a 長文 4.1週 nnga
長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。
 国境を越えこ て移動する人々にとって、連続性の保証はなによりも強く希求するところとなる。なかには、抑圧よくあつ的な社会体制から逃れるのが  ことを一つの目的とし、憧れあこが の新しい世界を求めて居を移す者たちもいるが、それでも知己、親戚しんせきなどのつてを頼りたよ 、同国人あるいは同民族コミュニティの中に迎えむか られることを願う者は多数であろう。先にあげたアルジェリアのカビール地方の向仏移民たちが「フランスは初めて踏むふ 土地ではない」と思い込んおも こ でいるということは、この連続性の想定であり、もっといえば連続性への願望であろう。いくぶんともそのような想定をもつことなしには、移動という行動がそもそも起こりえないだろう、ということはすでに述べた。連続性想定の機能的意義は大きい。
 しかし、こうした連続性の想定の上での移動は、また、移民たちの生活をさまざまに限界づけてしまう。そのもっとも顕著けんちょな例は、言語へのかれらの態度である。かつてトルコの東部から連鎖れんさ移民的にドイツの町々にやってきた移民たちは、「ドイツ語ができなくとも、トルコ人の先住コミュニティに迎えむか てもらえばなんとかなる」と思い、ドイツ語を学ぶ労もとらずドイツに住み着いた。たしかにコミュニティの中で生活しているかぎり大きな不自由はないが、そこから外へと人間関係を広げていくことはほとんどできない。職場の中でのかれらの位置も、トルコ人を同僚どうりょうとする限られた地位にすぎなくなってしまう。
 言語に関しては、旧植民地から旧宗主国にやってきた移民の場合に、連続性の幻想げんそうがかえって一個の陥穽かんせいとなるおそれがある。たとえばアルジェリアからフランスへの移民には少なくともこの国のアラビア語化が本格的に始まる以前の六〇年代の来仏者には「フランス語は使えるから、問題はない」という思い込みおも こ があった。だが、かえってその思い込みおも こ のため、フランス語を学ぶという動機づけが弱く、夜間の講座に通うなどの労もとらず、そのため来仏後の進歩がはかばかしくない、という問題を生じていた。じっさい、彼らかれ が「フランス語には問題はない」というのは、せいぜい日常会話のそれであって、言語資本としては貧しい。フランス語の読み書きは心もとなく、自分で手紙を書くことはもとより、新聞を読むこと、職場で操作マニュアルを読むことも困難なのである。
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となると、いざ職場で技術革新がおこなわれ、新しい技術システムが導入されるときなど、かれらの読み書きの難しさが、そのまま技術的適応の困難を引き起こし、雇用こよう不安にさらされることになるのである。
 連続性の保証が問題を生んでいる別のケースをあげれば、それは、日本への出稼ぎでかせ 数が近年増大しているブラジル、ペルー、アルゼンチンなどの出身者の場合であろう。日本語保持率の高い日系二世はまだしも、三世になると、日本語を使える者がきわめて少数となるが、かれらは来日にあたって、旅行業をもかねる斡旋あっせん業者にすべてを委ねることで、連続性を確保しようとする。ビザの申請しんせいから、職の斡旋あっせん、来日後の住宅の手配まですべて業者に任せ、来日すると、派遣はけん業者に引き継がひ つ れ、ここでも日本語を使わず、ほとんどあらゆる手続きが代行されるのである。当人は、ポルトガル語、スペイン語を使い、本国の文化に従いながらなんとか日本の職業生活の中に位置を得ることになる。日本の社会制度に関する知識も自らの努力で得ようとする者は多くない。当座はその必要がないと感じるからである。しかし、その代償だいしょうは小さくなく、日本社会の中でのかれらの孤立こりつは一部このことに由来している。

(宮島たかし『文化と不平等』)
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長文 4.1週 nngaのつづき
 新しい様式を創造するということは、美術における進歩の中核ちゅうかく的な意義である。
 美術における進歩は、科学の進歩などとはおもむきを異にしている。科学は前の成果を踏み台ふ だいとして、後のものがその先へ出るのであるが、美術においては優れた成果は必ずしも後のものの踏み台ふ だいとはならない。それぞれの傑作けっさくは、すべて特殊とくしゅな、ただ一回的なもので、そこから先へ行けない「絶頂」のような意味を持っている。たとえばギリシアの彫刻ちょうこくとかルネッサンスの絵画とかのように、同じやり方ではどうしてもそこから先へ出られないものである。同じやり方をすれば必ずエピゴーネンになってしまう。だから美術に進歩をもたらそうとすれば、先のものが見のこした新しい美を見いだし、それに新しい形づけをしなくてはならない。それが新しい様式の創造なのである。
 そういう創造のことを考えるごとに、私はいつもミケランジェロの仕事を思い出す。かれの作品が実際私にそういう印象を与えあた たのである。ギリシア彫刻ちょうこくの美しさや、その作者たちのすぐれた手腕しゅわんを、かれほど深く理解した人はないであろうが、その理解は同時に、ギリシア人と同じ見方、同じやり方では、到底とうてい先へは出られぬということの、痛切な理解であった。だからかれは意識してそれを避けさ 、他の見方、他のやり方をさがしたのである。すなわちギリシア的様式の否定のうちに活路を見いだしたのである。「形」が内的本質であり、従って「内」が残りなく「外」に顕れあらわ ているというやり方に対して、内がおくにかくれ、外はあくまでも内に対する他者であって、しかも内を表現しているというやり方、すなわちそれ自身において現われることのない「精神」の「外的表現」というやり方を取ったのである。従って作られた形象の「表面」が持っている意味は、全然変わってくる。それは内なる深いものを包んでいる表面である。そういうやり方でかれは絶頂に到達とうたつした。かれのあとから同じやり方を踏襲とうしゅうするものは、「何かを包んでいる表面」だけを作りながら、中が空っぽであるという印象を与えるあた  同じやり方でかれの先に出ることはできないのである。ロダンが「何かを包んで
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いる表面」を思い切って捨て、面を形成しているあらゆる点が内から外に向いているような新しい表面を作り出したとき、初めて近代の彫刻ちょうこくは一歩先へ出ることができた。
 そう考えてくると、新しい様式の創造には古い様式の重圧が必要だということになる。古い様式による傑作けっさくを十分に理解すればするほど、そこからの解放の要求、新しい道の探求が盛んになる。すなわちできあがった一つの様式のなかには、新しい様式を必然に生み出して行くような潜勢力せんせいりょくがこもっているのである。だからこそ過去の傑作けっさく鑑賞かんしょうや、その鑑賞かんしょうを容易ならしめる美術館は、美術の進歩に重大な意義を担うことになる。それぞれの時代、それぞれの様式において、「絶頂」を意味するような傑作けっさくが、美術館に並んでいて、いつでも見られる、という社会にあっては、言わばそういう傑作けっさく権威けんいが君臨しているのである。そういう世界で幾分いくぶんかでも独創的な仕事をするためには、右の権威けんいの重圧をはねかえして、新しい様式をつくり出さねばならぬ。美術館はそういう運動の原動力となっているといってよい。

(和つじ哲郎てつろうの文章に基づく)
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