a 長文 4.2週 nnga2
 人間の歴史の大部分は、模写再現の技術としては、文字と絵画しかない時代だったから、人間にとって再現技術は重要なもので、広義のリアリズムが人間文化の方向を規定していた。人間の記憶きおくという再現能力が不安定なものだからこそ正確な記憶きおくが社会的にも高く評価されたのである。学問や教育も記憶きおく基礎きそをおいたものになるのは自然であった。ところが、最近のようにコピー技術が急激に発達すると、なにも人間が非能率的な再現のために苦労することはないことがはっきりする。これは近代文化の命題であるが、改めてこの命題にたちかえり、新しい人間活動を探求するのが今日の問題である。
 教育というものは元来、保守的であるから、新しい時代に適応するのにいつも遅れおく がちになるが、まだ人間をコピー的活動から解放しようとはしていない。相変わらず記憶きおく中心の知識の詰め込みつ こ を行なっているが、それは、人間が記憶きおくする唯一ゆいいつの機械であった時代の要求に基づいた教育そのままである。Aを教えて試験をし、答案にAそっくりそのままが再現できていれば、教えたことが理解できているとして満点になる。
 学校でこういう教育を受けると、三つ子のたましい百までというが、理解とは記憶きおくと再生のことだと思いこんでしまう。もちろんそういう理解もないではないが、それは機械的理解で、コンピュータの方が人間よりずっと能率がよい。記憶きおくと再現を中心とした理解は、たとえていえば食物を食べても消化しないでそのまま吐き出すは だ ようなものである。忘れたり記憶きおく違いちが をすることを恐れるおそ  から、いわゆる一夜漬いちやづけ勉強がもっとも効果をあげる。
 これに対して、食べたものをすっかり消化してわがものとし、必要なもののみ残して、不要なものを排泄はいせつしてしまうような理解は、機械にはできない作業である。教えられたことをそのままオウム返しに答えるような理解から、自己の骨肉にはするが、はっきりした形にならない深化した理解に目を転ずるべきである。
 理解という言葉で人々がまず頭に浮かべるう   のは、機械的正解のことであろう。そしてそういう理解が人間にしかできないと考えてきたが、それが実は迷信であったことが、近年の科学技術によって証明された。本当に人間にしかできない深層の理解は、完全な
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記憶きおく・再生を正解と呼ぶならば、多かれ少なかれ誤解となるはずである。
 しかし、長い間の慣習が人々にいだかせている誤解恐怖きょうふのために理解の本質の認識が妨げさまた られており、それが社会的混乱に輪をかける結果になっている。誤解を頭から悪いものとしないでそこに含まふく れる人間性を認めるならば、すぐれた人間的理解はすべて誤解的であるということはただちに明らかになるし、それにはコンピュータがまったく無力であることも了解りょうかいされるであろう。

外山滋比古とやましげひこ「省略の文学」より)
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