゅん)で見分けられるようになった。別にホクロのありなしとか、そんな特徴(とくちょう)で覚えたわけではない。毎日一緒(いっしょ)に遊んでいるうちに、なんとなくわかってきたのである。7いったんそうなってしまうと、今度は二人を見分けられない人の方が不思議に思えるようになった。
 同じような経験(けいけん)はたぶん誰(だれ)にもあるのではないだろうか。慣れ(な )た
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目でみると、どんな小さな違い(ちが )でも大きくみえる。8逆(ぎゃく)に見慣れ(みな )ないものはどんなに大きな違い(ちが )があっても区別のつかないことがある。
 ヒトが自分たちだけが隔絶(かくぜつ)した存在(そんざい)だと考えたがるのは、結局これと同じことではなかろうか。自分たちは自分たちの仲間の微妙(びみょう)な違い(ちが )がわかる。9そういう目でみれば、サルや類人猿(るいじんえん)は、ヒトとはとんでもなく違っ(ちが )ている。逆に(ぎゃく )他の動物相互(そうご)間の違い(ちが )はほとんど見過ごさ(みす  )れてしまう。チンパンジーとゴリラの区別のつかない人は多い。きっとチンパンジーからみれば、逆(ぎゃく)にチンパンジーだけが他の動物たちと隔絶(かくぜつ)して見えるに違い(ちが )ない。
 0そういう問題じゃない、ヒトは賢い(かしこ )のだ、というかもしれない。ヒトが自分たちは偉い(えら )、と自慢(じまん)するとき、決まって引き合いに出すのがこの「頭の良さ」である。だがこれとて怪しい(あや  )ものだ。たとえばもし知能(ちのう)検査(けんさ)の項目(こうもく)に、問題に答えるまでの時間があったとしたら、ヒトは絶対(ぜったい)にチンパンジーには勝てない。チンパンジーの反応(はんのう)時間はヒトに比べる(くら  )と圧倒的(あっとうてき)に速いのである。ヒトにはほとんど区別のつかない二枚(まい)の写真の微妙(びみょう)な違い(ちが )を、ハトはすぐに見つけることができる。何をもって「頭が良い」とするかによって、順位は当然変わってくる。ヒトは自分たちに都合の良い項目(こうもく)を「頭の良い」の指標に選ぶからこそ、一番でいられるのだ。
 ミツバチは生まれたときから自分の仕事を知っている。働きバチは生まれてからの日齢(にちれい)に応じ(おう )て巣の掃除(そうじ)や幼虫(ようちゅう)の世話や食物調達などの仕事を次々とこなしていく。ヒトはといえば、いい年にもなって、いまだに自分の仕事が見つけられずにブラブラしている輩(やから)もいる。生まれてから大量の情報(じょうほう)を吸収(きゅうしゅう)して、学習に学習を重ねてやっと半人前になれる動物と、何もしなくても自然にその種としての行動を始める動物と、どちらが賢い(かしこ )生き方なのか、判断(はんだん)は難しい(むずか  )。
(藤田(ふじた)和生の文章による)
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a 長文 1.3週 ne2
 1ゴッホ(有名な画家)の絵は、彼(かれ)が生きているあいだは一般(いっぱん)大衆(たいしゅう)にはもちろん、セザンヌ(有名な画家)のような同時代の大天才にさえ、こんな腐っ(くさ )たようなきたない絵はやりきれないとソッポをむかれました。当時はじっさい美しくなかったのです。2それが今日はだれにでも絢爛(けんらん)たる傑作(けっさく)と思われます。けっしてゴッホの作品自体が変貌(へんぼう)したわけではありません。むしろ色は日がたつにつれてかえってくすみ、あせているでしょう。だがそれが美しくなったのです。3社会の現実(げんじつ)として。こんなことはけっしてゴッホのばあいにかぎりません。受けとる側によって作品の存在(そんざい)の根底から問題がくつがえされてしまう。
 こうなると作品が傑作(けっさく)だとか、駄作(ださく)だとかいっても、そのようにするのは作家自身ではなく、味わうほうの側だということがいえるのではありませんか。4そうすると鑑賞(かんしょう)――味わうということは、じつは価値(かち)を創造(そうぞう)することそのものだとも考えるべきです。もとになるものはだれかが創っ(つく )たとしても、味わうことによって創造(そうぞう)に参加するのです。5だから、かならずしも自分で筆を握り(にぎ )絵の具をぬったり、粘土(ねんど)をいじったり、あるいは原稿(げんこう)用紙に字を書きなぐったりしなくても、なまなましく創造(そうぞう)の喜びというものはあるわけです。
 6私(わたし)の言いたいのは、ただ趣味(しゅみ)的に受動的に、芸術(げいじゅつ)愛好家になるのではなく、もっと積極的に、自信をもって創る(つく )という感動、それをたしかめること。作品なんて結果にすぎないのですから、かならずしも作品をのこさなければ創造(そうぞう)しなかった、なんて考える必要もありません。7創る(つく )というのを、絵だとか音楽だとかいうカテゴリーにはめこみ、私(わたし)は詩だ、音楽だ、踊り(おど )だ、というふうに枠(わく)に入れて考えてしまうのもまちがいです。それは、やはり職能(しょくのう)的な芸術(げいじゅつ)のせまさにとらわれた古い考え方であって、そんなものにこだわり、自分を限定(げんてい)して、かえってむずかしくしてしまうのはつまりません。
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 8それに、また、絵を描き(えが )ながら、じつは音楽をやっているのかもしれない。音楽を聞きながら、じつはあなたは絵筆こそとっていないけれども、絵画的イメージを心に描い(えが )ているのかもしれない。つまり、そういう絶対(ぜったい)的な創造(そうぞう)の意志(いし)、感動が問題です。
 9さらに、自分の生活のうえで、その生きがいをどのようにあふれさせるか、自分の充実(じゅうじつ)した生命、エネルギーをどうやって表現(ひょうげん)していくか。たとえ、定着された形、色、音にならなくても、心の中ですでに創作(そうさく)が行なわれ、創る(つく )よろこびに生命がいきいきと輝い(かがや )てくれば、どんなにすばらしいでしょう。
 0だから、創ら(つく )れた作品にふれて、自分自身の精神(せいしん)に無限(むげん)のひろがりと豊か(ゆた )ないろどりをもたせることは、りっぱな創造(そうぞう)です。
 つまり、自分自身の、人間形成、精神(せいしん)の確立(かくりつ)です。自分自身をつくっているのです。すぐれた作品に身も魂(たましい)もぶつけて、ほんとうに感動したならば、その瞬間(しゅんかん)から、あなたの見る世界は、色、形を変える。生活が生きがいとなり、今まで見ることのなかった、今まで知ることもなかった姿(すがた)を発見するでしょう。そこですでに、あなたは、あなた自身を創造(そうぞう)しているのです。

(岡本(おかもと)太郎(たろう)『今日の芸術(げいじゅつ)』より)
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a 長文 1.4週 ne2
 1二〇〇六年のトリノ・オリンピックで日本勢(ぜい)は低迷(ていめい)を続けていたが、ようやく最後の最後になって、荒川(あらかわ)静香(しずか)選手が女子フィギュアで金メダルを獲得(かくとく)し、一気に盛り上がり(も あ  )を見せた。
 2「静かなる湖の朝」を思い起こさせる荒川(あらかわ)選手の演技(えんぎ)は、跳ん(と )だりはねたりする「元気なフィギュア」のスタイルに対して、みごとに「別の選択肢(せんたくし)」を見せてくれたのではないかと思う。3得点にはあまり貢献(こうけん)しないとされても、観客を魅了(みりょう)する「イナバウアー」にこだわった荒川(あらかわ)選手の快挙(かいきょ)は、単に金メダルにとどまらない意味を持つ。
 「金」「銀」「銅(どう)」を「一」「二」「三」と言い直してみればわかるように、メダルとは、つまりは参加した選手の中での順位=「数字」である。4よく言われることだが、勝者が出るためには、敗者が存在(そんざい)しなければならない。全員に「一」という順位の数字をプレゼントすることはできないのだ。
 一方で、競技(きょうぎ)をしている選手たちにとっては、「順位」では捉え(とら )きれないさまざまなよろこびがあるのは当然のことである。5自分を少しずつ高めていくこと。今までできなかった技(わざ)ができたこと。ケガを乗りこえたこと。
 人間の脳(のう)でつくり出される「うれしさ」は、さまざまであり、他人と比べ(くら )てどうかということとは、本来関係ないのである。
 6人間の脳(のう)は他人との関係性(せい)から多くのよろこびを得るが、その本筋(ほんすじ)は誰か(だれ )の役に立つことができたとか、心が通じ合ったという点にある。
 競技(きょうぎ)もまた関係性(せい)の一種であり、そこで一番になったということは、本当は副次的なことなのだ。
 7強いて言えば、一番になることで「人に認め(みと )られる」「ほめられる」ということがうれしいのかもしれない。それでも、けっして、「一番」という数字自体に人間関係における根源(こんげん)的な意味があるわけではないのである。
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 8荒川(あらかわ)選手は、「ポイント(=数字)につながらなくても、人がよろこぶことをやりたい」という思いを強く持っていたと伝えられている。
 そのような、いわば脳(のう)にとっての「うれしさ」の本筋(ほんすじ)が金メダルにつながったのだから、これほどすばらしいことはない。
 9本質(ほんしつ)を見極めずに、単に順位にこだわるのは、「数字フェチ」とでも言うべきだろう。
 年収(ねんしゅう)、偏差(へんさ)値(ち)、年齢(ねんれい)。人間を惑わ(まど )せる数字はたくさんある。数字にこだわるまいと思っても、ついつい左右されてしまうのが人間である。軽い数字フェチは、進化の過程(かてい)でそれなりに役に立ったらしい。
 0確か(たし )に、人間は皆(みな)、ある程度(  ていど)、数字フェチなのである。うれしいことがあったときに活動する脳(のう)の「報酬(ほうしゅう)系(けい)」は、「これだけの額(がく)のお金をあげます」などといった抽象(ちゅうしょう)的な刺激(しげき)でも活性(かっせい)化する。数字は、もともと人間の脳(のう)にとってはきわめて抽象(ちゅうしょう)的な概念(がいねん)である。その現実(げんじつ)から離れ(はな )た存在(そんざい)に自らのよろこびを託す(たく )ことができるということが、人間ならではの「クセ」らしい。
 学校の成績(せいせき)や、お小遣い(こづか )の額(がく)や、一国の経済(けいざい)成長率(りつ)。数字に一喜一憂(いっきいちゆう)する人間は、動物たちから見れば、かなり奇妙(きみょう)な存在(そんざい)である。ときには、俺(おれ)たちはずいぶんヘンらしい、と反省することが必要だろう。
 荒川(あらかわ)選手の金メダルは、数字フェチたる人間のよろこびを、「他人をよろこばせる」という生きることの根源(こんげん)に結びつけてくれたのである。

(茂木(もぎ)健一郎(けんいちろう)『すべては脳(のう)からはじまる』「中公新書ラクレ」)
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a 長文 2.1週 ne2
 1商品化された「いれもの」を買うときのわれわれは、ときとして、そのなかにはいるものを買うときよりも慎重(しんちょう)である。 たとえば、小麦粉だの砂糖(さとう)だのは、日常(にちじょう)の必需(ひつじゅ)品であって、べつに銘柄(めいがら)を指定することもないが、それらの食品をいれるキャニスターを買うときには、あちこちの店を歩きまわって、よいデザインの品物をさがす。2値段(ねだん)が多少高くても、うつくしいものを手にいれようと一生けんめいになる。
 タンスなどもそうだ。値段(ねだん)と実用性(せい)からいえば、デパートの特価(とっか)品売場にたくさんタンスがならんでいるから、そのなかからえらべばそれでよいのだが、ながく使う家具、と思うと、なかなか実用一点ばりで気軽に買う気にはなれない。3使われている材料だのデザインだのを吟味(ぎんみ)して、いいタンスをさがしまわる。
 つまり、「いれもの」は、たんなる「ものいれ」ではないのである。「いれもの」はそれじたいの価値(かち)をもつのである。まえにあげた女性(じょせい)のハンドバッグなどもその一例だ。4実用的機能(きのう)からいえば、財布(さいふ)だの化粧(けしょう)品だのといった小物がそのなかにはいればそれでよいので、極端(きょくたん)にいえば、丈夫(じょうぶ)な紙袋(かみぶくろ)だって間にあう。しかし、そうはゆかない。ハンドバッグは、「ものいれ」なのではなく、それじしん、うつくしい「もの」でなければならないのである。5だから、ハンドバッグその他の袋もの(ふくろ  )に、高いおカネを払う(はら )。
 そればかりではない。「いれもの」がうつくしい「もの」であることによって、そのなかにはいるものの価値(かち)もすっかりかわってしまうからふしぎである。そのことが如実(にょじつ)にわかるのは食器という名の「いれもの」だ。
 6たとえば、ここに、一丁のなんの変哲(へんてつ)もない豆腐(とうふ)がある。これを湯豆腐(ゆどうふ)にして食べよう、と思う。そして、湯豆腐(ゆどうふ)をつくるための「いれもの」は、いろいろある。
 もしも、安上りにやろうと思ったら、雑貨(ざっか)店に行って、小さなアルミのナベを買ってきたらよい。7このナベの底に昆布(こんぶ)を敷き(し )、豆腐(とうふ)を入れて火にかければ、やがて湯豆腐(ゆどうふ)はできあがる。味もそうわるくはない。学生街の食堂などで湯豆腐(ゆどうふ)といえば、だいたい、こ
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んなふうに安上りの「いれもの」にはいったもののことを意味する。8わたしも、しばしば、そういう学生食堂の湯豆腐(ゆどうふ)を食べてきた。
 だが、それだけが湯豆腐(ゆどうふ)の「いれもの」なのではない。高級な湯豆腐(ゆどうふ)の店では、京都の「たる源(げん)」でつくられた、小型の湯ぶねのようなたるで湯豆腐(ゆどうふ)の料理をしてくれる。9木のにおいがぷんとして、たいへんに清潔(せいけつ)だ。そして、とてもおいしい。おいしいかわりに、学生食堂のアルミ・ナベの湯豆腐(ゆどうふ)のねだんの数十倍のおカネを払わ(はら )なければならない。
 このふたつの湯豆腐(ゆどうふ)は、どうちがうか。0材料として使われている豆腐(とうふ)にも、もちろん、ちがいがあるだろう。ひとくちに豆腐(とうふ)といっても、いろいろつくりかたのうえでのコツだの原料の大豆の質(しつ)だのがちがうから、上等の豆腐(とうふ)と、ふつうのそれとはおなじだとはいえない。
 しかし、より大きなちがいは「いれもの」のちがいなのである。すくなくとも、わたしのような味のシロウトは、「いれもの」で、完全に降参(こうさん)してしまう。「いれもの」がよければ、それだけで、中身がおいしく感じられ、「いれもの」が貧弱(ひんじゃく)だと、あんまり食欲(しょくよく)もわかない。
 じっさい、日本の料理は、「いれもの」の芸術(げいじゅつ)なのである。サトイモとエンドウ豆の煮つけ(に  )、といった、ごく素朴(そぼく)な料理でも、それが古九谷のうつくしい鉢(はち)にすこし盛りつけ(も   )られて、サンショウの葉などがあしらわれていると、天下の珍味(ちんみ)とみえ、ギンナンをホウロクで煎っ(い )たものが、黒ウルシの皿で出されたりすると、これも、すばらしい食事だ、と感じられる。まさしく、ここにあるのは、「いれもの」の魔術(まじゅつ)である。

(加藤(かとう)秀俊(ひでとし)『暮し(くら )の思想』による)
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a 長文 2.2週 ne2
 1相手あっての文章という考えに立つと、文章は料理のようなものだということがわかってくる。
 料理は作った人も食べる。味見や毒味もする。しかし、料理は食べてくれる人がなくては張り合い(は あ )がない。2料理の先生が、独り暮し(ひと ぐら )の自分のマンションではインスタント・ラーメンを食べているという話がある。教わりたい人がいるから、先生にもなる。うまいと感心してくれる人がいるからこそ、腕(うで)を振るっ(ふ  )てめんどうな料理もこしらえる。3自分ひとりだけ食べるのでは、とてもそんな手間ひまをかける気がしないというのであろう。
 文章は料理、とすると、まず、食べられなくてはいけない。何を言っているのか、わからない。これでは料理ではない。スープなのか、みそ汁(  しる)なのかわからないのでは食べる方は迷惑(めいわく)である。
 4若い(わか )人の書く文章に、誤字(ごじ)、脱字(だつじ)、当て字が多いと言われる。ご飯の中に石が入っているようなもので、石が歯にカチッと当たるのはたいへん気になる。そういう混ざり(ま  )ものをなくさないと、せっかくの料理も台なしになってしまう。5文章が料理だとすると、ある程度(  ていど)、栄養があり、ハラもふくれないといけない。見てくれだけの料理というのもあるが、本当に相手のことを考えていない。文章で言うと、しっかりした内容(ないよう)があることであろう。6いくら表現(ひょうげん)にこってみても、中身がなくては困る(こま )。何を言っているのかが読む側にはっきり伝わり、なるほどと納得(なっとく)するのがいい文章となる。
 料理で、いちばん大切なのは、おいしい、ということである。いくら栄養があっても、うまくなくては落第。7つい食べ過ぎ(す )てしまうようなものが上手な料理というものである。もうやめておきたいと思いながら、つい、もうすこし、もうすこし、と後を引くようなご馳走( ちそう)を作るのが本当の名コックだ。
 文章もその通り。
 8いくら、りっぱなことが書いてあっても、三行読んだら、あとはごめん、と読者が思うようなのではしかたがない。先、先が読みたくなって、気がついてみたらもう終わっていた。ああ、おもしろかった。こういう文章ならいくら読んでもいい。9そういう気持を与え(あた )たら名文と言ってよい。
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 いまの文章は、多く、読者に対するそういうサービスの精神(せいしん)に欠けているように思われる。自分の書きたいことを一方的にのべる。身勝手なのである。同じことなら、おもしろく読んでもらおうという親切心が足りない。
 0いま、クッキングスクールで料理の勉強をする人はたくさんいるが、文章の料理を教えるところは、ごくすこししかない。おもしろい文章を書こうと思う人がすくないからであろうか。
 ちょっと断っ(ことわ )ておかなくてはならないのは、その「おもしろさ」である。
 おもしろいというと、すぐ、おもしろおかしく、吹き出し(ふ だ )たり、ころげ回って笑ったりすることを連想しがちである。そういうおもしろさもないわけではないが、ここで言っているおもしろさは、相手の関心をひくもの、といったほどの意味。読まずにはいられない、放ってはおかれないという気持を読む人に与える(あた  )もの、それがおもしろさである。興味深い(きょうみぶか )もの、知的な快い(こころよ )刺激(しげき)を感じさせるものは、すべて、おもしろいものになる。どんなに固い学術(がくじゅつ)論文(ろんぶん)でも、こういう意味ではきわめておもしろい、興味しんしん(きょうみ    )の文章でありうる。
 文章は料理のように、おいしく、つまり、おもしろくなくては話にならない。

(外山滋比古(とやましげひこ) 「料理のように」 一部改変)
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a 長文 2.3週 ne2
 1人間には、他人と違っ(ちが )ていることを非常(ひじょう)にいやがる気持ちと、他人とどこかちがっていないと満足出来ない気持ちとがからみ合っているようであります。2かなり小さい時でも、ほかの子供(こども)とちがった身なりをしていることはいやなことでありまして、たとえ自分がほかの子供(こども)よりも上等な服を着ていましても、それを一刻(いっこく)も早く脱ぎ(ぬ )たいことを大概(たいがい)の人が何かの折りに経験(けいけん)していると思います。3そうかと思いますと、一様の制服(せいふく)を着せられている女学生などが、殆ど(ほとん )目につかないところに一本襞(ひだ)を入れるとか、胸(むね)を少しばかり広くあけるとかして、みんなと違っ(ちが )たところを創り出そ(つく だ )うとしていることが見受けられます。4世の中の服装(ふくそう)の流行は、目まぐるしく変りますが、学生の制服(せいふく)でも細かい流行があります。どんどん新しい流行が生まれるのは、他人と同じではいやだというところと、それに遅れ(おく )て自分だけが流行おくれのなりをしては大変だということが微妙(びみょう)にからんでいるようであります。5服装(ふくそう)などの流行は、大部分表面的なもので次々と移り変っ(うつ かわ )て行きますけれども、私(わたし)が先程(さきほど)真似(まね)をするといいと申しましたのは、もう少し深い意味を含め(ふく )ていたつもりなのです。つまり真似(まね)をして、どうしても真似(まね)られないところに突きあたっ(つ    )た時に自分自身の創造(そうぞう)する力、創り出す(つく だ )力、それを発見することを含め(ふく )ていたのです。6自分には独創(どくそう)性(せい)というものがないのではないか、最初は誰(だれ)もがそう思うのですけれども、何か一つの活動を真剣(しんけん)になってやっていれば、必ず自分の独特(どくとく)の力量というものが発見される筈(はず)です。それですから真似(まね)をすることは一つの手段(しゅだん)であります。7手段(しゅだん)といいますよりは、私(わたし)どもを動かすいわば原動力であります。したがって、うまく真似る(まね )ことが出来たと思ってそこで満足をしてそれで終わってしまっては何にもなりません。
 そこで私(わたし)は真似(まね)の仕方に上手下手があると思います。8ひょっこり大金が手に入ったような時に、ある人は、それまで漠然と(ばくぜん )夢み(ゆめ )ていたハイカラな生活をしてやろうとして、何でもかまわずお金持
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ちの持っているものを買い集め、舶来(はくらい)のもの、高いものを求めます。9そしてよく話にあるとおり、洋服箪笥(たんす)や長椅子(ながいす)が家の中に入らなかったり、大騒ぎ(おおさわ )をしてそれで夢(ゆめ)がさめるのです。真似る(まね )ためにはもっと慎重(しんちょう)な態度(たいど)が要るのでして、真似(まね)をしてもそれを自分なりに充分(じゅうぶん)こなせることを順に選んで、そして心身ともに楽しい、進歩の感じられるような生活に切りかえて行くのが上手な真似(まね)の仕方だと思います。0これは個人(こじん)の場合でもはっきりしていますが、少し気をつけて考えてみますと、社会生活の上にも、考えなしに外国の生活の真似(まね)をしてしまって、そしてそれが真似(まね)に終わって、ちぐはぐな、ぎこちない、具合の悪いものがいっこうに改良されずに残っているものがずいぶん私(わたし)たちの周囲にはあります。明治のころのあの文明開化で、無反省に取り入れてしまったのは、ズボンをはいて座布団(ざぶとん)に座ら(すわ )なければならない生活にも残っていますし、また、戦争後、文化国家ということになった日本が外国から仕入れた多くの電気器具やその他の立派(りっぱ)な道具などで、冬の停電の時に何ともいえず味気ない姿(すがた)をさらしているものもあるわけであります。あれほど多くの人が尊ん(たっと )でいる独創(どくそう)性(せい)が生まれてこないのは、一つは真似(まね)の仕方が下手だということにもあるようです。

(串田(くしだ)孫一の文章による)
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a 長文 2.4週 ne2
 1たとえばサッカーのワールドカップを観る。多くの日本人がスタジアムやスポーツ・カフェや、あるいは自宅(じたく)などで応援(おうえん)をしている。そして日本人がゴールした瞬間(しゅんかん)、その興奮(こうふん)と喜びは一瞬(いっしゅん)にして全ての日本人の間をかけめぐります。2特にスタジアムにいる人などは、みごとに嬉しい(うれ  )という感情(かんじょう)で一つになる。これは、感情(かんじょう)というものが非常(ひじょう)に伝わりやすい性質(せいしつ)を持っているからです。
 感覚とか考えていることとかは、なかなかダイレクトには伝わりません。3ところが感情(かんじょう)は脳(のう)という垣根(かきね)を越え(こ )て瞬時(しゅんじ)に伝わっていく。この性質(せいしつ)については人間も他の動物も変わらないようです。
 さてそれでは、この感情(かんじょう)が伝わるということがすなわち分かり合えるということなのか。同じ感情(かんじょう)さえ共有すれば人は互いに(たが  )優しく(やさ  )なれるのか。4もちろんそれは出発点ではあるかもしれませんが、単にそれだけのものではない。他人の気持ちが分かるというのは、それほど単純(たんじゅん)な図式ではないのです。ただ、この共感回路というものがベースになっていることは確か(たし )でしょう。5人が苦しんでいるのに何とも思わないほどに共感回路が働かなければ、それは優し(やさ )さとはかけ離れ(  はな )たものになります。
 今もし、人の気持ちが分からない人が増え(ふ )ているとしたら。優し(やさ )さが失われつつあるとしたら。それはきっと共感回路の機能(きのう)が低下しているからと言えるでしょう。
 6他人の心が分かるということが、なぜにこれほど難しい(むずか  )ことなのか。感情(かんじょう)などが瞬時(しゅんじ)に伝わるという共感回路を持ちながらも、なかなか他人の心を理解(りかい)することができない。実はその理由は、人間にしか持ち得ないある特性(とくせい)があるからです。
 7その特性(とくせい)の正体はポーカー・フェイス。つまり心に抱い(いだ )ている感情(かんじょう)と、表に出てくる顔の表情(ひょうじょう)にくい違い(ちが )があるということです。他の動物は感情(かんじょう)の動きと表情(ひょうじょう)が常に(つね )一致(いっち)しています。怒っ(おこ )ている時はキバをむき出しにするし、喜んでいる時は体でそれを表現(ひょうげん)する。8要するに互い(たが )の顔や目、あるいは体の動きを見るだ
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けで相手の心が理解(りかい)できます。
 ところが人間は、心の動きを表に出さず、隠し(かく )てしまうことができます。本当は悲しいのに笑顔をつくることができる。ものすごく怒っ(おこ )ているのに、冷静な表情(ひょうじょう)をつくることができる。9あるいは置かれた状況(じょうきょう)に応じ(おう )て、その場に合った表情(ひょうじょう)をつくることもできます。たとえば葬儀(そうぎ)の場所などではそうです。亡くなっ(な   )た人のことを大して知らなくても、また大した悲しみを覚えていなくても、意図的に悲しい表情(ひょうじょう)をつくることができる。0なかには本物の涙(なみだ)を流せる人もいるでしょう。
 こうしたポーカー・フェイスがあるからこそ、互いに(たが  )気持ちが分かり合うことが難しく(むずか  )なる。また、分からないことによって誤解(ごかい)が生じたりするのです。まずはこのポーカー・フェイスの存在(そんざい)をよく認識(にんしき)すること。他人の心というものは、必ずしも見かけとは一致(いっち)しないということ。そのことをよく理解(りかい)しておかなくては、社会生活は成り立っていきません。
 他人を思いやる気持ち。互いに(たが  )分かり合おうとする気持ち。それはまさに、見かけと違う(ちが )心の状態(じょうたい)をいかに推測(すいそく)できるかということになるでしょう。そしてこの推測(すいそく)する力の高い人ほど、人間関係力も高いということが言えるのです。
 では、そうした力はどうすれば高めることができるのか。やはりそこには「感動」というものがあるような気がします。新しいものや美しいものに触れ(ふ )て感動するというだけでなく、人間関係の中での感動を味わうこと。他人と心が通い合うことで、静かな感動を体感することが大切です。

(茂木(もぎ)健一郎(けんいちろう)『感動する脳(のう)』「PHP研究所」より)
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a 長文 3.1週 ne2
 1甘い(あま )おしるこを食べているとだんだん甘(あま)さを感じなくなります。これは、味覚が疲労(ひろう)して甘み(あま )の感度が落ちたからだとも考えられます。途中(とちゅう)に塩味の強い漬物(つけもの)を食べるのは、味の対比(たいひ)を作って、甘味(あまみ)の感覚を再(さい)覚醒(かくせい)させるためです。
 2トイレの臭い(にお )は好ましいものではありません。しかし、しばらくすると、何も感じなくなって、平気で入っていられるようになります。嗅覚(きゅうかく)は非常(ひじょう)に疲労(ひろう)が速いので、トイレに入っても臭い(にお )を気にせず、新聞を読んでいられるのです。3人間は一分間に二〇回も呼吸(こきゅう)しているので、呼吸(こきゅう)のたびごとにくさい臭い(にお )をかいでいたのではたまりません。感覚器はむしろ自らの疲労(ひろう)によって、脳(のう)の疲労(ひろう)を防い(ふせ )でいるのです。このことから考えてみると感覚が疲労(ひろう)しはじめているのに無理に同じ仕事を続けることは、あまりよいことだとは言えません。(中略(ちゅうりゃく))
 4毎日同じ仕事を長く続けていると、それほど苦労しないのに職場(しょくば)での仕事が楽になり、上手になってきます。このような人は熟練工(じゅくれんこう)と言われ、大切にされます。人間国宝(こくほう)と言われる人も、その道の熟練工(じゅくれんこう)として、くり返しによって身についた能力(のうりょく)が土台になっているのでしょう。
 5同じ仕事を繰り返し(く かえ )ていると、「もう分かっている」とか「またか」という状況(じょうきょう)になるので、努力しないでも習慣(しゅうかん)的に行動ができるようになります。これが馴れ(な )の現象(げんしょう)であり、頭を使わなくてもすむので、頭を経済(けいざい)的に働かせることができ、脳(のう)に余裕(よゆう)が生まれるのです。6脳(のう)を休ませることによって、いざというときにはいつでも仕事ができるように、待機しているのです。
 さまざまな刺激(しげき)にいちいち真正直に反応(はんのう)していたのでは、脳(のう)も忙し(いそが )すぎて疲れ(つか )てしまいます。7例えば、まじめな部下が細かいことまでいちいち報告(ほうこく)してきたら、上司はそのために疲れ(つか )て、適切(てきせつ)な判断(はんだん)を下すことも困難(こんなん)になってしまいます。そこで感覚器の方も「またあの人がきたか、どうせ同じことを言うだけだ」と門前払い(もんぜんばら )
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をしようとします。8はじめのうちはちょっと呼ん(よ )でもすぐ返事をしていましたが、またかと感ずると返事もしなくなります。返事をしてもらうためには、もっと大きな声で呼ば(よ )なければなりません。すでに分かっている場合には、脳(のう)に負担(ふたん)をかけないために、むしろ常套(じょうとう)的な行動をとってしまうのです。9こうした感覚感度をみるのに閾値(いきち)という言葉が使われます。閾(いきち)とは、越す(こ )か越さ(こ )ないかの境目(さかいめ)の値(あたい)のことで、この値(ね)を越し(こ )てきたものが反応(はんのう)に値する(あたい  )刺激(しげき)の強さとなるのです。0
 「馴れ(な )」ている事柄(ことがら)に対しては誰(だれ)もあまり気を使いません。これも神経(しんけい)系(けい)の疲労(ひろう)を防ぐ(ふせ )方法なのです。馴れ(な )ていることはあえて努力しなくてもなしとげられるものなのです。
 四季の変わり目には敏感(びんかん)だが、やがて真夏の暑さと、真冬の寒さに耐え(た )られるようになることを、気候順化と言います。同じことが身体にも起こります。四季の変化に対してもはじめのうちは敏感(びんかん)ですが、徐々に(じょじょ )感覚が鈍く(にぶ )なるのは、刺激(しげき)に対する閾値(いきち)が上がったことを意味しています。
 はじめて腕時計(うでどけい)をはめたり入れ歯を入れたときは気になるものですが、やがて何も感じなくなります。これは触覚(しょっかく)の馴れ(な )であり、やはり感覚疲労(ひろう)の効用(こうよう)と言えましょう。

(渡辺(わたなべ)俊男(としお)『人はどうして疲れる(つか  )のか』より)
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a 長文 3.2週 ne2
 1手紙を書く機会が減っ(へ )た。現在(げんざい)では、手紙は、基本(きほん)的に礼状(れいじょう)や冠婚葬祭(かんこんそうさい)の挨拶(あいさつ)状(じょう)や案内状(じょう)くらいにしか使われていないのではあるまいか。ほとんどの人が、電話で用を済ませる(す   )。
 が、もっと手紙を書くべきではなかろうか。手紙には長所がたくさんある。2第一の長所は、よく言われるとおり、電話と違っ(ちが )て暇(ひま)な時間に読んでもらえることだ。電話は他人の時間を邪魔(じゃま)する。相手は風呂(ふろ)に入っているかもしれない。家庭内で問題を抱え(かか )ているかもしれない。いつも、人とおしゃべりをする余裕(よゆう)があるとは限ら(かぎ )ない。3手紙であれば、電話ほどの押しつけがまし(お      )さがない。
 しかし、手紙の長所がこれだけだと思われてしまうのは、私(わたし)としては心外だ。ほかに、いくつもの手紙の長所があるのだ。
 二番目の長所、それは、電話よりもまとまったことが一方的に語れるということだ。4電話の場合、どうしても、相手とのやり取りになる。一人で一〇分間しゃべることはできない。もし、そんなことをしたら、不躾者(ぶしつけもの)という評判(ひょうばん)が立つのがオチだろう。すぐに返事が必要で、相手と相談しながら結論(けつろん)を出さなければならないときには、電話が便利だが、そうでなければ手紙が好ましい。5手紙なら、一定時間、自分の文章に釘(くぎ)づけにできる。長い間、自分の言いたいことに耳を傾け(かたむ )てもらえる。
 第三の長所、それは手紙の場合、じっくりと書き直せることだ。口で言うと、その場で返事が返ってくるのは便利な反面、自分の言葉を吟味(ぎんみ)できない。6言い直しにくい。頭の回転の速い人ならいいかもしれないが、私(わたし)レベルの頭の回転だと、言った先から、「しまった、こんなこと言うんじゃなかった」と思う。しかも、話をするときには、相手の反応(はんのう)を予想してじっくりと対策(たいさく)を立てることができない。7だが、手紙なら、一度書いたあとしばらくしまっておいて、もう一度読み返すことができる。相手の立場になって考え直すことができる。文体を練り、書き直せる。
 第四の長所、それは、手紙は理性(りせい)的になれることだ。8とりわけ、誰か(だれ )に抗議(こうぎ)をしたいような場合、口で言うと、けんかになる場合がある。微妙(びみょう)な問題の場合、売り言葉に買い言葉ということにな
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りかねない。ところが、手紙であれば、冷静に考えることができる。9相手の言い分を言い負かそうと書いているうちに、相手の言い分にも正しい面があることに気づいたりする。あるいは逆(ぎゃく)に、もっと的確(てきかく)な自分の考えを見つけ出すこともできる。両者ともに納得(なっとく)するアイディアを思いつくこともあるかもしれない。0時には、書くうちにますます熱を帯びることもないではないが、その場合も、書いた後には冷静になることも多い。したがって、書きおわった後、すぐに投函(とうかん)しなければ、理性(りせい)的に考えることができる。
 もう一つ、手紙の長所がある。それは、相手が繰り返し(く かえ )読むことができることだ。もちろん、それは短所にもなる。不用意なことを書くと、それがのちのちまで尾(お)を引くことになりかねない。そうならないように細心の注意が必要だ。だが、楽しい手紙であれば、繰り返し(く かえ )読むことになる。そうなることで、手紙は人と人との関係をいっそう緊密(きんみつ)にすることができる。意地の悪い言い方をすれば、手紙をうまく使えば、面と向かって話をすると気まずくなる人とでも、心のふれあいができるのだ。そして、それをきっかけにして、良い関係を作ることもできるだろう。

(樋口(ひぐち)裕一(ゆういち)『ホンモノの文章力』より)
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 1若い(わか )人たちにとっては、自分の才能(さいのう)がどこにあるのかとか、はたして自分になんらかの意味で才能(さいのう)というものがあるのか、ということは非常(ひじょう)に大きな問題だろうと思います。2それで、世の中で成功した人を見ていると、はじめから才能(さいのう)が満ちあふれていて、何もまよいなくその道にずっと邁進(まいしん)してきたように見えるかもしれない。
 いや、なかにはそういう人もいるだろうと思います。3モーツァルトとかベートーベンとか、あるいはゴッホとか、たしかにいるとは思いますが、しかしそれはほんとに何億人に一人の希有な例であって、ほとんどの人はそうではない。
 4現に(げん )例えば、音楽家で、あるいはシンガーとして成功しているとか作家として成功している、あるいは大会社の社長になっている、証券(しょうけん)界でディーラーとして何百億円もの利益(りえき)を上げているとか、そういうふうに成功している人をみると、5何か揺るぎない(ゆ    )ものがあるようにみえるけれども、しかし、そういう彼ら(かれ )にしてからが、おそらく、十代のころとか、大学を出てから数年の間のいわゆる若い(わか )時代というのは、きっと、はたして自分はこの道に進んでよかったのだろうかとか、6ほんとは自分は別のところに才能(さいのう)があるんじゃないだろうかとか、もっと自分にとってよい人生がどこかに用意されているような気がする、とかいうような気持ちの揺れ(ゆ )というかまよいのようなものは、かならずあったに違い(ちが )ないんです。
 7だから、はじめから自分の才能(さいのう)はこの程度(ていど)だ、とかいうふうに、自分で自分を決めつけてしまうことは、一種の敗北主義(しゅぎ)で、もう闘わ(たたか )ずして敗れているようなものです。
 8一つの目安としては、三十歳(さい)までに一つの方向が見えてくれば、その人にとっては、見極めは早いほうだ、とそのくらいの巾(はば)で考えておくといいだろうと思います。
 9昔のように、例えば、小学校を出たらすぐ社会に出て、丁稚(でっち)奉公(ぼうこう)からはじめて、というようなことであれば、これは二十歳(さい)にな
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るころには相当社会経験(けいけん)を積んだ、一人前の社会人になり得るということだけど、いまは大半が大学まで行くような世の中になってきたので、おのずから状況(じょうきょう)が変わったんです。
 0つまり、大学の卒業まではモラトリアムですから、とくに何も決めなくても構わ(かま )ない。
 そうすると、大学卒業が間近となるまで、あるいは就職(しゅうしょく)というものが目の前にぶら下がってくるまでは、誰(だれ)も、はたして自分の才能(さいのう)はいずこにありや、なんていうことはそれほど切実に考えないですむわけです。
 ほんとうに切実に考えるのは、卒業が間近になったころ、あるいは、卒業して実際(じっさい)に社会に出てから、何かで挫折(ざせつ)感を味わって、そこではじめて、ウームこれでよかったのかと考えるチャンスがやってくる。つまり二十歳(さい)から三十歳(さい)の間ぐらいのところが一番いろいろ揺れ動く(ゆ うご )ところじゃなかろうかと思うんですね。
 才能(さいのう)というものは、実際(じっさい)はブラックボックスのようなもので、本人が、俺(おれ)はこれに才能(さいのう)があると思っているにもかかわらず、全然才能(さいのう)のない場合もあり、本人は思いもかけないのに、たいへんに才能(さいのう)があるという場合もあって、かならずしも、自己(じこ)評価(ひょうか)と、人から見た評価(ひょうか)とは一致(いっち)しないものです。そこに才能(さいのう)というものの、やっかいにしてしかしおもしろいところがあります。
 だから、私(わたし)の意見はこうです。
 才能(さいのう)がどこにあるかは今すぐ自分だけでは分からないし、また、どの程度(ていど)の才能(さいのう)であるかも測れ(はか )ないけれども、しかし、たしかにそれぞれの人にはそれぞれの人の才能(さいのう)というものがあり、得意・不得意、得手・不得手というものがあることも動かない事実です。そうでしょう?

(林望『魅力(みりょく)ある知性(ちせい)をつくる24の方法』による)
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 1じっさい、日本人にとって、いちばん使いにくい言葉は「ノー」なのである。むろん、日本人も「いいえ」とか「いや」とかいうが、どんな否定(ひてい)の言葉も、「ノー」のように、はっきりしていない。「ノー」というのは、きっぱりと否定(ひてい)することである。2はっきりと断わる(こと  )ことでもある。ところが、日本人はどうもそれが苦手なのだ。げんに「きっぱりと断わる(こと  )」というような表現(ひょうげん)がその間の心情(しんじょう)をよく語っている。
 断わる(こと  )というのは、そもそも「はっきりと断わる(こと  )」ことではないか。3それなのに、「きっぱり」とか「はっきり」などという限定(げんてい)詞(し)をつけるのは、日本人にとって「断わる(こと  )」ということが「きっぱり」「はっきり」した否定(ひてい)を意味していないということを語っている。もし、そんなふうにきっぱり断わっ(こと  )たなら、相手はつれないと思うだろう。4「すげなく断わら(こと  )れた」と思われるにちがいない。そんなふうに思われたらやりきれないので、まずは一応(いちおう)断わっ(こと  )ておくのだ。つまり、いくばくかの可能(かのう)性(せい)を残しておくわけである。そして、徐々に(じょじょ )相手にこちらの否定(ひてい)の意志(いし)を感じとらせるというやり方を取る。

(中略(ちゅうりゃく))

 5ある販売(はんばい)会社の壁(かべ)に、こんな標語が貼っ(は )てあるのを見かけた。「セールスは断わら(こと  )れたときに始まる」。それを見て私(わたし)は、あっぱれな精神(せいしん)!と大いに感心したのだが、同時に、なんと日本的なスローガンだろうか、と思った。6なぜなら、この標語は「日本人にとって断わる(こと  )ということは、けっしてきっぱりと断わる(こと  )ことではない」といっているように思えたからである。もし断わる(こと  )ことが、きっぱり断わる(こと  )のと同義(どうぎ)であるなら、こんな標語は成り立つわけがない。7いくら説得しても、客は最後まで「ノー」というであろうからだ。ところが、こうしたスローガンが立派(りっぱ)に通用し、社員を鼓舞(こぶ)
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しているところを見ると、日本人の否定(ひてい)は完全な否定(ひてい)ではなく、あくまで一応(いちおう)の否定(ひてい)であって、その否定(ひてい)はいつか肯定(こうてい)に転じる可能(かのう)性(せい)を持っていることが、わかる。8別言すれば、日本人にとってきっぱり断わる(こと  )こと、最後まで「ノー」といいつづけること、それがいかに困難(こんなん)であるか、この標語が見事にいい当てているのである。
 9このように、日本人は完全な否定(ひてい)を言明することをためらい、つねにいくばくかの肯定(こうてい)の余地(よち)を残すのを美徳(びとく)と考えるから、外国人とのあいだでしばしばトラブルが起きる。たいていの民族は、否定(ひてい)は否定(ひてい)、肯定(こうてい)は肯定(こうてい)と、それこそイエス、ノーをはっきりと区別している。0否定(ひてい)だか肯定(こうてい)だかわからないと、いらいらし、勝手にどちらかにきめて行動する。すると日本人はびっくりして、じつはそうではないんです、などと訂正(ていせい)する破目(はめ)になる。外国人のあいだで通念のようになっている日本人は不可解(ふかかい)だというイメージは、このような日本人の否定(ひてい)のあいまいさに大半をおうている。

(森本哲郎(てつろう)『日本語 表と裏(うら)』「新潮(しんちょう)文庫」)
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