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 新しい様式を創造するということは、美術における進歩の中核ちゅうかく的な意義である。
 美術における進歩は、科学の進歩などとはおもむきを異にしている。科学は前の成果を踏み台ふ だいとして、後のものがその先へ出るのであるが、美術においては優れた成果は必ずしも後のものの踏み台ふ だいとはならない。それぞれの傑作けっさくは、すべて特殊とくしゅな、ただ一回的なもので、そこから先へ行けない「絶頂」のような意味を持っている。たとえばギリシアの彫刻ちょうこくとかルネッサンスの絵画とかのように、同じやり方ではどうしてもそこから先へ出られないものである。同じやり方をすれば必ずエピゴーネンになってしまう。だから美術に進歩をもたらそうとすれば、先のものが見のこした新しい美を見いだし、それに新しい形づけをしなくてはならない。それが新しい様式の創造なのである。
 そういう創造のことを考えるごとに、私はいつもミケランジェロの仕事を思い出す。かれの作品が実際私にそういう印象を与えあた たのである。ギリシア彫刻ちょうこくの美しさや、その作者たちのすぐれた手腕しゅわんを、かれほど深く理解した人はないであろうが、その理解は同時に、ギリシア人と同じ見方、同じやり方では、到底とうてい先へは出られぬということの、痛切な理解であった。だからかれは意識してそれを避けさ 、他の見方、他のやり方をさがしたのである。すなわちギリシア的様式の否定のうちに活路を見いだしたのである。「形」が内的本質であり、従って「内」が残りなく「外」に顕れあらわ ているというやり方に対して、内がおくにかくれ、外はあくまでも内に対する他者であって、しかも内を表現しているというやり方、すなわちそれ自身において現われることのない「精神」の「外的表現」というやり方を取ったのである。従って作られた形象の「表面」が持っている意味は、全然変わってくる。それは内なる深いものを包んでいる表面である。そういうやり方でかれは絶頂に到達とうたつした。かれのあとから同じやり方を踏襲とうしゅうするものは、「何かを包んでいる表面」だけを作りながら、中が空っぽであるという印象を与えるあた  同じやり方でかれの先に出ることはできないのである。ロダンが「何かを包んで
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いる表面」を思い切って捨て、面を形成しているあらゆる点が内から外に向いているような新しい表面を作り出したとき、初めて近代の彫刻ちょうこくは一歩先へ出ることができた。
 そう考えてくると、新しい様式の創造には古い様式の重圧が必要だということになる。古い様式による傑作けっさくを十分に理解すればするほど、そこからの解放の要求、新しい道の探求が盛んになる。すなわちできあがった一つの様式のなかには、新しい様式を必然に生み出して行くような潜勢力せんせいりょくがこもっているのである。だからこそ過去の傑作けっさく鑑賞かんしょうや、その鑑賞かんしょうを容易ならしめる美術館は、美術の進歩に重大な意義を担うことになる。それぞれの時代、それぞれの様式において、「絶頂」を意味するような傑作けっさくが、美術館に並んでいて、いつでも見られる、という社会にあっては、言わばそういう傑作けっさく権威けんいが君臨しているのである。そういう世界で幾分いくぶんかでも独創的な仕事をするためには、右の権威けんいの重圧をはねかえして、新しい様式をつくり出さねばならぬ。美術館はそういう運動の原動力となっているといってよい。

(和つじ哲郎てつろうの文章に基づく)
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