a 長文 5.3週 nnga
 ロボットは人間かと問うのは、ロボットにも心とか意識といったものがあるかと問うことである。うまそうに食事をしているロボットは、本当に空腹を感じ、食欲をもち、そして味わっているのだろうか、あるいは単にすべてただ「振りふ をしている」だけなのだろうか。歯医者の椅子いすの上でうめき声をあげているロボットは本当に痛がっているのだろうか。ただ痛そうな振りふ をしているだけではないのか。
 だがこの問いに答える方法があるだろうか。ロボットに「本当に痛いのか」と尋ねれたず  ばもちろんのこと、「間抜けぬ たことを言うな、痛いったら痛いんだ」と答えるだろう(そしてその夜、日記に、差別待遇たいぐうをうけて心が痛んだ、と記すかもしれない)。うそ発見器につないでも人間の場合とは違うちが 反応であろうがともかくうそをついているときのロボットとは違うちが 正常な反応を示すだろう。切開をすれば人間の神経繊維せんいと比べれば不細工な金属線があり、それにパルス電流が流れているのが検出されよう。そして、学のあるロボットならば、それがロボットの痛覚神経なのだと言うだろう。結局のところ決め手はないのである。それは現在の科学や技術の段階では決め手はない、というのではなく未来永劫みらいえいごうないのである。痛いとかうまいということは細胞さいぼうの興奮とか神経伝導などとは全く別種のことだからである。だからそれを生理学的なあるいは工学的な検査法で検出しようというのが土台そもそも的外れなのである。(中略)
 私の知っている痛みはただ私自身が感じるものとしてのものである。それを他人に移植する、つまり他人がそれを感じると想像することは実は不可能なのではないか。実数の間の大小を複素数の間に移植したり、将棋しょうぎの王手や成りこまに移植することが不可能なように。私は他人が私の経験に似た経験をしていると想像しているつもりでも実は想像しているのはその他人になり変わった私自身なのではあるまいか。そして想像の中であっても私は終始私であってかれではない。私に想像可能なのは、かれの立場にある私の痛みであってかれの痛みではない。(中略)
 人が激痛でうずくまり冷や汗ひ あせを流している。だが正直なところ私自身は少しも痛くない。痛くもかゆくもない。だが私は心痛す
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る。しかし私はかれが痛い、ということを想像していはしない。その想像は不可能だからである。私が想像しているのはかれになり変わった私の痛みである。しかしだといって私はこの想像上の私の痛みに心痛しているのではない(想像された痛みは少しも痛くない)。そうではなく私の心痛の対象はまさにかれなのである。
 この一見まことに奇妙きみょう状況じょうきょう、この状況じょうきょうをわれわれの言葉では「かれが痛がっている」と言うのである。この状況じょうきょうの中で、かれになり変わった想像上の私が、かれ眺めなが ている私と苦しそうなかれとの間を飛びかっている。そして陽子と中性子の間を飛びかう中間子がその陽子と中性子とを固く結びつけるように、この飛びかう想像上の私が現実の私とかれとを「人間仲間」として結びつけているのである。だからこの飛びかいが失われたならば私にとってかれは「人」でなくなる。そして私の方は離人症りじんしょうと言われるだろう。
 幸い今のところ私は離人症りじんしょうではない。それは私が生まれてこのかた長年人中で暮らしてきたおかげで身についた態度なのである(おおかみ少年ならばこの態度を持たないだろう)。そしてもし私が長年ロボットと人間らしい付き合いを続けたならば、ロボットに対しても恐らくおそ  この態度をとるだろう。そのとき私にとってそのロボットは「人」なのであり、心も意識もある「人間」なのである。
 これはアニミズムと呼ばれていいし、むしろそう呼ばれるべきであろう。木石であろうと人間であろうとロボットであろうとそれら自体としては心あるものでも心なきものでもない。私がそれらといかに交わりいかに暮らすかによってそれらは心あるものにも心なきものにもなるのである。それに応じて私もまた「人間」になるのである。

(大森荘もりしょう蔵『流れとよどみ』による)
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