a 長文 5.1週 nnga
一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。
 文化の発展には民族というものが基礎きそとならねばならぬ。民族的統一を形成するものは風俗ふうぞく慣習等種々しゅじゅなる生活様式を挙げることができるであろうが、言語というものがその最大な要素でなければならない。故に優秀ゆうしゅうな民族は優秀ゆうしゅうな言語を有つ。ギリシャ語は哲学てつがくに適し、ラティン語は法律に適するといわれる。日本語は何に適するか。私はなおかかる問題について考えて見たことはないが、一例をいえば、俳句という如きごと ものは、とても外国語には訳のできないものではないかと思う。それは日本語によってのみ表現し得る美であり、大きくいえば日本人の人生観、世界観の特色を示しているともいえる。日本人の物の見方考え方の特色は、現実の中に無限を掴むつか にあるのである。しかし我々は単に俳句の如きごと ものの美を誇りほこ とするに安んずることなく、我々の物の見方考え方を深めて、我々の心の底から雄大ゆうだいな文学や深遠な哲学てつがくを生み出すよう努力せなければならない。我々は腹の底から物事を深く考え大きく組織して行くと共に、我々の国語をして自ら世界歴史において他に類のない人生観、世界観を表現する特色ある言語たらしめねばならない。本当に物事を考えて真にある物を掴めつか ば、自ら他によって表現することのできない言表げんぴょうが出て来るものである。
 日本語ほど、他の国語を取り入れてそのまま日本化する言語は少ないであろう。久しい間、我々は漢文をそのままに読み、多くの学者は漢文書き下しによって、否、漢文そのものによって自己の思想を発表して来た。それは一面に純なる生きた日本語の発展を妨げさまた たともいい得るであろう。しかし一面には我々の国語の自在性というものを考えることもできる。私は復古へきの人のように、徒らいたず に言語の純粋じゅんすい性を主張して、強いて古き言語や語法によって今日の思想を言い表そうとするものに同意することはできない。無論、古語というものは我々の言語の源であり、我が民族の成立と共に、我が国語の言語的精神もそこに形成せられたものとして、何処までも深く研究すべきはいうまでもない。しかし言語というものは生きたものということを忘れてはならない。
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『源氏』などの中にも、如何にいか 多くの漢字がそのまま発音を丸めて用いられていることよ。また蕪村ぶそんが俳句の中に漢語を取り入れた如くごと 、外国語の語法でも日本化することができるかも知れない。ただ、その消化如何いかんにあるのである。

 「国語の自在性」(西田幾多郎きたろう
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長文 5.1週 nngaのつづき
 固有名詞が、その固有の意味においてはっきりと姿をあらわすのは、かれ/彼女かのじょが、父と母だけでなく(父も母も、そのこどもにとっては一つしかないものだから、太陽や月が固有名詞であるかどうかという、文法学者の古典的な議論と同様に、純粋じゅんすい普通ふつう名詞でもなければ固有名詞でもない)、きょうだいや遊び仲間をもち、あるいは保育園や学校のようなところに通って社会生活をはじめたときである。かれ/彼女かのじょは、自分だけでなく、他者も、それぞれが名をもつことを知る。逆説的なようだが、固有名詞があるというそのことが、言葉が本来的に社会的なものであるということの証拠しょうこになるのである。
 現代社会では、人やものが固有名詞で呼ばれるものであり、また呼ばれなければならないということは、経験を通じて徐々にじょじょ 学ばれるのではなく、たとえばこどもに入学した学校の名をおぼえさせることによって一挙に教えこまれるのである。この過程を通じて、こどもは、自分は一つの制度の中にくり入れられ、ある組織に所属するのだという意識を植えつけられるから、固有名詞はこどもを社会化するための基本的な道具となり、人間は死ぬまで固有名詞の支配下に置かれるのである。言語(ここに言う言語とは、人間はことばを話す動物であるというばあいの一般いっぱん的な言語と、人間は何々語という、特定の言語しか話すものではないという意味での言語との二重の意味においてである)が人間に与えあた られた宿命であるとするならば、固有名詞は、宿命としての言語の本質的部分を体現していることになる。
 まことに固有名詞こそは、人類が決して一つではなく、さまざまな名前――固有名詞をもって分かれ、それぞれが自分あるいは自分たちに対立するものであるということを思い知らせ、相互そうごのちがいをいやが上にもきわ立たせ、それを固定させる道具である。名前、固有名詞こそは、ことばの中でも抜きん出ぬ  でた地位を占めし ていて、これこそことばの中のことば、名詞の中の名詞だと言ってもいいくらいである。人間は生きている間のほとんどの時間を、名前とともに生き、苦しみ、争ってきたと言えるのである。そのために、どれだけ多くの人が、名前から逃れのが たいと思っただろうか。――自分自身とその家族の名前から、国家や民族の名前、出身地の名前等々から。
 ところが、ことばの科学――たとえば言語学は、名前については
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本気で科学しなかった。はじめから、それは科学できないものとしてとり除いてしまったのである。
 とり除いた理由の一つは、方法論がそうするよう求めたからである。そのことと深いつながりがあるのだが、名前――固有名詞の問題を、ひたすら普通ふつう名詞、一般いっぱん名詞といかにちがうかを考えるにとどまり、社会のコンテキストに置いて考えることをしなかったためである。ことばや記号は認識論上の問題に限定され、はじめから、社会から切りはなされていたのである。
 また代々の文法家や論理学者たちは、固有名詞の本来の機能は、それが何かあるものを一つしかないものとして孤立こりつさせて指し示すところにあると言いつづけてきた。純粋じゅんすいの固有性というものをそのようなものとして考えてきたからである。
(中略)
 このように考えてみると、まさに、名前に、アイデンティティというものの二重性がある――自分は自分であって、それ以外のものではあり得ないと主張される自分は、他方ではどこかに所属している(どこにも所属しないことが、すでに所属である。人はこの独得の所属のしかたにもまた名をつけるであろうから)あるいは所属せざるを得ないというこの原理は、名づけ、すなわち、ことばの原理そのものから発しているように思われる。
 人間の名前がその所属を示すように(もう一度強調しておけば、その名前は、ある特定の言語に属すからだ。このことは忘れないでおこう)、山も河も海も、名づけられると同時に、その領有への主張が背後にすべり込む   こ 。こうして固有名詞は、たちまち緊張きんちょうした政治の磁場を作り出すのである。

(田中克彦かつひこ「名前と人間」による)
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