a 長文 8.2週 ni2
 知恵ちえがつくられる場所である人間ののうは、また、コンピューターなどと違っちが て、物事をはばをもってみつめ、考えることができるようにできている。つまり寛容かんような思考態度たいどをとることが人間にはできるのだ。
 人間ののうにあるこの寛容かんようせいは、ものを考える上でも発揮はっきされる。その一つは連想である。文章、特に詩とか格言かくげんのようなものを読む時、その中の言葉から連想される異なっこと  た言葉を、思いつくまま列記しておくとする。その列記された言葉のいくつかを組み合わせて新しい文章をつくってみる。こうしたあとで、もう一度、元の文章を読み直すと、意味の理解りかいが深みと新鮮しんせんさをもつものだ。連想は、言葉の意味と感じにはばをもたせてみるというのう寛容かんようせいから生まれる。
 このように、人がものを考える時は、はばをもった考え方をするものであり、またそれでこそ、思考は発展はってんせいをもって深まっていくのだ。
 わたしは、人生には、深くものを考えなければならない時期があり、その深い思考力をつちかうことも勉強の目的の一つだ、と前にいった。これはいいかえれば、勉強してこそつくられる「知恵ちえの深さ」である。勉強しない人ののうは、人間特有のはばをもった思考のレッスンをしないから深くものを考える力、つまり「知恵ちえの深さ」が身につかないのだ。
 知恵ちえには「広さ」があり、「深さ」があり、また「強さ」というものがある。「知恵ちえの強さ」とは、すなわち決断けつだん力である。
 わたしたちが人生で当面する問題には、クイズやテストのようにあらかじめ答えが用意されているものはない。クイズの問題は解答かいとうを見つけるだけの問題だが、人生の問題は、相当の時間をかけなければ問題そのものの真意もつかめないし、とうてい真の解決かいけつには至らいた ない難問なんもんばかりである。だから、長い年月をかけて、すべ
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

てを知らなければ何の行動も起こせないという姿勢しせいにだけ固執こしつしていては、この世は渡っわた ていけない。
 医者が、現在げんざいの医学の水準すいじゅんではある病気について数パーセントしか解明かいめいされていなくても、目の前で苦しんでいる患者かんじゃに何らかの診断しんだんをくださなければならない時があるように、それがいかに未解決みかいけつ難問なんもんであろうと、どこかで決断けつだんしなければならないのである。飛躍ひやくしなければならないのである。
 人間ののうは、不連続のものから連続したものを導き出すみちび だ 寛容かんようせいをもっている、とわたしはいった。いいかえれば、実は飛躍ひやくであることを飛躍ひやくでないととらえられるのが、人間ののうである。だから、人間は飛躍ひやくができる。コンピューターやロボットには、それができない。
 決断けつだんできる力、どこかでエイッと飛躍ひやくできる力、知恵ちえのそういう「強さ」も、人生とは直接ちょくせつかかわらないように見える勉強を積み上げていく中で、身についていくものなのだ。
 知恵ちえには、以上わたし述べの たほかにも、いくつかの側面があるはずだ。いずれにせよわたしは、「人はなぜ学ばなければならないのか」の答えがあるとすれば、「それは知恵ちえを身につけるためだ」と、答えるほかないのである。

(広中平祐へいすけ氏の文章による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534