a 長文 9.1週 ni2
 明快めいかいな文章を、というのは、ただわかりやすければいいというのとはすこし違うちが 。戦後ずっと、わかりやすく書けと言われてきたけれども、そのわりに文章は平明にはならなかった。字づらはやさしくても、ふにゃふにゃして、とらえどころのないような文章がふえた。明快めいかいな文章は、ほねを持っていなくてはならない。筋道すじみちが通っている必要がある。つまり、論理ろんり的であって、しかもわかりやすい、それが明快めいかいな文章ということになる。
 この論理ろんり的というのが問題である。どこかに客観的な論理ろんりなるものがあって、それに則っのっと てものを書き、言うことのように考えている人がすくなくない。それなら、イギリス人の論理ろんりもエジプト人の論理ろんりも、日本人と同じでなくてはならない。たしかに、ごく基本きほん的な次元では世界中が同一原理に支配しはいされている。しかし、論理ろんりにはもっと人間的な論理ろんりもある。言葉で表現ひょうげんされる論理ろんりは、一プラス一が二になるような数式に比べくら てはるかに柔らかいやわ   論理ろんりで、柔らかいやわ   論理ろんりは、民族の文化や言語によって微妙びみょう違うちが のがむしろ正常せいじょうである。だからこそ、完全な翻訳ほんやくということがむずかしい。数学の式なら翻訳ほんやくを要しない。
 一方、日本語の文章がわけのわからぬものになりやすいのも事実である。論理ろんり的にできるものなら論理ろんり的にしたい。それかと言って筋道すじみちさえ通っていればいい、明快めいかいならよろしい、という文章観で割り切っわ き てもらってもわびしい。
 川の水が濁っにご ている。底が見えない。この濁りにご をすっかり取ってしまえ、というので清水にしてしまったらどうか。透明とうめいにはなるだろうが、清水に魚すまず、川かならずしも水の清さをもって尊しとうと とせず、である。文章も同じこと。あまりごたごたしていれば、一度蒸留じょうりゅう水のようにすっきりしたものにしてみたいと思うのは人情にんじょうであろう。方向としては結構けっこうだが、それがそのとおり実現じつげん
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たら、ことである。「過ぎす たるはなお及ばおよ ざるがごとし。」である。
 古来、われわれの言語表現ひょうげんは、含みふく を重んじてきた。「言い尽くしい つ  て何があろう。」と言った芭蕉ばしょうも、魚のすめなくなるような清水ではしかたがないと考えたのである。古くからあいまいを美学としていた。にもかかわらず、われわれはいま芭蕉ばしょうの考えを捨てす て、表現ひょうげん透明とうめいにすることに関心を向けている。おそらく、これは、それほどむずかしいことではなかろう。たしかに、よけいなものを取ってしまって、ぎりぎり言いたいことだけ言えば、いわゆる名文にはなる。だが、文章をそんなふうにはだかにしてはみっともない。適当てきとうに着物をきせている方がおもしろいのである。

外山とやま滋比古しげひこ「日本の文章」より)
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