1現在『子供』の問題がたいへん捉えにくく、なにかと不気味なのは、一つには、社会のなかで子供についての或る一定の共通了解事項が成り立たなくなったからである。2と同時に「『子供』の問題というのはふつうの問題のように対象化し分析的に捉えていったところであまり意味をなさないからであろう。いまやいろいろな領域で単なる専門家というものは役に立たないといわれ『専門馬鹿』などということばさえ出てくるようになった。3けれどもこの問題は、一方で現在ますます専門的知識が必要になっているだけに、どう対処すべきかは簡単ではない。そしてこの場合、なによりも専門的知識の質あるいは在り様が問われることになる。
4永い間、知識とは無知あるいはタブラ・ラサ(白紙)に付け加えられ、積み重ねられたものであり、したがって、より多く知ることがより真理に近づくことだと考えられていた。5ところが事実は必ずしもそうとばかりはならずに、ものを多く知ること、多くの知識をもつことによって、かえって私たちの一人一人は在るがままにものを見ることをできなくなるという事態が生ずるようになった。6知識が創造的なかたちで働かされなくなるようになったといってもよければ、知識がかえって疎外的に働くようになったといってもいい。こういうことは昔からもなかったわけではない。それは半可通と呼ばれる人たちにはよく見られたことであるけれど、なんといっても現在ほどには問題は尖鋭化、一般化していなかった。7現在、こうした場合に必要なことはなにか。それは、専門家であることが、専門的な知識を多くもっていることだけにとどまらず、専門的な知識そのものの弊害を見破り、それに囚われないでいることでなければならないだろう。8純粋なあるいは形式的な論理からみれば、そういう作業は折角つくったものをこわすので、なにもしていないに等しいようにみえるかも知れない。しかし、このようなダイナミックな運動をとおしてはじめて、私たちは現実に触れうることになるのである。9これはどのような分野についても言いうることだが、とりわけ『子供』の問題に関しては強調されて然るべきだろう。それというのも、『子供』の問題は、囚われない眼で在るがままに見なければならないのに、これほど出来合いの知識によって蔽われている領域はほかにないと思われるからである。0そこでは多くの知識が惰性系つまり『見えない制度』と化しやすいのだ。
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