長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
パリとロンドンを往復したたくさんの書簡において、熊楠が書いていることの中でも、もっとも重要なのは、事という概念をめぐる彼の思考である。ここには、とても現代的な思考法を、みいだすことができる。熊楠はその考えを、まず自分の考える学問の方法論として、語り出している。
熊楠の考えでは、事は心と物がまじわるところに生まれる。たとえば、建築などというものも、事である。その場合、建築家は自分の頭の中に生まれた非物質的なプランを、土や木やセメントや鉄を使って現実化しようとするだろう。建築物そのものは物だけれども、それは心界でおこる想像や夢のような出来事を実現すべくつくりだされた。つまり、それはひとつの事として、心と物があいまじわる境界面のようなところにあらわれてくる現象にほかならないことになる。
このプロセスは、もっと精密に研究してみることもできる。建築家は設計図を描く。そして、その設計図をもとにして、建築の物質化が実行される。このときの設計図もまた、事なのである。設計図は、建築家の頭の中に浮かんだアイディアを、明確な構造をもった透視法の中に定着させるものだ。ここでは「設計図の描き方」という表現法自体が、アイディアの物質化をたすけている。だから、そこでも心と物が、出会っている。そうなると、建築という行為そのものが、幾重にも積み重ねあわされた事の連鎖として、できあがっていることがわかる。記号や表象が関係しているものは、こうして考えてみると、すべて事なのだということが、はっきりしてくる。
いまの学問にいちばん欠けているものは、この事の本質についての洞察だ、と熊楠は考えた。彼の考えでは、純粋なただ心だけのものとか、純粋にただ物だけのもの、というのは、人間の世界にとっては意味をもたず、あらゆるものが心と物のまじわりあうところに生まれる事として、現象している。しかも、心界における運動は、物界の運動をつかさどっているものとは、違う流れと原理にしたがっている。このために物界では、因果応報ということが確実におこるのに、純粋な心界でも因果応報がおこるとは限らないのだ。たとえその人の心に悪い考えがおこったとしても、その考えが物界と出会って、そこにたしかな事の痕跡をつくりだし、物界の流
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