a 長文 7.1週 ni2
 「ロシア語は取っ付きにくい、難しむずか そう、つい敬遠けいえんしてしまう」
 そういう人たちが一番にあげる理由が例のロシア文字。英語、フランス語、ドイツ語など圧倒的あっとうてき多数のヨーロッパ諸語しょご採用さいようしているラテン文字、いわゆるローマ字ではなく、同じギリシャ文字をお手本につくられたものの、なじみのない形状けいじょうのも混じっま  たキリール文字である。西ローマ教会(カトリック)けん組み込まく こ れた地域ちいきがラテン文字を採用さいようしたのに対し、東ローマ教会(正教)けんに入った国々(ロシア、ブルガリアやセルビアなど)はキリール文字を使う。
 それにしても、ロシア語の場合、その数わずか三十三。大文字小文字両方あわせても、たかだか六十三である。ひらがな、カタカナ五十字ずつに加えて、三千字前後の漢字を書けて、五千字以上の漢字を読めることになっている日本人が、怖じ気付きお けづ 、覚えるのを億劫おっくうがるような数ではない。その気になりさえすれば一時間で覚えられる量だろう。
 それを思えば、むしろ同情どうじょう敬服けいふく値するあたい  のは、日本語を学ぶ漢字けんの外国人ではないだろうか。
中略ちゅうりゃく
 表音文字だけの英語やロシア語のテキスト、あるいは漢字のみの中国語テキストと違っちが て、日本語テキストは基本きほん的には意味の中心を成す語根に当たる部分が漢字で、意味と意味の関係を表す部分がかなで表されるため、一瞬いっしゅんにして文章全体を目で捉えるとら  ことが可能かのうなのだ。
 アメリカ生まれの速読じゅつなんて表音文字対応たいおうだから、ほとんど日本語には役に立たない。むしろ日本語のかな漢字混合こんごう文それ自体が実にみごとに速読に適してき ていたのである。
 すっかりこの発見に有頂天うちょうてんになったわたしは、様々な種類の文章の、日本語ばんとロシア語ばんを時間を計りながら黙読もくどくしてみた。会議の同時通訳つうやくという仕事は、先週の前半は遺伝子いでんし工学のセミナー、
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後半は歴史学者のシンポジウム、今日は大統領だいとうりょう釈明しゃくめい演説えんぜつ、明日からは環境かんきょう会議、という具合に日々くるくる顧客こきゃくとテーマが変転していく。そのたびに一テーマあたり一〜三さつの電話帳に匹敵ひってきする資料しりょう格闘かくとうし、その専門せんもん分野の入門書を事前に読んでおくものだ。だから、千差万別さまざまな分野のテキストに日ロ両語で接するせっ  のは日常茶飯にちじょうさはんなのだが、それを実験対象にしたのである。それに、日本語の小説とそのロシア語やく、ロシア語の小説とその日本語やくをいくつか時間を計りながら読み比べよ くら てみた。
 そして、活字にして断言だんげんできるほどの自信満々な確信かくしんを持つにいたった。黙読もくどくする限りかぎ 、日本語の方が圧倒的あっとうてきに早く読める。わたしの場合平均へいきん七・六倍強の早さで、わたしの母語が日本語であることを差し引いても、これは大変な差だ。
 子どものころから文字習得に費やした時間とエネルギーが、こんな形で報わむく れているとは。世の中の帳尻ちょうじりって、不思議と合うようになっているんですね。いや、これからは収支しゅうしを黒字に転ずるために、どんどん読まなくてはそんてことだろう、と意地汚くいじきたな 本を貪るむさぼ 今日この頃  ごろである。

(原万里 ちょ/日本エッセイストクラブ へん「漢字かな混じりま  文は日本のたから」(『九九年ベスト・エッセイ集「木炭日和」』
文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう所収しょしゅう))
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