1ゴッホ(有名な画家)の絵は、彼が生きているあいだは一般大衆にはもちろん、セザンヌ(有名な画家)のような同時代の大天才にさえ、こんな腐ったようなきたない絵はやりきれないとソッポをむかれました。当時はじっさい美しくなかったのです。2それが今日はだれにでも絢爛たる傑作と思われます。けっしてゴッホの作品自体が変貌したわけではありません。むしろ色は日がたつにつれてかえってくすみ、あせているでしょう。だがそれが美しくなったのです。3社会の現実として。こんなことはけっしてゴッホのばあいにかぎりません。受けとる側によって作品の存在の根底から問題がくつがえされてしまう。
こうなると作品が傑作だとか、駄作だとかいっても、そのようにするのは作家自身ではなく、味わうほうの側だということがいえるのではありませんか。4そうすると鑑賞――味わうということは、じつは価値を創造することそのものだとも考えるべきです。もとになるものはだれかが創ったとしても、味わうことによって創造に参加するのです。5だから、かならずしも自分で筆を握り絵の具をぬったり、粘土をいじったり、あるいは原稿用紙に字を書きなぐったりしなくても、なまなましく創造の喜びというものはあるわけです。
6私の言いたいのは、ただ趣味的に受動的に、芸術愛好家になるのではなく、もっと積極的に、自信をもって創るという感動、それをたしかめること。作品なんて結果にすぎないのですから、かならずしも作品をのこさなければ創造しなかった、なんて考える必要もありません。7創るというのを、絵だとか音楽だとかいうカテゴリーにはめこみ、私は詩だ、音楽だ、踊りだ、というふうに枠に入れて考えてしまうのもまちがいです。それは、やはり職能的な芸術のせまさにとらわれた古い考え方であって、そんなものにこだわり、自分を限定して、かえってむずかしくしてしまうのはつまりません。
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