a 長文 7.1週 ni
1「ドタッ、バタッ」
 という音が聞こえ、私(わたし)は一体何が出てくるのだろうと、嬉しい(うれ  )よりも怖く(こわ )なってしまった。
 これまでで一番印象に残っているプレゼントは、七歳(さい)の誕生(たんじょう)日のときのことだ。なにしろ、品物でも食べ物でもなく、生き物を贈ら(おく )れたのだから。
 2両親が買ってきたのは、アメリカンショートヘアーの子猫(こねこ)だった。私(わたし)を驚か(おどろ )せようと直前まで隠し(かく )ていたようだが、ハウスの中で元気よく動き回る音が、廊下(ろうか)の向こうから響い(ひび )てきていた。
 3まだ小さかった私(わたし)にとって、それは未知の存在(そんざい)に対する恐怖(きょうふ)となり、父が運んでくるころにはその不安は頂点(ちょうてん)に達していた。喜ぶとばかり思っていた父は、私(わたし)が今にも泣きそうな顔になっているのを見て、困っ(こま )てしまったと言っていた。
 4ハウスから出てきた子猫(こねこ)は、想像よりはるかに小さかった。まるで新しい住みかを確かめるかのように、まん丸の瞳(ひとみ)で周囲をきょろきょろと見回している。よちよちとテーブルを歩き回っては、こてんと転んだりする。5そのかわいらしい姿(すがた)を見て、私(わたし)は「この子の面倒(めんどう)は私(わたし)が見てあげなきゃ」と決意した。
 「ロビン」という名前も、私(わたし)が悩み(なや )に悩ん(なや )でつけたものだ。しかし、そんなロビンとの暮らし(く  )は波乱(はらん)の連続で、私(わたし)は生き物を飼うことの大変さを知った。6食事やトイレのしつけはもちろんのこと、壁紙(かべがみ)をボロボロにされたり、お風呂(ふろ)に入れるたびに大騒ぎ(おおさわ )になったり、脱走(だっそう)したまま二日間も帰ってこず、心配で倒れ(たお )そうになったこともある。
 さらに、抱っこ(だ  )してやろうと手を伸ばせ(の  )ば、するりと逃げ出し(に だ )てしまうのだ。7いつでも手にとれるぬいぐるみとは違う(ちが )のだと痛感(つうかん)させられる。それでいて、自分がお腹( なか)が空いたときには体をこすりつけて露骨(ろこつ)に甘え(あま )てくるのだから、なんとも憎らしい(にく   )。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 学校でも飼育係をした経験があるが、その仕事は気が向いたときにエサをやったり、先生の指示があったときに水槽(すいそう)を洗っ(あら )たりする程度だった。
 8ロビンはもうすっかり、大切な家族の一員である。だが今にして思えば、あの七歳(さい)の誕生(たんじょう)日に両親からプレゼントされたのは、もっと大きな価値(かち)のあるものだったのかもしれない。
 9つまり、生き物を世話することでたくさんの思い出や教訓を得る、という機会だ。こうした自分の人生に生きてくるものこそ、人間にとって本当にありがたいプレゼントなのではないかと思った。0

(言葉の森長文作成委員会 ι)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 7.2週 ni
 1「そこをなんとか」という言い方はきわめてあいまいである。「そこ」とは何をさすのか。「なんとか」とはどういうことなのか。おそらく、これをそのまま外国語に翻訳(ほんやく)したら、まったく意味をなさないだろう。2いや、意訳(いやく)しても通じまい。だいいち、意訳(いやく)のしようがない。強いて説明するなら、「あなたはそのような理由で拒絶(きょぜつ)なさるが、その理由をもう一度考え直して、私(わたし)の要求に応じ(おう )てくださるまいか」とでも言うほかあるまい。
 3しかし、外国人が理由をあげてたのみを断る(ことわ )場合は、「だから、私(わたし)はあなたの願いをお引き受けするわけにはいかない」という確固たる(かっこ  )立場を表明しているわけで、したがって、もうそれ以上いくらたのんでも、応じ(おう )てくれる余地(よち)はない。4相手の要求をいれる余地(よち)がないからこそ、当人は断っ(ことわ )たのである。
 ところが、日本人は義理(ぎり)人情(にんじょう)にからまれて、どんなに明白な拒絶(きょぜつ)の理由があろうと、相手に熱心にたのまれたら、それをむげに断る(ことわ )のは、何か気がひけるように思ってしまう。5われわれはそれを「義理(ぎり)と人情(にんじょう)」のせいにするが、もともと義理(ぎり)と人情(にんじょう)とは、正反対の概念(がいねん)なのである。「義理(ぎり)」とは、正当な理のことであり、「人情(にんじょう)」とは、その理を解きほぐす(と    )情(じょう)を意味する。6このように、正反対のものを一緒(いっしょ)にし、折衷(せっちゅう)して、日本人はそこに独特(どくとく)の判断(はんだん)領域(りょういき)を設定(せってい)するのだ。それは、別言すれば「情状(じょうじょう)酌量(しゃくりょう)」といってもよい。7つまり、一切のことがらは、それ自体完結しているのではなく、時と場合に応じ(おう )て、伸縮(しんしゅく)自在(じざい)の形をとっているわけである。
 8だから、日本人のノーは、けっして絶対(ぜったい)的な否定(ひてい)ではなく、その一部にイエスを含み(ふく )、イエスは、その中にノーの要素(ようそ)をあわせ持っている。9「日本人の不可解(ふかかい)な笑い」といわれるものは、その時その時の、こうした判断(はんだん)から生まれているように私(わたし)には思われ
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

る。それを勘案(かんあん)するあいだ、日本人は微笑(びしょう)しているのである。とうぜん、外国人には、それが狡猾(こうかつ)なごまかしのように映る(うつ )。0けれど日本人は、これこそが人情(にんじょう)、すなわち、もっとも人間的な対応(たいおう)とみなすのだ。
 じっさい、「そこをなんとか」という表現(ひょうげん)の中には、日本人のものの考え方が、じつによくあらわれている。その考え方とは、すべては完全ではない、ということだ。そこで、たのむほうも、たのまれるほうも、いくばくかの部分が必ず保留(ほりゅう)されていることを前提(ぜんてい)に話し合う。したがって、あと、どのくらい可能(かのう)性(せい)の余地(よち)があるか、その「残された部分」を両者は見きわめようとし、この言葉が頻出(ひんしゅつ)するわけである。
 日本の絵画の特質(とくしつ)に「余白(よはく)」の美というのがある。それに対してイスラムの芸術(げいじゅつ)は、まったく逆(ぎゃく)で、空白への恐怖(きょうふ)とも思えるほど、びっしりと空間をうめつくす。モスクの絢爛(けんらん)たる装飾(そうしょく)に、それがよく現れ(あらわ )ている。
 もともと砂漠(さばく)の民であるアラブ人は、けっして妥協(だきょう)の余地(よち)を認め(みと )ない。それが、こうした芸術(げいじゅつ)の性格(せいかく)にも表現(ひょうげん)されているのではなかろうか。
 ところで、日本人の好む「余白(よはく)」だが、これは言うまでもなく、可能(かのう)性(せい)を意味する。画家は、そこに何かを描こ(えが )うと思えば、いくらでも描き(えが )足すことができるのだ。しかし、彼(かれ)は描か(えが )ない。描か(えが )ないことによって、鑑賞(かんしょう)者にその部分を預(あず)ける。「余白(よはく)」は画家と鑑賞(かんしょう)者の共有の空間なのである。そして「余白(よはく)」をそれぞれが、想像(そうぞう)によってどのようにうめるか、当の作品は作者と鑑賞(かんしょう)者、双方(そうほう)の「せめぎあい」にかかっている、といってもよかろう。「そこをなんとか」することにより、日本の芸術(げいじゅつ)も、その価値(かち)を決められるわけである。

(森本哲郎(てつろう)の文章による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 7.3週 ni
 1あれは小学校三年の頃(ころ)だったと思うが、手作りの虫かごの中で、アオムシがキャベツの葉をすさまじい勢い(いきお )で食べながら、ポトリポトリと緑色のまるい大きな糞(ふん)を落としていくのを、感心しながらながめていた記憶(きおく)がある。2消化されないセルロース(せんい素(そ))をあれだけ食べれば、立派(りっぱ)な糞(ふん)をどんどんと出していかなければならないのだろう。葉を食べるということは、ずいぶん効率(こうりつ)の悪いことなのである。
 3ふつう草食の哺乳類(ほにゅうるい)でサイズの小さいものは、葉だけを食べるということはせず、もっと栄養のつまっている果実や種子や貯蔵(ちょぞう)根(いも)を食べる。4小さい哺乳類(ほにゅうるい)は、体重あたりで比べれ(くら  )ば、非常(ひじょう)に多くの食べ物を必要とするから、栄養価(か)の低い葉っぱだけで生きていくことはむずかしいのだろう。
 5サイズの大きな哺乳類(ほにゅうるい)でも、草に含ま(ふく )れている細胞(さいぼう)質(しつ)だけから栄養をとることはせずに、もっと優れ(すぐ )た方法をあみだしたものが繁栄(はんえい)している。ウシやヤギのような反すう動物である。6かれらはいくつもの部屋に分かれた大きな胃袋(いぶくろ)をもち、この中に単細胞(たんさいぼう)生物やバクテリアを共生させている。これらの共生微生物(びせいぶつ)にセルロースを分解(ぶんかい)させて、それを自分の栄養にする。7だから、同じ草を食べるといっても、細胞(さいぼう)質(しつ)だけ食べてあとは捨てる(す  )のとは状況(じょうきょう)がまったく違う(ちが )。反すうなどという芸当ができるのも、巨大(きょだい)な胃袋(いぶくろ)をもてるだけ、体のサイズに余裕(よゆう)があるからだろう。
 8ほとんどの鳥は葉っぱは食べない。ハクチョウなどの大形のものをのぞき、草食性(せい)の鳥は果実か穀物(こくもつ)を食べる。これは飛ぶことと関係すると思われる。9葉をたべるということは、栄養価(か)の低いものを大量に摂取(せっしゅ)することを意味している。これでは胃袋(いぶくろ)ばかり重くなって、飛び回るには都合が悪い。
 0実は、同じことが昆虫(こんちゅう)にもあてはまる。草を食うのは、飛ばない幼虫(ようちゅう)の時代なのである。変態(へんたい)して飛ぶようになったら、草は
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

食べない。蜜(みつ)や樹液(じゅえき)を吸う(す )。これらは栄養の水溶液(すいようえき)、つまりドリンク剤(ざい)のようなものだから、吸収(きゅうしゅう)がよく、重い胃袋(いぶくろ)をかかえてよたよた飛ぶことにはならず、都合がいい。(中略(ちゅうりゃく))
 昆虫(こんちゅう)の成功の秘訣(ひけつ)は、大量にありながらほかの動物たちがあまり手をつけなかった葉っぱという食物に目をつけたところにある。しかし、草を食うということは、重い胃袋(いぶくろ)をかかえるわけで、移動(いどう)性(せい)を犠牲(ぎせい)にする。一本の草を一匹(ぴき)の虫が食いつくしてしまったら、草も虫もおしまいであろう。イモムシのような動きののろいものが、草を食いつくしながら、新しい草を求めてはいまわるのは、現実(げんじつ)的でない。昆虫(こんちゅう)の小さいサイズは、一本の草で満足できる程度(ていど)の、てごろなサイズだと思われる。
 しかし、小さくてイモムシのようにはいまわっていては、ひろく子孫をばらまいたり、よい環境(かんきょう)を探し(さが )て移動(いどう)するには不利である。そこで、じゅうぶん草を食べて育ったら、変身して羽をのばして飛び回ることにした。どのみち成長の過程(かてい)でクチクラの殻(から)を脱い(ぬ )で、新しい殻(から)を作らねばならないのだから、その際(さい)、体のつくりも大幅(おおはば)に変えてやるのは、そう抵抗(ていこう)はないだろう。こうして羽を得た昆虫(こんちゅう)は、広い範囲(はんい)を飛び回り、子どもがちゃんと生きていけそうな草を見つけて卵(たまご)を産む。幼虫(ようちゅう)自身はあまり動きまわれず環境(かんきょう)を選ぶことはできないが、親がかわりに選んでくれるわけだ。
 昆虫(こんちゅう)は羽化を節目として食性(せい)と運動法を切り替える(き か  )。幼虫(ようちゅう)期は、あまり動かず、ひたすら食う。このときには胃袋(いぶくろ)が重くてもいい。羽化して成虫になると、飛び回ることが最優先(ゆうせん)になり、消化のいいものだけを食べる。なかには成虫になったらまったく食事をしないものもいる。このように昆虫(こんちゅう)は変態(へんたい)することにより、小さいサイズの短所を解消(かいしょう)した。昆虫(こんちゅう)の生活は、まさにサイズと密接(みっせつ)にかかわっているものなのである。

(本川達雄(たつお)「ゾウの時間 ネズミの時間」による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 7.4週 ni
 久助(きゅうすけ)君の身体のなかに漠然と(ばくぜん )した悲しみがただよっていた。
 昼のなごりの光と、夜のさきぶれの闇(やみ)とが、地上でうまくとけあわないような、妙に(みょう )ちぐはぐな感じのひとときであった。
 久助(きゅうすけ)君の魂(たましい)は、長い悲しみの連鎖(れんさ)のつづきをくたびれはてながら、旅人のようにたどっていた。
 六月の日暮(ひぐれ)の、微妙(びみょう)な、そして豊富(ほうふ)な物音が、戸外にみちていた。それでいて静かだった。
 久助(きゅうすけ)君は目を開いて、柱にもたれていた。何かよいことがあるような気がした。いやいやまだ悲しみはつづくのだという気もした。
 すると遠いざわめきのなかに、一こえ仔()山羊のなき声がまじったのをききとめた。久助(きゅうすけ)君はしまったと思った。生まれてからまだ二十日ばかりの仔()山羊を、ひるま川上へつれていって、昆虫(こんちゅう)を追っかけているうちついわすれてきてしまったのだ。しまった。それと同時に、仔()山羊はひとりで帰ってきたのだと確信(かくしん)をもって思った。
 久助(きゅうすけ)君は山羊小屋の横へかけ出していった。川上の方をみた。
 仔()山羊は向こうからやってくる。
 久助(きゅうすけ)君にはほかのものは何も眼(め)にはいらなかった。仔()山羊の白いかれんな姿(すがた)だけが、――仔()山羊と自分の地点をつなぐ距離(きょり)だけがみえた。
 仔()山羊は立ちどまっては川縁(かわっぷち)の草をすこし喰(は)み、またすこし走っては立ちどまり、無心に遊びながらやってくる。
 久助(きゅうすけ)君はむかえにいこうとは思わなかった。もうたしかにここまでくるのだ。
 仔()山羊は電車道もこえてきたのだ。電車にもひかれずに。あの土手のこわれたところもうまくわたったのだ。よく川に落ちもせずに。
 久助(きゅうすけ)君は胸(むね)が熱くなり、なみだが眼(め)にあふれ、ぽとぽとと落ちた。
 仔()山羊はひとりで帰ってきたのだ。
 久助(きゅうすけ)君の胸(むね)に、今年になってからはじめての春がやってきたよ
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

うな気がした。
 久助(きゅうすけ)君はもう、兵太郎(へいたろう)君が死んではいない、きっと帰ってくる、という確信(かくしん)を持っていたので、あまりおどろかなかった。
 教室にはいると、そこに――いつも兵太郎(へいたろう)君のいたところに、洋服に着かえた兵太郎(へいたろう)君が白くなった顔でにこにこしながら腰かけ(こし  )ていた。
 久助(きゅうすけ)君は自分の席へついてランドセルをおろすと、眼(め)を大きく開いたまま、兵太郎(へいたろう)君をみてつっ立っていた。そうすると自然に顔がくずれて、兵太郎(へいたろう)君といっしょに笑い出した。
 兵太郎(へいたろう)君は海峡(かいきょう)の向こうの親戚(しんせき)の家にもらわれていったのだが、どうしてもそこがいやで帰ってきたのだそうである。それだけ久助(きゅうすけ)君は人からきいた。川のことがもとで病気をしたのかしなかったのかはわからなかった。だがもうそんなことはどうでもよかった。兵太郎(へいたろう)君は帰ってきたのだ。
 休憩(きゅうけい)時間に兵太郎(へいたろう)君が運動場へはだしでとび出していくのを窓(まど)からみたとき、久助(きゅうすけ)君は、しみじみこの世はなつかしいと思った。そしてめったなことでは死なない人間の生命というものが、ほんとうに尊く(とうと )、美しく思われた。

(新美南吉(なんきち)「川」)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 8.1週 ni
 1紫色(むらさきいろ)に輝く(かがや )大粒(おおつぶ)の果実が、目の前にいくつもぶら下がっている。その中の一つをもぎとって口の中に放り込む(ほう こ )と、みずみずしい甘酸っぱ(あまず  )さが一気に広がった。自分の手でブドウの実を摘ん(つ )で、その場で食べるなんて初めての体験だ。2感激(かんげき)して後ろを振り向く(ふ む )と、父も母もそれぞれ夢中でブドウを頬張っ(ほおば )ていた。
 私(わたし)たちは「旅行好き」、「食いしん坊(く   ぼう)」という点が共通した家族である。
 父は仕事一筋(ひとすじ)の働き者で、毎日遅く(おそ )帰ってきてはご飯を食べてすぐ眠っ(ねむ )てしまう。3趣味(しゅみ)らしい趣味(しゅみ)もないそうだが、旅行に出かけたときだけはニコニコしていて、見違える(みちが  )ほどエネルギッシュである。
 母は母で、よく同窓生(どうそうせい)と旅行に出かける。帰ってくる日の夕飯は、決まって地方の名物弁当だ。
 4朝早くに起きて、急な日帰り旅行に出発したことは数知れない。この日の目的地は、山梨(やまなし)のブドウ畑だった。
 父と母は、どちらも車の免許(めんきょ)を持っている。運転が交替(こうたい)できて楽なので、気軽に出かけられるということもあるだろう。5父は安全運転だが、母は極めて危なっかしい(あぶ     )。一度、赤信号に気がつかずスーッと通過しそうになったときには、私(わたし)が大声で注意しなければならなかった。
 山梨(やまなし)に着いたら、さっそくブドウ狩(が)りである。
 6新鮮(しんせん)なブドウをたっぷり味わった後、ここが母の知り合いの畑だということを教えてもらった。母は若い(わか )ころにここへ旅行に来て、農家の人と仲良くなったのだという。
 旅をすることで、新しい出会いが生まれる。7両親と旅行をすると、ときどきこうした発見がある。
 ブドウ畑の隣(となり)には、ワインの工房(こうぼう)もあった。飲める人がいないのが残念だ……と思っていたら、気付いたときには母が真っ赤な顔をしていた。
 8帰りの運転は父が一人ですることになってしまった。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 「可愛い子には旅をさせよ」というが、私(わたし)の旅はたいてい両親と一緒(いっしょ)だ。しかし、ひとりで旅をするのとはまた違う(ちが )意味で、私(わたし)は旅からいろいろなことを学んでいる。9父と母を見ていると、大人になっても旅を楽しむ心を忘れ(わす )ないことが人間には必要なのかもしれない、と感じるのである。0

(言葉の森長文作成委員会 ι)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 8.2週 ni
 1花の絵を描き(えが )始める時、心は画用紙のように真白でありたいと思っている。同じ名前がついている花でもよく見ると、一つ一つが人間の顔が違う(ちが )ように、それぞれの表情(ひょうじょう)を持っているからである。2また同じ花でも、朝と昼ではほんのわずか色が変わっている場合が多い。
 いくら見なれた花でも「この花はこういう形をしているんだ」などと先入観をもって描き(えが )始めると、花にソッポを向かれてしまうことがある。3花屋さんでは、開きすぎたものは売り物にならないようだけれど、開きすぎて雌蕊(めしべ)や雄蕊(おしべ)がとび出したものも、時にはハッとするくらい美しい表情(ひょうじょう)を見せてくれることがある。4花びらが一、二枚(まい)落ちてしまったのも、虫が食っているのもいいなあと思う。咲き(さ )終わって花びらが茶色くなってしまったのも……、それは決して死んだ花ではなく一生懸命(いっしょうけんめい)生きて、いま実を結び始めた最もすばらしい時期を迎え(むか )ているのではないだろうか。
 5風で折れてぶらさがっているのもあれば、病気か何かでゆがんで咲い(さ )ているのもある。日向(ひなた)で勢い(いきお )よく咲い(さ )ているのもあるが、根元の方では雨の日に土のはねかえりを受けて、うすぎたなくなったのもある。そういうのを見ていると、人間の社会と同じだなあと思ったりする。6頭の良いのもいれば、悪いのもいる。美しい人も、そうでない人も、病気の人も、健康な人も……、いろいろな人がいる。
 しかし、私(わたし)自身、「あいつは、ああいうやつなんだ」とほんのわずかしか知らないうちに決めつけてしまうことが、なんと多いのだろう。7花の色が一日にして変化するのだから、まして心を持っている人を見るとき、自分のわずかな秤(はかり)で決めつけてしまうのなんて全く間違っ(まちが )ていると思う。
 いま私(わたし)の前には、みごとな菊(きく)の大輪(たいりん)が咲い(さ )ている。8菊(きく)は比較的(ひかくてき)長い期間咲い(さ )ている花だけれど、それでも人にその花をほめられている時期はほんとうにわずかである。9花の下にある葉の一つ一つを、さらにその下にある土の中の根の美しさを、花びらの中に描ける(えが  )ようになりたいと思っている。0
(『風の旅』星野富弘(とみひろ)著(ちょ))
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 


□□□□□□□□□□□□□□
 
a 長文 8.3週 ni
 1国際(こくさい)人とは一体どんな人間のことなのか、わかっているようでわかりにくい。単に外国へ何度も行ったことがあるとか、西洋のマナーを身につけているとか、外国で知名度が高いなどということではないような気がする。2また、外国語に堪能(たんのう)であるというだけでも国際(こくさい)人とは呼べ(よ )ないだろう。
 私(わたし)なりの考えでは、「外国人を相手に自分の考えを伝えたり心を通わせることのできる人」というようなものではないかと思っている。3こう考えるとき、国際(こくさい)人たるべき最も大切な条件(じょうけん)とは何だろうか。それは多分、「論理(ろんり)的に思考し、それを論理(ろんり)的に表現(ひょうげん)する能力(のうりょく)を持つこと」ではないかと思う。4言語、風俗(ふうぞく)、習慣(しゅうかん)などは国によって異なっ(こと  )ていても、論理(ろんり)なるものは万国共通だからである。日本人の議論(ぎろん)ベタは有名であるが、その原因(げんいん)は日本人がこの能力(のうりょく)に欠けているからだと思われる。
 5なぜ、論理(ろんり)的思考の訓練が我が国(わ くに)では十分にされていないのだろうか。やはり教育が真先に頭に浮かん(う  )で来てしまう。大学入試を目指して階段(かいだん)を駆け(か )上がるような小・中・高の学校教育、しかもその中で知識(ちしき)の修得(しゅうとく)が偏重(へんちょう)されているということ。6このあたりに大きな原因(げんいん)があるのではないか。
 アメリカの大学初年生を日本の学生と比べ(くら )てみると、アメリカ学生の方が知識(ちしき)量でははるかに劣っ(おと )ている。びっくりするほど無知であると言ってもよい。7しかし論理(ろんり)的に考え表現(ひょうげん)し行動することにかけては、彼ら(かれ )は十分な訓練を受けているから、精神(せいしん)的には成熟(せいじゅく)していて、論争(ろんそう)になったりした場合には日本人学生はとても太刀打ちできない。8一見アメリカの学校は生徒を自由に遊ばせているだけのように見えるが、そういった訓練はきちんとなされているのである。
 9たとえば小学生の宿題として「ピューリタン(キリスト教の
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

宗派(しゅうは)の一つ)がアメリカに移住(いじゅう)した頃(ころ)の服装(ふくそう)について調べなさい」というようなものが出されるという。生徒はそれを調べるのに何をどんな順序(じゅんじょ)で実行すればよいかをまず考える。0そして、どこの図書館へ行けばよいのか、どんな本を読めばよいのか、どのようにしてその本を借出すのか、誰(だれ)に聞けば有益(ゆうえき)な情報(じょうほう)を得られるか、などを考えることになる。
 一方の日本では、受験勉強のために、生徒たちは知識(ちしき)やテクニックの修得(しゅうとく)ばかりに追いまくられている。論理(ろんり)的思考のために適当(てきとう)と思われている数学でさえ、決まりきった幾つ(いく )かの公式のうちからどれをどの場合にあてはめるかというだけのものになっていて、この意味では単なる暗記科目と化している。論理(ろんり)的思考の訓練はほとんど置き去りにされていると言えよう。
 それでは、論理(ろんり)的思考を育てるにはどうしたらよいだろうか。普通(ふつう)まず数学教育が頭に浮かぶ(う  )が、これは一般(いっぱん)に信じられているほど効果(こうか)的とは思えない。数学は確か(たし )に論理(ろんり)の上に組み立てられているが、いわゆる論理(ろんり)的思考に最適(さいてき)の教材かどうか疑わしい(うたが   )。私(わたし)にはむしろ、「言葉」を大切にすることが最も効果(こうか)的なように思われる。言葉というものは人間の思考と深く結びついている。言葉は単なる思想の表現(ひょうげん)ではない。言葉によって思考する、という意味では言葉が思想を形作るとさえ言える。思考と言葉とはほとんど区別の出来ないほどに一体化している。この意味で、論理(ろんり)的言葉を大事にするということは、論理(ろんり)的思考を大事にすることに等しい。
 このような観点から、国語教育を充実(じゅうじつ)させることが第一と思われる。洞察(どうさつ)力に恵まれ(めぐ  )た日本人にとって意思の疎通(そつう)に言葉を必要としないことはしばしばある。しかし、我々(われわれ)が国際(こくさい)人として生きようとする限り(かぎ )、論理(ろんり)的言葉から逃れ(のが )られないことは明らかに思われる。
(藤原(ふじわら)正彦(まさひこ)「数学者の言葉では」より)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 8.4週 ni
 イヌが喜びを表現(ひょうげん)するときに尾(お)を振る(ふ )ことはよく知られている。イヌの喜びが大きいときには、尾(お)を激しく(はげ  )振り(ふ )、体をくねらせる。耳は後方に絞ら(しぼ )れるような形で伏せ(ふ )ている。いてもたってもいられぬように跳び(と )はねることもある。生後半年前後の若い(わか )雌(めす)では、嬉し(うれ )すぎて尿(にょう)をもらす場合もある。
 このような喜びを表すのは、たとえば、長い間、旅に出ていたご主人が帰ってきたようなときである。イヌは家族をひとつの群れ(む )として考えているが、群(むれ)にはひとりひとりに順位の格付け(かくづ )がある。当然、順位の上の人に会えたときのほうが喜びの表現(ひょうげん)も激しく(はげ  )なる。人に対して喜んでいるときのイヌは、年齢(ねんれい)が若い(わか )ほど人の顔を舐め(な )たがるものである。
 犬種によって喜びの表現(ひょうげん)に差があり、一般(いっぱん)に日本犬は洋犬ほどオーバーではない。洋犬でも小型の愛玩(あいがん)犬種と、シェパード、シベリアン・ハスキーなど使役犬種との比較(ひかく)では、飼主(かいぬし)と居住(きょじゅう)区を同じにしている愛玩(あいがん)犬種のほうが喜びの表現(ひょうげん)は大きい。
 イヌには人と共同作業をしてほめられたときも嬉しく(うれ  )なる習性(しゅうせい)がある。たとえば、ボールを投げての「持って来い」の訓練をさせると、イヌは嬉々(きき)として投げたボールをくわえてきて飼主(かいぬし)に渡す(わた )が、このときのボディランゲージは、「大喜び」とはやや違う(ちが )。「上機嫌(じょうきげん)」あるいは「親愛」である。ボールを渡し(わた )た後、「よーし、よくやった」という賞賛(しょうさん)の言葉で嬉しく(うれ  )なっている。尾(お)は激しく(はげ  )は振ら(ふ )ず、ゆっくりと振っ(ふ )て、耳は後ろに伏せ(ふ )ている。ボールを主人に渡し(わた )た後、脚(あし)側に坐っ(すわ )て待つ訓練までよくできているイヌは、首を伸ばし(の  )て主人がもう一度ボールを投げるのを待つ。ときには「わん、わん」と催促(さいそく)することがある。
 また、イヌは叱ら(しか )れた後、許し(ゆる )を乞う(こ )ために「甘え(あま )」のボディランゲージを見せるが、そのときの尾(お)の位置は催促(さいそく)のときとは違っ(ちが )
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

て、下に向けている。つまり、恐縮(きょうしゅく)を表現(ひょうげん)しながら、遊びに誘い(さそ )、なんとか御(ご)主人に機嫌(きげん)をなおしてもらいたいという魂胆(こんたん)である。
 ただし、イヌがこういう様子を見せたからといって、叱ら(しか )れた理由を理解(りかい)して二度と同じことをしないかといえばそうではない。叱ら(しか )れて懲り(こ )たときは、まず恐怖(きょうふ)を覚えるものである。恐怖(きょうふ)を覚えたときのイヌは、尾(お)を完全に股間(こかん)にまるめ込み(   こ )、耳を後方に伏せ(ふ )てうずくまってしまう。まるめられた尾(お)は振ら(ふ )れることはない。叱ら(しか )れても「甘え(あま )」を見せるイヌには、叱ら(しか )れた意味が分かっていないものである。
 イヌが知らないイヌに出あって、尾(お)を上にあげて小刻み(こきざ )に振る(ふ )ときは、相手に警戒(けいかい)心を持ったときである。同時に攻撃(こうげき)すべきか否(いな)かの迷い(まよ )がある。耳は前方に向けてしっかりと立てられている。垂れ(た )耳のハウンド種でも、耳の付け根が前向きになるので、警戒(けいかい)心と攻撃(こうげき)的な気持ちを抱い(いだ )たことが判断(はんだん)できる。
 この場合、尾(お)を高い位置で振る(ふ )イヌほど気性(きしょう)が強い上位のイヌである。イヌが相手に威圧(いあつ)感を覚えれば尾(お)を下げながら振り(ふ )、耳は後方に向けて伏せ(ふ )ていく。
 したがって、イヌが尾(お)を振っ(ふ )ているから喧嘩(けんか)にはならないだろうと思ったら大間違い(まちが )である。威圧(いあつ)されたイヌが怯え(おび )ながらも敵意(てきい)を表して牙(きば)を見せたりすると、尾(お)を振っ(ふ )ていたほうがいきなり攻撃(こうげき)をしかける場合もある。とくにテリア・グループは反応(はんのう)が早いので注意する必要がある。

(沼田(ぬまた)陽一「イヌはなぜ人間になつくのか」)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 9.1週 ni
1「ユウって本当にロマンがないね!」
 姉にそう言われて、僕(ぼく)はぽかんと口を開けてしまった。姉のきつい言葉には慣れていたが、そんなことを言われるとはまったく予想していなかった。
 それは去年、双子(ふたご)の姉と二人で、夏休みの自由研究について相談していた時のことだ。2僕たち(ぼく  )は地元に伝わるおとぎ話について調べ、発表しようと考えていた。「キツネに化かされて田んぼに落っこちた」とか、「山で助けたサルがお返しに木の実を持ってきた」などという話に、姉は胸(むね)をときめかせているようだった。
 3一方の僕(ぼく)も、内心燃えていた。こういった話は研究のしがいがある。そう思って、「キツネやサルにそんな知恵(ちえ)があるはずはないから、人間どうしの出来事をたとえた話ではないか」と自分の考えを話したのだ。そうしたら、姉はいきなり怒り(おこ )出してしまった。
 4姉によると、「ロマンがない」のが僕(ぼく)の短所だという。せっかくかわいらしい動物たちの物語を想像しているのに水を差すな、というのである。しかし、そう言われても納得(なっとく)はいかない。僕(ぼく)にも意地があった。結局、僕(ぼく)と姉はたもとを分かち、同じ題材で別々に発表をすることになった。
 5そして夏休みが終わり、自由研究を発表する日がやってきた。出番は姉が先だ。姉は自分で書いたイラストを見せながら、キツネやサルが主役のおとぎ話を紹介(しょうかい)していった。研究発表というより紙芝居(かみしばい)大会のようだったが、悔しい(くや  )けれど面白い内容になっていたと思う。
 6おかげで僕(ぼく)はすっかり尻込み(しりご )してしまった。今度は姉ばかりか、クラスのみんなに「ロマンがない」と言われるかもしれない……。だが、今さら逃げ出す(に だ )わけにはいかなかった。
 僕(ぼく)は勇気をふりしぼって、図書館で調べた話を発表していった。7昔は道路が舗装(ほそう)されておらず、酔っ(よ )た人が田んぼに転落するのはしょっちゅうだったこと。山を挟ん(はさ )だ隣(となり)の村から来た迷子を、送
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

り返してあげた話があること……。発表が終わったあと、担任(たんにん)の城田(しろた)先生はにっこり笑って、こう言ってくれた。
「とても面白かった。ユウくんの探究(たんきゅう)心はすごいね。」
 8その言葉を聞いて、僕(ぼく)はすっと胸(むね)のつかえがとれたような思いがした。
 確かに、僕(ぼく)は姉の言うように「ロマンがない」のかもしれない。しかしその代わりに、先生も認め(みと )てくれた「探究(たんきゅう)心」がある。それが僕(ぼく)の長所だ。「短所をなくすいちばんよい方法は、今ある長所を伸ばす(の  )ことである」という言葉がある。9僕(ぼく)は自信を持って、長所である探究(たんきゅう)心を伸ばし(の  )ていきたい。
 人間にとって、自分の長所や短所に気付かされる経験は貴重(きちょう)である。指摘(してき)してくれる人がいるということも、ありがたいことだ。今では、城田(しろた)先生はもちろん、姉にも感謝している。0

(言葉の森長文作成委員会 ι)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 9.2週 ni
 1イギリス人は犬を躾(しつ)けることが上手である。私(わたし)の家の前が英国大使館の公邸(こうてい)で、三年ごとに交替(こうたい)するどの家族も、必ず犬をつれてくる。もう七、八家族かわったと思うが、来る犬来る犬が実に見事と言う他ないほどぎょうぎがよい。
 2家の中で不必要にほえたてたり騒い(さわ )だりすることがないどころか主人と連れ立って散歩する時でも実におとなしい。よその犬と行き会っても、ほえもしなければ駆け寄る(か よ )こともしない。3主人の傍ら(かたわ )について前を見てただ黙々と(もくもく )歩いていく。むろん引綱(ひきづな)も鎖(くさり)もなしである。
 これに比べる(くら  )と日本人の犬は、こちらが恥ずかしく(は    )なるほどめちゃめちゃである。跳び(と )かかったり、ほえたり、大きな犬の場合など主人が押さえる(お   )のに苦労する。4犬に引かれて、小走りになる人も多い。狭い(せま )道で犬をつれた日本人同士が出会う時がこれまた面白い。小さな弱そうな犬をつれた人は、横道にそれたり、引き返すことさえある。5女の人などは、つれている小さな犬をかばって抱き上げ(だ あ )、足早に通りすぎて行くこともしばしばである。
(中略(ちゅうりゃく))
 このようなはっきりした違い(ちが )は一体何が原因(げんいん)なのだろうか。6私(わたし)の考えでは人間と動物のお互い( たが )の位置づけが、イギリス人と日本人ではまったく異なる(こと  )ことから出発していると思う。
 日本人は、犬、猫(ねこ)そして馬のような家畜(かちく)を人間の完全な支配(しはい)下に位置するもの、人間に従属(じゅうぞく)する存在(そんざい)とはみなしていない。7もちろんこのような動物を世話し、餌(えさ)をやり、利用するために殺すというような外見的な面では日本とイギリスでもさほど目立つ相違(そうい)はない。
 日本人にとって犬はそれ自体自由な自律(じりつ)的な存在(そんざい)なのである。8日本人のペットとか家畜(かちく)という考えは、このようなお互い( たが )に独立(どくりつ)した主体的な存在(そんざい)としての人間と犬が交差したところに成立してい
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

る。実際(じっさい)ごく最近まで犬をつないでおくとか囲いに入れておくという習慣(しゅうかん)は日本にはなかった。9犬はあたりを自由勝手に歩き回り残飯やごみをあさる。
 勝手口に現れる(あらわ  )犬に餌(えさ)を与え(あた )ているうちに、いつのまにかうちの犬になることもしばしばであった。二軒(けん)以上の家で同じ犬をうちの犬だと思っていたなどということもあった。0また犬は家の人の知らぬ間に、縁(えん)の下などで子供(こども)を生む。これも犬の勝手である。ところが家人にとっては、いりもしない厄介(やっかい)者をしょい込む(   こ )ことは困る(こま )。こんな場合に、犬を最も人通りの多い橋のたもとなどに捨て(す )に行くのだ。
 捨てる(す  )人は、いらぬ犬を自分の生活圏(けん)から遠ざけて、不必要なかかわりを絶つ(た )ことだけが目的で、その犬を何も殺すことはないのである。人通りが多ければ、誰か(だれ )仔犬(こいぬ)を欲しい(ほ  )人がいて、拾って行くかも知れない。事実、多くの家で犬を飼う(か )ようになるいきさつは、子供(こども)が拾ってきたからしょうがなく、置いてしまったというのが多かった。
 イギリス人は家畜(かちく)とは人間が完全に支配(しはい)すべき、それ自身は自律(じりつ)性(せい)を持たない存在(そんざい)と考えている。犬は人間が人間のために利用する従属(じゅうぞく)的な存在(そんざい)であるから、逆(ぎゃく)に一切を面倒(めんどう)見る責任(せきにん)が人間にある。不要な犬や、回復(かいふく)の難しい(むずか  )病気にかかった犬を、自分の手で殺すのは、生きるも死ぬも支配(しはい)者としての人間が決めてやるべきだという考えに基づい(もと  )ている。
 だから日本人のように、犬を捨て(す )たりすると、人間としての責任(せきにん)をはたしていないと非難(ひなん)するのだ。従って(したが  )彼ら(かれ )にとっては、犬を安楽死させることが正しい犬の扱い(あつか )方となる。一口に言えば、徹底的(てっていてき)な人間中心的動物観なのである。何が残酷(ざんこく)で何が残酷(ざんこく)でないかは人間のきめることなのだ。だから一般(いっぱん)にヨーロッパ人の残酷(ざんこく)という考
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
長文 9.2週 niのつづき
えは温血動物止まりなのである。
 そこで日本で犬が捨て(す )られるといって、犬のために悲しむイギリスの婦人(ふじん)も、大正エビは生きたまま熱湯に投げ込ん(な こ )で料理するのが一番よいと言って平然としている。また食べるためでなく、楽しむために魚を釣る(つ )のも残酷(ざんこく)ではないのだ。大きなカジキマグロと何時間も海の上で全力を尽くし(つ  )て戦うことは素晴らしい(すば   )スポーツなのであって、魚が苦しむだろうと考えないのも同じ理由である。
 もちろんイギリス人でも日本人でも、一般(いっぱん)の人はいま述べ(の )たような動物観、生命観をはっきり意識(いしき)しているわけではない。聞けばいろいろと理屈(りくつ)づけはするだろうが、人々を無意識(むいしき)に動かしている基本(きほん)的な価値(かち)体系(たいけい)の枠組み(わくぐ )というものは、実は深くかくれているのである。
 日本の南極観測(かんそく)隊が、氷にとじ込め(こ )られてヘリコプターでやっと脱出(だっしゅつ)した時、連れていった樺太(からふと)犬を置き去りにしてきたことがあった。この時も日本はむろん、外国からも非難(ひなん)の声があがった。
 隊員たちは、ただ可愛(かわい)がっていた犬たちを殺すにしのびなかったのである。誰(だれ)も犬どもが翌年(よくねん)まで生きのびようとは考えなかった。それでも殺す気にはなれないのだ。ところがどうであろう。翌年(よくねん)観測(かんそく)隊が再び(ふたた )昭和基地(きち)を訪れ(おとず )たとき、二頭が生存(せいぞん)していたのだ。殺さなくてよかったと隊員達は思ったに違い(ちが )ない。人間本位、人間中心の家畜(かちく)の始末法とは違い(ちが )、ここでは日本人の動物処理(しょり)法の方が勝ったのである。少なくとも、犬の幸福を中心に考えればである。
 999897969594939291908988878685848382818079787776757473727170696867 


□□□□□□□□□□□□□□
 
a 長文 9.3週 ni
 1人間および動物を通して、広義(こうぎ)のあいさつ行動は、一体どのような時に起こるものだろうか。第一に考えられるのは、個体(こたい)と個体(こたい)との出会いである。2互いに(たが  )見知らぬ者どうしが出会う時は言うまでもなく、すでに知り合っている者の間でも、出会いがある程度(  ていど)の離別(りべつ)の後で起こった場合には、動物・人間を問わず一般(いっぱん)にあいさつ行動が見られる。
 3未知の者どうしの出会いでは、相手の素性(すじょう)や気持ちがわからぬことからくる不安と警戒(けいかい)の念が、特にあいさつ行動を要求するのである。4そこであいさつを行なうことによって、何よりもまず、相手に対して敵意(てきい)、害意のないことを示し(しめ )、同時に不安からくる相手の攻撃(こうげき)本能(ほんのう)の発動を抑える(おさ  )、つまり、相手をなだめ、安心させるのである。
 5人間の場合、出会いのあいさつ行為(こうい)は、相手が以後仲よく共に行動してゆける仲間かどうかの、身元確認(かくにん)にもつながっている。そのためには、あいさつがそれぞれの社会で、文化的に慣習(かんしゅう)化されている一定の形式にしたがって行なわれることが必要となる。6この性質(せいしつ)を強くもった、やや特殊(とくしゅ)なあいさつとしては、仁義(じんぎ)や敵(てき)味方を暗闇(くらやみ)で判別(はんべつ)するのに用いられる合言葉などがあげられる。
 毎日一緒(いっしょ)に暮らし(く  )ている家族の場合でも、また同じ学校や職場(しょくば)に通うものどうしでも、一夜明けた朝の出会いの時には、必ずあいさつをする。7社会生活を営む(いとな )人間にとって、別れて時を過ごす(す  )ということは、私(わたし)たちが思っている以上に、他者に対する言い知れぬ不安をつのらせるものらしい。
 8たしかに誰(だれ)かと一緒(いっしょ)にいるときは、その人の気持ちの変化についていきやすいし、同じ状況(じょうきょう)の下にいるわけだから、自分と相手との相互(そうご)関係もわかっている。9ところがいったん離れ(はな )てしまうと、その間は、二人別々の経験(けいけん)をすることになるため、気持ちのズレや考え方の食い違い(く ちが )が生じてしまう可能(かのう)性(せい)がある。だからこそ
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

再び(ふたた )出会ったとき、両者の気持ちや関係が、別れる前と同じで変わっていないことを確認(かくにん)したいのである。0このことは、なぜ人間は別れる時にもあいさつをするのかという問題にもつながっていく。
 私(わたし)たちが別れの際(さい)にあいさつをする理由は、再び(ふたた )会う時まで、今別れる時と同じ親愛の気持ち、同一の帰属(きぞく)感を相手が抱き(いだ )続けることを、あらかじめ確認(かくにん)しておきたいのである。
 このような解釈(かいしゃく)が正しいと思われる理由は、次のような事実の意味を考えてみればわかる。人間でも動物でも、短い別れの後の出会いの際(さい)のあいさつと、長い別離(べつり)の後に起こった再会(さいかい)時のあいさつとでは、その入念さ、強さが異なる(こと  )のである。(中略(ちゅうりゃく))
 動物の場合も同じで、旅行などで主人が長い間家をあけた後帰宅(きたく)したようなとき、飼()犬が喜びのあまり飛び跳ね(と は )て主人を迎える(むか  )ことは、犬を飼っ(か )たことのある人なら誰(だれ)でも知っているとおりである。しかし毎日何度も主人の顔が見える時は、これほどの大騒ぎ(おおさわ )はしない。人間と動物のあいさつ行動で大きく違う(ちが )点は、動物は先の予測(よそく)ができないため、別離(べつり)のあいさつがないことである。
 さて長期間の別れの前後のあいさつは、いま述べ(の )たように長く複雑(ふくざつ)なものとなる上に、餞別(せんべつ)とかおみやげといった物的なしるしを贈る(おく )ことによって、さらなる補強(ほきょう)を受けることも多い。このように見てくると、私(わたし)たちにとって互いに(たが  )別れているということが、どれほど不安で心配なものなのかが、よく理解(りかい)できると思う。

(鈴木(すずき)孝夫(たかお)の文章による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 9.4週 ni
「ただいま」
「ゆたか、ちょっときなさい」
 お帰りの返事もなく、呼びつけ(よ   )たお父さんの声は、いつもより強かった。
「お前か、猫(ねこ)をひろってきたのは」
 居間(いま)にはいるなり、耳につきつけられた言葉に足がすくんだ。
「カラスが狙っ(ねら )ていたから……。食べられちゃうから……」
「今から、もどしてきなさい。元のところへ……」
「……」
 いやだと思った。それでも口にはだせなかった。
「お父さんは、猫(ねこ)の毛アレルギーなの。子供(こども)のころ、ぜんそくをわずらったことがあるの、それ、猫(ねこ)の毛が原因(げんいん)かもしれないんだって」
「友だちで、飼っ(か )てくれる人さがすから……」
「いなかったらどうするの」
 そう言った、お母さんの脇(わき)で、お父さんがこっちを見ていた。にらまれているようで、目をあげられなかった。
「それまで、納屋(なや)で飼う(か )から、自分で生きていかれるようになったら、のら猫(ねこ)にするから」
「聞き分けのないやつだなあ、のら猫(ねこ)を増やし(ふ  )てどうするんだ。のら猫(ねこ)のせいで迷惑(めいわく)こうむっている人間のことは、どうなるんだ」
「……」
「とにかく、うちじゃ飼え(か )ないから、元のところにもどしてきなさい。お前が悪いんじゃない、最初にすてた人間が悪いんだ。うちで育てて、のら猫(ねこ)を増やし(ふ  )たら、うちが悪者にされる。分かるな……」
「……」
 もう口ごたえはできなかった。
「今からいってきなさい」
「だれか、猫(ねこ)の好きな人がひろってくれるかもしれないでしょ」
 そう付け加えたお母さんの言葉は、声だけやさしかった。ゆたかは、言葉をうしなったままに立ち上がった。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

「待ちなさい。これミルクとお皿。ひろってくれる人があらわれるまでに、死んじゃうと困る(こま )から……」
 お母さんが差しだした、牛乳パック(ぎゅうにゅう   )とプラスチックの皿を受け取り、ゆたかは納屋(なや)に歩いた。歩きながら、こうなることは、初めから分かっていたような気がした。
 納屋(なや)に入ると、その気配を感じたのか、子猫(こねこ)たちが鳴きだした。納屋(なや)の電灯をつけると、けんめいに伸び上がっ(の あ  )て、愛を求める子猫(こねこ)たちの姿(すがた)があった。たった二つの、こんな小さな命でさえ、まもってやることのできない自分のことが、みじめでならなかった。大きくなって、自分で働きだしたら、ぜったい、お父さんの言うことも、お母さんの言うことも聞かない。そう思いながら、子猫(こねこ)の入った箱にふたをした。子猫(こねこ)たちが、キーキー鳴きながら、助けてよと、うったえかけるように箱の中を動きまわった。
 公園から見える入り江(い え)に街灯の光がゆれている。古本屋のおじいさんの家に、明かりの気配はなく、廃屋(はいおく)が、自分のしでかした罪(つみ)のきずあとのようにたたずんでいた。
 ゆたかは、指にミルクをつけて子猫(こねこ)たちの口にもっていき、立ち去れない思いのままに時間を過ごし(す  )ていた。子猫(こねこ)は、ミルクのついた指にしゃぶりついて、けんめいに吸い込も(す こ )うとする。そのざらついた舌(した)の感触(かんしょく)が、指先に心地よい。
(中略(ちゅうりゃく))
 生きようとしている子猫(こねこ)たちを見つめているうちに、ゆたかは、どうしても助けてやりたくなった。ここに放っておけば、明日の朝にはカラスがくるだろうと思った。頭の中では、子猫(こねこ)たちをかくしておける安全な場所をさがしまわっていた。自分の家で、見つからない場所は、もうなかった。あそこ、ここと思いをどんなにめぐらせても、人の目のないところは思い当たらなかった。

(笹山(ささやま)久三(きゅうぞう)「ゆたかは鳥になりたかった」)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534