a 長文 7.1週 ni2
 1「ロシア語は取っ付きにくい、難し(むずか )そう、つい敬遠(けいえん)してしまう」
 そういう人たちが一番にあげる理由が例のロシア文字。2英語、フランス語、ドイツ語など圧倒的(あっとうてき)多数のヨーロッパ諸語(しょご)が採用(さいよう)しているラテン文字、いわゆるローマ字ではなく、同じギリシャ文字をお手本につくられたものの、なじみのない形状(けいじょう)のも混じっ(ま  )たキリール文字である。3西ローマ教会(カトリック)圏(けん)に組み込ま(く こ )れた地域(ちいき)がラテン文字を採用(さいよう)したのに対し、東ローマ教会(正教)圏(けん)に入った国々(ロシア、ブルガリアやセルビアなど)はキリール文字を使う。
 それにしても、ロシア語の場合、その数わずか三十三。4大文字小文字両方あわせても、たかだか六十三である。ひらがな、カタカナ五十字ずつに加えて、三千字前後の漢字を書けて、五千字以上の漢字を読めることになっている日本人が、怖じ気付き(お けづ )、覚えるのを億劫(おっくう)がるような数ではない。5その気になりさえすれば一時間で覚えられる量だろう。
 それを思えば、むしろ同情(どうじょう)と敬服(けいふく)に値する(あたい  )のは、日本語を学ぶ非(ひ)漢字圏(けん)の外国人ではないだろうか。
(中略(ちゅうりゃく))
 6表音文字だけの英語やロシア語のテキスト、あるいは漢字のみの中国語テキストと違っ(ちが )て、日本語テキストは基本(きほん)的には意味の中心を成す語根に当たる部分が漢字で、意味と意味の関係を表す部分がかなで表されるため、一瞬(いっしゅん)にして文章全体を目で捉える(とら  )ことが可能(かのう)なのだ。
 7アメリカ生まれの速読術(じゅつ)なんて表音文字対応(たいおう)だから、ほとんど日本語には役に立たない。むしろ日本語のかな漢字混合(こんごう)文それ自体が実にみごとに速読に適し(てき )ていたのである。
 8すっかりこの発見に有頂天(うちょうてん)になった私(わたし)は、様々な種類の文章の、日本語版(ばん)とロシア語版(ばん)を時間を計りながら黙読(もくどく)してみた。9会議の同時通訳(つうやく)という仕事は、先週の前半は遺伝子(いでんし)工学のセミナー、
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後半は歴史学者のシンポジウム、今日は大統領(だいとうりょう)の釈明(しゃくめい)演説(えんぜつ)、明日からは環境(かんきょう)会議、という具合に日々くるくる顧客(こきゃく)とテーマが変転していく。0そのたびに一テーマあたり一〜三冊(さつ)の電話帳に匹敵(ひってき)する資料(しりょう)と格闘(かくとう)し、その専門(せんもん)分野の入門書を事前に読んでおくものだ。だから、千差万別さまざまな分野のテキストに日ロ両語で接する(せっ  )のは日常茶飯(にちじょうさはん)なのだが、それを実験対象にしたのである。それに、日本語の小説とそのロシア語訳(やく)、ロシア語の小説とその日本語訳(やく)をいくつか時間を計りながら読み比べ(よ くら )てみた。
 そして、活字にして断言(だんげん)できるほどの自信満々な確信(かくしん)を持つにいたった。黙読(もくどく)する限り(かぎ )、日本語の方が圧倒的(あっとうてき)に早く読める。私(わたし)の場合平均(へいきん)七・六倍強の早さで、私(わたし)の母語が日本語であることを差し引いても、これは大変な差だ。
 子どもの頃(ころ)から文字習得に費やした時間とエネルギーが、こんな形で報わ(むく )れているとは。世の中の帳尻(ちょうじり)って、不思議と合うようになっているんですね。いや、これからは収支(しゅうし)を黒字に転ずるために、どんどん読まなくては損(そん)てことだろう、と意地汚く(いじきたな )本を貪る(むさぼ )今日この頃(  ごろ)である。

(原万里 著(ちょ)/日本エッセイストクラブ 編(へん)「漢字かな混じり(ま  )文は日本の宝(たから)」(『九九年ベスト・エッセイ集「木炭日和」』
(文藝春秋(ぶんげいしゅんじゅう))所収(しょしゅう)))
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a 長文 7.2週 ni2
 1意志(いし)は、具体的には、我慢(がまん)をすることから強くなるのではないかと思います。大きなことを我慢(がまん)するということは、なかなかできませんが、小さな我慢(がまん)ならば、わりとたやすくできるでしょう。
 2昔の人は、たとえば、武者(むしゃ)修行(しゅぎょう)、滝(たき)に打たれるということをしました。あれは一つの大きな我慢(がまん)だったと思います。私(わたし)たちは、そんなことは、とても続かないと思います。
 3小さな我慢(がまん)をし続けることによって、だんだんと大きな我慢(がまん)ができるようになります。
 そして、それによって、私(わたし)たちは、意志(いし)が強められると思うのです。4小さな我慢(がまん)ができないものが、大きな我慢(がまん)ができるはずがないのです。
 人間の人間らしさといいましたが、たとえば、わかっているけれどもできない、悪いことだと知っていてもやってしまう、ということについては、こういう言い方ができるでしょう。
 5「私(わたし)たちが、やりたいと思うこと、善(ぜん)(いいこと)はできない。そして、やりたくないと思う悪はしてしまう」
 この、人間としての嘆き(なげ )は、私(わたし)たちすべての人の心からの叫び(さけ )、嘆き(なげ )なのです。
 6また、私(わたし)たちが、後悔(こうかい)する、しまったなと思うということは、自由意志(いし)がある証拠(しょうこ)だと思います。
 私(わたし)たち人間は、自動販売(はんばい)機のようなものではないのです。7百円を入れたら、ポンとジュースが出てくるというようなものではないのです。やってもいいし、やらなくてもいい。でも、悔()む、後悔(こうかい)する――ということがあるのはなぜでしょうか。8私(わたし)たちに自由意志(いし)があるからなのです。私(わたし)たちの行ないが不可抗力(ふかこうりょく)的なことであるなら、私(わたし)たちは、後悔(こうかい)し、悩む(なや )ということはないと思います。
 9たとえば、スイッチを入れれば電灯はつくのです。「ついてみたくない感じ」そんなものはないのです。スイッチを入れればつくのです。その電灯は後悔(こうかい)もしないでしょう。善(ぜん)もしないでしょう
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が、悪も行ないません。
 0私(わたし)たち人間は、すばらしい自由意志(いし)を持っていますが、それはある意味で大変恐ろしい(おそ   )ことです。それは善(ぜん)をしないで、悪を行ってしまう可能(かのう)性(せい)が常に(つね )あるからです。
 私(わたし)たちが一日の終わりに、あれはしまった、とか、嫌(いや)だったな、とか、思うことの多くは、やることができたのに、やれなかった、言わないでもすんだのに一言多すぎた、あるいは、言わなくてもいいことを言ってしまった、ということです。不可抗力(ふかこうりょく)ではなく、私(わたし)たちにはできたのです。しかし、やらなかった、ということなのです。
 『私(わたし)たちは、「それは不可能(ふかのう)だ」とか、「できない」とか、「そんなことは無理です」というようなことを、よく言うが、その原因(げんいん)は何か。それはそのことを心の底から望まないからだ』
――これは、ある人の有名な言葉です。
 確か(たし )に、私(わたし)たちは心の底から石にかじりついてもやりたいと思うことがあります。逆に(ぎゃく )どんなことがあっても、これはやらない、とほんとうに心の底から望んだ時には、やってはいけないことは、やらないですむ、と思うのです。問題は、心の底から望んでいるかどうかでしょう。ほんとうに心の豊か(ゆた )な、良い人になりたいと望んでいる人、すなわち、強い意志(いし)を持っている人は、それができると思います。

(浜尾(はまお) 実の文による)
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a 長文 7.3週 ni2
 1我が身(わ み)をつねって人の痛(いた)さを知れ
 自分の苦しさ痛(いた)さを思い出して、人の苦しみや痛み(いた )を思いやれ、ということわざです。自分自身のこととして人のことを考えよということです。古くから言い伝えられてきたことわざのひとつです。
2「同病相憐れむ(あわ  )、同憂(どうゆう)相救う」(『呉(ご)越(えつ)春秋』)
 右の、特に上の句(かみ く)は、聞いたことがあるでしょう。彼(かれ)も病気、自分も病気、それなら苦痛(くつう)はそのまま同じだから、そのつらさはよくわかります。3「つらいだろうな。自分もこんなにつらいもの」と。この言葉全体は、同じ境遇(きょうぐう)にある者同士は、苦痛(くつう)や気持ちがよくわかり、いたわりあい助け合うことができるということです。
 4表題のことわざは、意味がちがう。痛い(いた )のは相手の方で、自分はなんでもない。人間はそういう時には相手の痛み(いた )になかなか同情(どうじょう)が持てないものです。そこで、自分も同じように我が身(わ み)をつねってみたら、というのです。5「痛かっ(いた  )たでしょう。だからあの人の痛い(いた )こともわかるでしょう」と言っているのです。
 想像(そうぞう)力の弱さが同情(どうじょう)心の足りなさになるのではないでしょうか。少し話が飛躍(ひやく)しますが、日本人は金の力にまかせて、発展(はってん)途上(とじょう)国の資源(しげん)を買いあさり、原住民を苦しめていると言われています。6日本人自身は、さしあたって痛ま(いた )ないし、どうして相手国の痛み(いた )を想像(そうぞう)できるかというわけです。日本人が我が身(わ み)をつねって、途上(とじょう)国の痛(いた)さを知ることは、とてもむずかしそうです。なぜ、日本人はこう想像(そうぞう)力がにぶくなってしまったのでしょうか。
 7若い(わか )人が電車の中で腰かけ(こし  )ていました。そこへ赤ちゃんをおんぶした母親が、重そうな荷物を抱え(かか )て乗ってきました。青年には席をつめて、腰かけ(こし  )やすくしてあげる気配もありません。8この青年の心の声が聞こえてきました。「おれは満席の時は腰かけ(こし  )たいと思ったことはない。また立っていて苦痛(くつう)だと思ったこともない。この母親もおれと同じ気持ちにちがいないから、心をつかうことはない
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よ」と言っているようでした。9わが身をつねらなくても、相手の苦痛(くつう)がわかる想像(そうぞう)力と実行力がよみがえってほしいものだと先日、思ったことでした。0
出典・稲垣(いながき)友美『ことわざに学ぶ生き方(東洋編(へん))』
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a 長文 7.4週 ni2
 1アメリカ人が日本にやって来ると、日本人のあいさつはうるさくて仕方ない、と思うようだ。例えば思いがけないところで知っている人とバッタリ会う。「どちらにお出かけですか」と尋ねる(たず  )。アメリカ人はうるさいと思う。2「どこに行こうと俺(おれ)の勝手だ。俺(おれ)の秘密(ひみつ)を探ろ(さぐ )うとしているのだろうか」。日本人は何もそういうつもりではない。「こんなところでお目にかかるとは思いがけないことだ。あなたの身の上に何か大変なことがおこったのではないだろうか。3もしそうだったら、一緒(いっしょ)に心配してあげましょう」とこういう気持ちで聞くわけである。
 「先日は失礼しました」。これもよく私(わたし)たちが口にするあいさつである。アメリカ人はびっくりする。4「確か(たし )に先日この男に会った。しかしそのときにこの男は俺(おれ)に何にも悪いことはしていない。するとこの男は、俺(おれ)の知らない間にとんだことをしてくれたのではないか」と心配になるという。日本人の気持ちはそうではない。5「先日あなたにお目にかかった。私(わたし)としては失礼なことをした覚えはないけど、私(わたし)は不注意な人間である。もしかしたら失礼なことをしたかもしれない。もしそうだったらおわびする」。こういうことを言っている。6そういう言葉でも分かるように、私(わたし)たちは謝る(あやま )ことが非常(ひじょう)に好きである。感謝(かんしゃ)することよりも、謝る(あやま )ことを尊ぶ(たっと )。
 みなさんがバスに乗っている。おばあさんが乗ってきた。誰(だれ)かが席をゆずる。7おばあさんは何というか。「ありがとうございます」とお礼を言う人もいるが、「すみませんねえ」と謝る(あやま )人の方が多いだろう。おばあさんの気持ちはこうである。8「私(わたし)がもし乗ってこなければ、(あなたは座っ(すわ )ていられた。私(わたし)が乗ってきたばかりにあなたは立たなくてはならない。)すみません」とこういう論理(ろんり)で、日本人は謝る(あやま )ことを非常(ひじょう)に喜ぶ。
 9アメリカで暮らし(く  )ていた次男の話だが、次男の家にいるお手伝
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いさんが台所で働いていて、手からコップが滑り落ち(すべ お )割れ(わ )てしまった。日本人ならこういうとき「私(わたし)がコップを割り(わ )ました」と言う。0でもアメリカの人はけっしてこういうことは言わないそうだ。「グラスが割れ(わ )たよ」と言ってきた。「お前が割っ(わ )たんじゃないか、なぜ自分が割っ(わ )たと言わないのか」と言ったら、ビックリしていたという。英語で「私(わたし)がコップを割っ(わ )た」というとどういう意味になるか。壁(かべ)か何かにコップをわざとぶつけて割っ(わ )た、という意味になってしまうようだ。コップがあやまって手から滑っ(すべ )て割れ(わ )たときはコップが割れ(わ )たんであって、私(わたし)が割っ(わ )たんじゃない、と頑張る(がんば )そうだ。理屈(りくつ)を言えば確か(たし )にそうである。なぜ日本人は、手から滑り落ち(すべ お )たコップに対して「私(わたし)が割っ(わ )た」と言うか。これは日本人の責任(せきにん)感だと思う。つまり日本人はこう考えるのである。自分の手からコップが滑り落ち(すべ お )て割れ(わ )たのは、自分が油断(ゆだん)していたからだ。自分がしっかりしていたならばこのコップは割れ(わ )なかった。自分がうっかりしていたからコップが割れ(わ )た。このことの責任(せきにん)は自分にある。だから「コップを割り(わ )ました」という言い方になるのである。こういう考え方は日本人の美徳(びとく)であると私(わたし)は考える。

(金田一春彦(はるひこ)『ホンモノの日本語を話していますか?』(角川oneテーマ二十一)による)
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a 長文 8.1週 ni2
 1お世辞とか外交辞令というのはいやなものです。心にもないことを言われるのは気持ちが悪いという人もあります。しかし、出会いがしらに、
「お顔の色が悪いようですが、どうかなさいましたか」
などという親切を受けてはたまりません。2たとえ、すこし顔色がさえないとは思っても、
「お元気そうですね、みなさんお変わりありませんか」
と言われた方がよほどうれしい。ウソを言われて喜んでいる。3それでは深刻(しんこく)な人生は送ることができないとしかられるかもしれませんが、こんなところで深刻(しんこく)さを味わわされなくて結構(けっこう)だというのがふつうの人の感想です。
 4本当のことを言うと当たりさわりがあって、聞く人の心に傷(きず)をつける心配がある。お世辞だとかあいさつのことばは、ことばを真綿(まわた)にくるんで、痛み(いた )を与え(あた )ないようにするのがやさしさになるのだということを発見したときに生まれた生活の知恵(ちえ)だったのです。
 5このごろの若い(わか )人は、
 「ウソも方便」
を認める(みと  )という調査(ちょうさ)があります。6若い(わか )のに世間なれしていやだね、と言う人がいますが、ことばに傷つい(きず  )た苦い経験(けいけん)が重なって、人を傷つける(きず   )真実よりも、傷つけ(きず  )ないウソの方がよろしいということに気がついたのだとしたら、これはたいへんな感覚です。
 7このごろの若い(わか )ものはことばを知らなくて……などと言っている年ぱいの人が案外、「ウソも方便」ということを知らないで、本当のこと、あまりにも本当のことを言って人をくさらせるのは皮肉です。8年ぱいの人の方が「ウソも方便」を認める(みと  )人がすくなくなっているのです。
 われわれはどうも正直教育をうけすぎたようです。いつも本当のことを言わなくてはいけないと教えられてきました。9それでときどき正直の上になにかつくようになってしまいます。
 正直な話にはしばしばとげがあります。正直の美徳(びとく)を行うのに気をとられて、そのとげが相手の心をつきさすことを忘れ(わす )がちです。0同じ正直でも、言い方によってとげが出たり出なかったりします。
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 いい年をした男が青年のような服装(ふくそう)をしてあらわれたとします。
「これはまたずいぶん派手(はで)ですね」
と言えばかどが立ちます。派手(はで)であるのはまちがいないとして、派手(はで)だと言ってしまえば、非難(ひなん)していることになります。聞いた方ではうらみに思うでしょう。うらみに思ったことばはめったに忘れ(わす )ないものです。同じことを言うにしても、
「これはまたずいぶん若々しい(わかわか  )ですね。さっそうとしていらっしゃる」
とすれば、言われた方では内心いい気になるでしょう。派手(はで)ではないかとちょっぴり不安に思っているのを、ほめてくれた、あいつはなかなか気のきくやつだ、となるでしょう。
 毎日朝から晩(ばん)まで使っていることばです。いくら気をつけても、どうしても、とげのあることばが口から出てしまいます。本人はそのつもりでなくても、相手が勝手に傷つい(きず  )てうらむということもあります。それをいちいち後悔(こうかい)していては生きてはいかれなくなります。しかし、正直なことばには時にはとげがあるのだということを心におけば、ことばで人を傷つける(きず   )ことはずっとすくなくなるにちがいありません。
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a 長文 8.2週 ni2
 1知恵(ちえ)がつくられる場所である人間の脳(のう)は、また、コンピューターなどと違っ(ちが )て、物事を幅(はば)をもってみつめ、考えることができるようにできている。つまり寛容(かんよう)な思考態度(たいど)をとることが人間にはできるのだ。
 2人間の脳(のう)にあるこの寛容(かんよう)性(せい)は、ものを考える上でも発揮(はっき)される。その一つは連想である。文章、特に詩とか格言(かくげん)のようなものを読む時、その中の言葉から連想される異なっ(こと  )た言葉を、思いつくまま列記しておくとする。3その列記された言葉のいくつかを組み合わせて新しい文章をつくってみる。こうしたあとで、もう一度、元の文章を読み直すと、意味の理解(りかい)が深みと新鮮(しんせん)さをもつものだ。連想は、言葉の意味と感じに幅(はば)をもたせてみるという脳(のう)の寛容(かんよう)性(せい)から生まれる。
 4このように、人がものを考える時は、幅(はば)をもった考え方をするものであり、またそれでこそ、思考は発展(はってん)性(せい)をもって深まっていくのだ。
 5私(わたし)は、人生には、深くものを考えなければならない時期があり、その深い思考力をつちかうことも勉強の目的の一つだ、と前にいった。これはいいかえれば、勉強してこそつくられる「知恵(ちえ)の深さ」である。6勉強しない人の脳(のう)は、人間特有の幅(はば)をもった思考のレッスンをしないから深くものを考える力、つまり「知恵(ちえ)の深さ」が身につかないのだ。
 7知恵(ちえ)には「広さ」があり、「深さ」があり、また「強さ」というものがある。「知恵(ちえ)の強さ」とは、すなわち決断(けつだん)力である。
 8私(わたし)たちが人生で当面する問題には、クイズやテストのようにあらかじめ答えが用意されているものはない。9クイズの問題は解答(かいとう)を見つけるだけの問題だが、人生の問題は、相当の時間をかけなければ問題そのものの真意もつかめないし、とうてい真の解決(かいけつ)には至ら(いた )ない難問(なんもん)ばかりである。0だから、長い年月をかけて、すべ
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てを知らなければ何の行動も起こせないという姿勢(しせい)にだけ固執(こしつ)していては、この世は渡っ(わた )ていけない。
 医者が、現在(げんざい)の医学の水準(すいじゅん)ではある病気について数パーセントしか解明(かいめい)されていなくても、目の前で苦しんでいる患者(かんじゃ)に何らかの診断(しんだん)をくださなければならない時があるように、それがいかに未解決(みかいけつ)の難問(なんもん)であろうと、どこかで決断(けつだん)しなければならないのである。飛躍(ひやく)しなければならないのである。
 人間の脳(のう)は、不連続のものから連続したものを導き出す(みちび だ )寛容(かんよう)性(せい)をもっている、と私(わたし)はいった。いいかえれば、実は飛躍(ひやく)であることを飛躍(ひやく)でないととらえられるのが、人間の脳(のう)である。だから、人間は飛躍(ひやく)ができる。コンピューターやロボットには、それができない。
 決断(けつだん)できる力、どこかでエイッと飛躍(ひやく)できる力、知恵(ちえ)のそういう「強さ」も、人生とは直接(ちょくせつ)かかわらないように見える勉強を積み上げていく中で、身についていくものなのだ。
 知恵(ちえ)には、以上私(わたし)が述べ(の )たほかにも、いくつかの側面があるはずだ。いずれにせよ私(わたし)は、「人はなぜ学ばなければならないのか」の答えがあるとすれば、「それは知恵(ちえ)を身につけるためだ」と、答えるほかないのである。

(広中平祐(へいすけ)氏の文章による)
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a 長文 8.3週 ni2
 1書物はいつの世にもゆっくりと読むべきものだと私(わたし)は思う。こんなにも本がたくさん出ているのに、と言うかもしれない。しかし、同じようにレコードだってたくさん出ている。2展覧(てんらん)会もいたる所で開かれている。だからといって、音楽を能率(のうりつ)的に聴き(き )、絵画を急いで見る人はいまい。それなのに、こと本に関する限り(かぎ )速読を目指すのはどういうわけなのだろう。3おそらく、書物というものが鑑賞(かんしょう)するというより知識(ちしき)の伝達の媒体(ばいたい)と思われているせいであろう。確か(たし )に本とレコードでは違う(ちが )。本の方がはるかに多目的である。4鑑賞(かんしょう)するというよりは、情報(じょうほう)を得たいために読まれる本の方がずっと多いだろう。そんなことは十分承知(しょうち)の上で、なおかつ、私(わたし)は遅読(ちどく)を勧める(すす  )。
 5速く読むということは一見能率(のうりつ)的のように思えるが、結局は損(そん)をすることになる。私(わたし)も必要に迫ら(せま )れて急いで読まざるを得ないことがある。ところが、急いで読んだ本に限っ(かぎ )て、あとに何も残っていない。6そこで、もう一度読み直さなければならないことになる。そして、改めてゆっくり読み直してみると、最初に読み飛ばしたそんな読書が何の意味も持っていないどころか、まったく読み違え(ちが )ていたことに驚く(おどろ )のである。7こうなると、速読するよりは読まない方がましである。なぜなら、誤解(ごかい)は無知よりも有害だからである。
 そんなことを言っても、必要に迫ら(せま )れて読まなければならない場合が多いではないか、と言うかもしれない。8しかし、必要に迫ら(せま )れたらなおのことゆっくり読むべきである。必要に迫ら(せま )れる以上あくまで誤解(ごかい)は許さ(ゆる )れないからだ。9たとえ明日までにどうしてもこの一冊(さつ)を読み上げねばならないという必要に迫ら(せま )れた場合でも、ゆっくりと読み、読めるところまで読んで本を閉じ(と )たらいい。その方が、いい加減(  かげん)に斜め(なな )読みをするよりは、はるかに得るところが大きい。
 0遅読(ちどく)を勧める(すす  )もう一つの理由は、いくら速く読んでみたところ
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でたかが知れているということである。どんなに速読の技術(ぎじゅつ)を身につけたところで、二倍のスピードで読めるものではない。仮に(かり )二倍の速度で読めたとしても、そうした速読から読み取ることができるのは、ゆっくり読んだ時の二分の一にすぎない。つまり、半分しか読み取らないのだから二倍の速さで読めるわけだ。しかも、その半分が前に述べ(の )たように誤読(ごどく)に陥り(おちい )やすいとすれば、速読というものがいかに無意味であるかに気づくであろう。実際(じっさい)、本というものはそんなにたくさん読めるものではない。わずかな本しか読めないからこそ、何を読むかその選択(せんたく)が大切になる。つまり、ゆっくり読むことは、それだけ良書を選ばせる効果(こうか)を持つのである。
 わずかな本しか読めなかったなら、それだけ視野(しや)はせまくなり、とても現代(げんだい)に追いついて行けないと言うかもしれない。確か(たし )にそういった不安が現代(げんだい)人を速読へと駆り立て(か た )ている。だが、そんなことは決してない。十冊(さつ)読む人よりも五冊(さつ)読む人の方が視野(しや)が広く、立派(りっぱ)な見識(けんしき)を身につけているというようなことはざらにあるのだ。読書の価値(かち)は何冊(さつ)読んだかで決まるのではなく、どんな本をどのように読んだかで決まるのである。
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a 長文 8.4週 ni2
 1そこには、人と犬とが関係を結ぶようになった大昔の情景(じょうけい)が綿々(めんめん)と生きている。犬は人間にはない能力(のうりょく)、つまり暗闇(くらやみ)でも目がきき、その鋭敏(えいびん)な嗅覚(きゅうかく)と聴覚(ちょうかく)で危険(きけん)が迫っ(せま )ていることをいち早く察知できたことから、夜、人間が寝静まっ(ねしず  )たあとの警戒(けいかい)の役目をしたり、狩猟(しゅりょう)のなかで人間の役に立ってきた。2犬が自分たちの生活の役に立つことを知った人間は、食べ物を与え(あた )、かわいがって育て、犬たちも人に従順(じゅうじゅん)さをもって応え(こた )てきたのである。
 それにひきくらべて、いまの日本の犬たちは何を求められているのだろうか。3もちろん、盲導犬(もうどうけん)や麻薬(まやく)探知(たんち)犬などの社会に有用な犬もいるし、狩猟(しゅりょう)犬や番犬などもいるだろう。だが、概して(がい  )人間に役に立つ犬の仕事は少なくなっている。その結果、犬と人間の関係も変質(へんしつ)してきてしまっている。4現在(げんざい)のハンターと狩猟(しゅりょう)犬の関係は、昔の猟師(りょうし)であるマタギと犬の関係とはまったくちがう。マタギは自分の犬を捨て(す )たりしないが、ハンティングをする人のなかには、狩猟(しゅりょう)シーズンの終わりに使い捨て(つか す )にする人がままいるのだ。
 5結局、大多数の人は愛玩(あいがん)の対象として犬を飼っ(か )ているのだろうが、そうだとしたら、人の愛玩(あいがん)に応える(こた  )ことだけが、その役目となったいまの犬たちは、はたして幸せなのだろうか。
 6私(わたし)には、この関係はどうも人→犬の一方通行という気がしてならない。それに、愛玩(あいがん)というのはえてして、対象が変わりやすいし、飽き(あ )がくることもあるし、自分の都合で一方的にやめてしまうこともある。7これが毎年、おびただしい数の捨て(す )犬が生まれる一因(いちいん)といったらいいすぎだろうか。ほんとうに自分の生活に必要だったら、犬を捨てる(す  )ことは、自分の手足をもぐのと同じことである。8犬が人間の役に立ちたいと思っている動物だとしたら、いまの人との暮らし(く  )のなかにその対象がないことは、ある意味で悲しいことではないだろうか。
 ほんとうに人の役に立っている犬たちは、どれも生き生きしてい
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る。9私(わたし)の飼っ(か )ているラブラドール・レトリーバーのベリーという犬は、麻薬(まやく)犬にするため、成田空港の税関(ぜいかん)にあずけた。しばしの別れはつらかったけれど、ときどき見にいってみると、立派(りっぱ)に職責(しょくせき)を果たし、緊張(きんちょう)のなかで生き生きとしているのが手にとるようにわかる。0犬は何かの目的に向かって一生懸命(いっしょうけんめい)、働く動物である。人間の役に立つことで喜びを感じ、われわれもだからこそ彼ら(かれ )を愛する。そのことを考えれば、もっと犬を有用なことに使ってもいいのではないか。
 麻薬(まやく)探知(たんち)犬、盲導犬(もうどうけん)、聴()導(しるべ)犬、介助(かいじょ)犬、あるいは老人ホームを訪問(ほうもん)するボランティア犬、阪神(はんしん)大震災(だいしんさい)で活躍(かつやく)した災害(さいがい)救助犬、精神(せいしん)を病んだ人たちを癒す(いや )セラピー・ドッグ、そういう犬たちの役割(やくわり)をもっと広げていってもいいと思う。また、アウトドアで遊ぶ友として、狩猟(しゅりょう)犬やそり引き犬、あるいはフリスビー犬だっていいが、彼ら(かれ )の可能(かのう)性(せい)をもっと広げてやってほしい。ただねこかわいがりして、愛情(あいじょう)過多(かた)の状態(じょうたい)にとどめておくのは悲しい。犬にとっても、人間にとってもよりよい関係というものがきっとあるはずだ。

(富澤(とみざわ)勝『日本の犬は幸せか』(草思社)による)
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a 長文 9.1週 ni2
 1明快(めいかい)な文章を、というのは、ただわかりやすければいいというのとはすこし違う(ちが )。戦後ずっと、わかりやすく書けと言われてきたけれども、そのわりに文章は平明にはならなかった。字づらはやさしくても、ふにゃふにゃして、とらえどころのないような文章がふえた。2明快(めいかい)な文章は、骨(ほね)を持っていなくてはならない。筋道(すじみち)が通っている必要がある。つまり、論理(ろんり)的であって、しかもわかりやすい、それが明快(めいかい)な文章ということになる。
 3この論理(ろんり)的というのが問題である。どこかに客観的な論理(ろんり)なるものがあって、それに則っ(のっと )てものを書き、言うことのように考えている人がすくなくない。それなら、イギリス人の論理(ろんり)もエジプト人の論理(ろんり)も、日本人と同じでなくてはならない。4たしかに、ごく基本(きほん)的な次元では世界中が同一原理に支配(しはい)されている。しかし、論理(ろんり)にはもっと人間的な論理(ろんり)もある。言葉で表現(ひょうげん)される論理(ろんり)は、一プラス一が二になるような数式に比べ(くら )てはるかに柔らかい(やわ   )論理(ろんり)で、柔らかい(やわ   )論理(ろんり)は、民族の文化や言語によって微妙(びみょう)に違う(ちが )のがむしろ正常(せいじょう)である。5だからこそ、完全な翻訳(ほんやく)ということがむずかしい。数学の式なら翻訳(ほんやく)を要しない。
 一方、日本語の文章がわけのわからぬものになりやすいのも事実である。6論理(ろんり)的にできるものなら論理(ろんり)的にしたい。それかと言って筋道(すじみち)さえ通っていればいい、明快(めいかい)ならよろしい、という文章観で割り切っ(わ き )てもらってもわびしい。
 7川の水が濁っ(にご )ている。底が見えない。この濁り(にご )をすっかり取ってしまえ、というので清水にしてしまったらどうか。透明(とうめい)にはなるだろうが、清水に魚すまず、川かならずしも水の清さをもって尊し(とうと )とせず、である。8文章も同じこと。あまりごたごたしていれば、一度蒸留(じょうりゅう)水のようにすっきりしたものにしてみたいと思うのは人情(にんじょう)であろう。方向としては結構(けっこう)だが、それがそのとおり実現(じつげん)し
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たら、ことである。「過ぎ(す )たるはなお及ば(およ )ざるがごとし。」である。
 9古来、われわれの言語表現(ひょうげん)は、含み(ふく )を重んじてきた。「言い尽くし(い つ  )て何があろう。」と言った芭蕉(ばしょう)も、魚のすめなくなるような清水ではしかたがないと考えたのである。0古くからあいまいを美学としていた。にもかかわらず、われわれはいま芭蕉(ばしょう)の考えを捨て(す )て、表現(ひょうげん)を透明(とうめい)にすることに関心を向けている。おそらく、これは、それほどむずかしいことではなかろう。たしかに、よけいなものを取ってしまって、ぎりぎり言いたいことだけ言えば、いわゆる名文にはなる。だが、文章をそんなふうに裸(はだか)にしてはみっともない。適当(てきとう)に着物をきせている方がおもしろいのである。

(外山(とやま)滋比古(しげひこ)「日本の文章」より)
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a 長文 9.2週 ni2
 1このくり返しの放映(ほうえい)による暗示(あんじ)の力はたいへん大きいものです。それは、いきなり心の深い部分に侵入(しんにゅう)し、そこに直接(ちょくせつ)働きかけてきます。平たくいえば、暗示(あんじ)効果(こうか)をくり返しつづけることによって、その製品(せいひん)のイメージをわたしたちに信じこませてしまいます。2そして、知らず知らずのうちに、買いたい気持ちをいだかせてしまうのです。この映像(えいぞう)の影響(えいきょう)力からのがれることはなかなかできません。
 このからくりは、テレビのコマーシャルばかりでなく、あらゆるものにあてはまります。3わたしたちの持っている習慣(しゅうかん)やくせというものは、すべてそうです。たとえばわたしたちは、朝起きて顔を洗い(あら )、歯をみがくという習慣(しゅうかん)を持っていますが、これは言葉によっていいつけられ、それを反復(はんぷく)練習するという動作によって、わたしたちの心の底に一つの形が焼きついてしまっているからです。4テレビの場合も同様で、われわれがテレビを見る習慣(しゅうかん)を身につけてしまったことが、反対にコマーシャルに利用されているわけです。このようにわたしたちは、精神(せいしん)的にも肉体的にも、ある事がらをくり返しおこなうと、それが習慣(しゅうかん)化されるようにしくまれているのです。5そして、いったん身についた習慣(しゅうかん)は「第二の天性(てんせい)」というように、持って生まれた性格(せいかく)のようになってしまいます。
 したがってわたしたちは、どんな習慣(しゅうかん)を身につけているかによって、その生涯(しょうがい)を大きく左右されていきます。6特にテレビのように影響(えいきょう)力の大きい場合は、どんな見方をしているかが大きな意味を持ってくることになります。7もとよりテレビはわたしたちの生活を豊か(ゆた )にするための文明の利器として人間が作りだしたものですから、その効果(こうか)を有効(ゆうこう)に生かせば、わたしたちの実生活にもおおいに役立つ点があるはずです。8見る人が自覚を持って自分の人生に役立てるように、必要なものだけを選んで見るような習慣(しゅうかん)づくりをすれば、テレビはわたしたちに大きなめぐみを与え(あた )てくれます。9ところが、テレビ番組をつくる側がいいかげんにつくった
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り、見る人が自覚を欠いたりしていると、大きな損失(そんしつ)を招く(まね )ことになります。ひいては、人間のつくりだしたものを自分たちで支配(しはい)することができず、つくりだした物によって逆(ぎゃく)に支配(しはい)されるというはめにおちいることになるのです。
 0幼少(ようしょう)年期の人たちは、放っておくと、内容(ないよう)のよしあしも、興味(きょうみ)本位の番組を選んで見ますから、無意識(むいしき)のうちに本能(ほんのう)をくすぐるような番組にかたより、おもしろいからついつづけて見るということになるでしょう。その結果、テレビの前にくぎづけにされて、映像(えいぞう)を一方的に押しつけ(お   )られる状態(じょうたい)がつづき、心の底に送りこまれることが気づかないうちにおこってしまうのです。こういう状態(じょうたい)を毎日くり返していると外から押しつけ(お   )られることになれてしまって、自分から考えるということが、だんだんできなくなります。考えることができなくなった人間は、歌を忘れ(わす )たカナリヤのように、もはや魂(たましい)を失った人間といえるでしょう。教育専門(せんもん)家の報告(ほうこく)では、幼児(ようじ)期によくテレビを見せられた子供(こども)は、友だちと遊べなくなったり気持ちが不安定になったりする場合があるそうです。
 今まで述べ(の )てきたように、テレビをあつかうべき人間がその見方を誤っ(あやま )て悪い習慣(しゅうかん)を身につけてしまうと、大事な人生をだいなしにしてしまいます。情報(じょうほう)化社会の洪水(こうずい)の中を、うまく泳いでいくためには、まずわたしたち自身が情報(じょうほう)化社会の住人であることをしっかり意識(いしき)することが大切なのです。
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a 長文 9.3週 ni2
 1君たちの中には、あまり学校が好きではない人もいるかも知れない。
「あーあ、学校なんてきらいだなあ。いやな科目はあるし、試験はあるし、もっと自由に好きなことをして暮らし(く  )たいな。」
2「こんなふうに思っている人が、あんがい多いのではないか? なるほど、もっともな面もあると思う。たしかに、人間の社会にはいろいろと思いどおりにならないことが多い。もうすこしお小遣い(こづか )が多かったら、もうすこし遊ぶ時間が多かったら、と思うのは君たちだけではない。3私(わたし)だってそうだ。人間の社会にはがまんしなければならないことが多すぎる。
 だがこの考えは、すこしばかり身勝手な考えだ。生活していくうえで、がまんしていかなければならないのは、なにも人間社会だけに限っ(かぎ )たことではない。
 4生物として、この世に命をもって生まれてきたものはすべて、それぞれの生物社会の一員に組み込ま(く こ )れる。そして、この世で生きていくためには、すべてある程度(  ていど)のがまんをしていかなければならない。5そのことは密林(みつりん)に住む野獣(やじゅう)であろうと、人間社会の権力(けんりょく)者であろうと同じことだ。
 いや人間なら、いやになれば逃げ出す(に だ )ことも、やめることもできる。だが、植物などは生まれた場所が気に入らないからといって、そこから逃げ出す(に だ )ことは絶対(ぜったい)にできない。6がまんして生きていくか死んでしまうか、二つに一つなのだ。その意味では、植物の世界こそもっともがまんを重ねなければならないところだ。
 7とくに森林のように、すでに一つの社会が成り立っている場所に生育する若い(わか )植物は、ひたすらがまんすることが生活になる。8シイやカシの森の中に、ヤツデやアオキのように生活能力(のうりょく)や生活形態(けいたい)がちがうものが生育した場合は、現実(げんじつ)にはそれほどはげしい争いは起きず、かえって生活の場をすみ分けて共存(きょうぞん)することがお互い( たが )のためになる。9だが、たとえばシイやカシの高木林の中に、クス、イチイガシやシラカシのように、シイやカシよりさらに高木になるような植物が生育した場合は、高木層(そう)のすぐ下の亜高木(あこうぼく)層(そう)まで生育して、先輩(せんぱい)の高木が枯れ(か )て自分たちの時代がくるまで、
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じっと待ちつづける。
0「石の上にも三年」ということわざがあるように人間の社会なら、せいぜい三年も待てば、たいてい事情(じじょう)が変わって先が開けてくる。ところが植物の世界では、数十年、いや時には数百年ものあいだがまんしつづけるのだ。数多くの植物は、がまんしきれずに枯れ(か )ていき、がまんにがまんを重ねた少数の植物だけが、じゅうぶんに生活力をたくわえ、先輩(せんぱい)が老衰(ろうすい)したり、虫や風やカビなどの被害(ひがい)を受けて倒れ(たお )たりしたすきにすばやく大きくなって、つぎの時代のチャンピオンになることができるのだ。
 私(わたし)たちの実験でも、あきらかに競争、共存(きょうぞん)、忍耐(にんたい)という、植物、いや生物社会の厳しい(きび  )ありさまは観察できた。わずか一メートル平方の狭苦しい(せまくる  )世界にも、お互い( たが )にいがみ合いながらも共存(きょうぞん)し、狭い(せま )場所をすみ分けている典型的な生物社会が示さ(しめ )れていたのである。
 私(わたし)たち人間社会に身を置く者も、生物社会の一員としての大きな視野(しや)から、多様な環境(かんきょう)的制約(せいやく)とそこに生きるものどうしの関係から生ずる社会的制約(せいやく)をどう人間の発展(はってん)に結びつけていったらよいか、みんなで考えてみようではないか。植物社会の教訓を単なる現象(げんしょう)として見すごすか、人間社会の未来のために生かせるか、英知をもつ人間の真価(しんか)を問われる分岐(ぶんき)点である。
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a 長文 9.4週 ni2
 1タケとササは花が違う(ちが )と聞いても、そもそもタケとササに花が咲く(さ )の? と思われる方も少なくないだろう。もちろん、タケにもササにも花が咲く(さ )。タケやササは風で花粉を運ぶ風媒花(ふうばいか)で、イネによく似(に)た花を咲かせる(さ   )。2ただし、タケが花を咲かせる(さ   )ということはほとんどない。タケの花にお目にかかるチャンスはきわめて少ないのだ。
 一説には「タケは六十年に一度花を咲かせる(さ   )」といわれている。3実際(じっさい)にモウソウチクでは六十七年、マダケでは百二十年の周期で花を咲かせ(さ  )たという記録もある。
 世にも珍しい(めずら  )タケの花。ところが、タケの花が咲い(さ )た後、竹林には奇妙(きみょう)な現象(げんしょう)が起こる。一面に広がっていた広大な竹林がいっせいに枯れ(か )てしまうのである。
 4しかし考えてみれば、これは不思議でもなんでもない。植物のなかには何度も何度も花を咲かせる(さ   )多回繁殖(はんしょく)性(せい)の植物と、一度花を咲かせ(さ  )て種子を残すと枯れ(か )てしまう一回繁殖(はんしょく)性(せい)の植物とがある。5たとえば、ヒマワリやアサガオなどは花を咲かせ(さ  )て種子を残すと枯れ(か )てしまう。タケも花が咲い(さ )て枯れる(か  )。これは、ごくふつうのことである。ただ、タケの場合はその周期が途方(とほう)もなく長いというだけなのだ。
 6タケは地下茎(ちかけい)で伸び(の )て増え(ふ )ていくから、無数のタケが生えた広大な竹林が、すべて地下茎(ちかけい)でつながった一つの個体(こたい)ということも決して大げさな話ではない。7つまり、一本のヒマワリが花を咲かせ(さ  )て枯れる(か  )ように、タケが花を咲かせ(さ  )て枯れる(か  )ということは、竹林全体のタケが枯れ(か )てしまうことになるのだ。そうはいっても、いままで夏も冬も青々としていた竹林が、いきなり枯れ(か )だすのだから、大変である。8そのため昔の人は気味悪がって、タケに花が咲く(さ )のは天変地異(てんぺんちい)の前触れ(まえぶ )だといってひどく恐れ(おそ )たのである。
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 ところが、である。どうやら、それも昔の人の迷信(めいしん)とかたづけるわけにもいかないようなのだ。9タケやササが花をつけると、実際(じっさい)に恐ろしい(おそ   )ことが起こることが知られているのである。
 タケやササが花を咲かせ(さ  )た後は、無数の種子ができる。そして、この種子をえさとするネズミが大発生してしまうのだ。0ネズミの妊娠(にんしん)期間はわずか二十日。一匹(ひき)のネズミは十匹(ひき)の子どもを出産し、生まれた子どもはわずか五十日で成獣(せいじゅう)となり繁殖(はんしょく)能力(のうりょく)を持つというから、恐るべき(おそ   )繁殖(はんしょく)能力(のうりょく)である。ただ、通常(つうじょう)はえさの量が限ら(かぎ )れているから、えさにありつけずに死ぬネズミも多く、ネズミの数は増え(ふ )すぎることもなく保た(たも )れている。しかし、えさが豊富(ほうふ)にあり、すべてのネズミが死ななかったとしたらどうなるだろう。文字どおりネズミ算式に増加(ぞうか)し、数カ月のうちに百倍くらいには平気で増え(ふ )てしまう。そして、増え(ふ )すぎたネズミはタケやササの種子を食い尽くし(つ  )、やがては田畑の農作物を食べ荒し(あら )て、ついには人々が大事に蓄え(たくわ )た穀物(こくもつ)をも食べ尽くし(つ  )てしまうのである。こうして、タケやササの花は飢饉(ききん)の原因(げんいん)にもなってしまうのだ。
 どんな植物でも花が咲く(さ )のは待ち遠しいものだが、どうやらタケやササだけは別のようだ。どうぞ、今年もタケやササに花が咲き(さ )ませんように、と短冊(たんざく)に願いをかけるとしよう。

(稲垣(いながき)栄洋『蝶々(ちょうちょう)はなぜ菜の葉にとまるのか』(草思社)による)
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