1人間の歴史の大部分は、模写再現の技術としては、文字と絵画しかない時代だったから、人間にとって再現技術は重要なもので、広義のリアリズムが人間文化の方向を規定していた。人間の記憶という再現能力が不安定なものだからこそ正確な記憶が社会的にも高く評価されたのである。2学問や教育も記憶に基礎をおいたものになるのは自然であった。ところが、最近のようにコピー技術が急激に発達すると、なにも人間が非能率的な再現のために苦労することはないことがはっきりする。3これは近代文化の命題であるが、改めてこの命題にたちかえり、新しい人間活動を探求するのが今日の問題である。
教育というものは元来、保守的であるから、新しい時代に適応するのにいつも遅れがちになるが、まだ人間をコピー的活動から解放しようとはしていない。4相変わらず記憶中心の知識の詰め込みを行なっているが、それは、人間が記憶する唯一の機械であった時代の要求に基づいた教育そのままである。Aを教えて試験をし、答案にAそっくりそのままが再現できていれば、教えたことが理解できているとして満点になる。
5学校でこういう教育を受けると、三つ子の魂百までというが、理解とは記憶と再生のことだと思いこんでしまう。もちろんそういう理解もないではないが、それは機械的理解で、コンピュータの方が人間よりずっと能率がよい。6記憶と再現を中心とした理解は、たとえていえば食物を食べても消化しないでそのまま吐き出すようなものである。忘れたり記憶違いをすることを恐れるから、いわゆる一夜漬勉強がもっとも効果をあげる。
7これに対して、食べたものをすっかり消化してわがものとし、必要なもののみ残して、不要なものを排泄してしまうような理解は、機械にはできない作業である。教えられたことをそのままオウム返しに答えるような理解から、自己の骨肉にはするが、はっきりした形にならない深化した理解に目を転ずるべきである。
8理解という言葉で人々がまず頭に浮かべるのは、機械的正解のことであろう。そしてそういう理解が人間にしかできないと考えてきたが、それが実は迷信であったことが、近年の科学技術によって証明された。9本当に人間にしかできない深層の理解は、完全な
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