1近代日本の悲劇は、自分を育て、自分が発展させた文化と、まるでちがった歴史と伝統をもつヨーロッパ文化に支えられた文明を、是が非でもとりいれなければならぬ羽目におちこんだというところに、大きな原因があるのは、多くの人の説く通りである。2私たちは、紀元六世紀にかつて日本が圧倒的に優勢なアジア大陸の文化に接し、それを模倣することになった時、どんな大きな眩惑を覚えたか、今となってはこれを如実に心に浮かべることができない。3混乱は大きかったに相違ないし、また、そこには、彼らのかつて感じたことのない深く大きな歓喜と恐れの入りまじっていた未聞の眩惑があったろう。
ところで、日本が今も昔も先進国を模倣したといっても、十九世紀日本がヨーロッパ文化に接した場合と、この六世紀の経験とでは、そこにいくつかの違いがある。4第一に、私たちの祖先が十三世紀以上前に、大陸文化に接した時は、彼らはほとんど文化らしい文化を何ももっていなかった。日本には、文字がなかったし、鉄器もなく、第一、こちら側には国家の機構もまだ整わず、官僚も組織されてなかった。5日本人は、徹底的に無条件に、大陸文化をとり入れざるをえなかった。そうして、その影響は、『古事記』のかかれた八世紀から計算しても、十九世紀まで、十世紀以上におよんだ。
ところが十九世紀になって、ヨーロッパ文化が、日本に渡来した時には、日本はもうまったくの非文明国ではなかった。6そこには、たとえ荷風のいう本店と支店の関係はあったにしたところで、とにかく、それになりの宗教、哲学、政治、芸術の独自の体系ができあがっていた。だから、西洋文化の影響は、当然、昔の場合より、大きな抵抗にぶつかったわけだし、自分の独立を救うために黒船の前に降伏を決意した日本側の態度は、ある種の条件つきだった。7これは、たとえ、国民の一部が昔と同じ無条件降伏をすすんで希望したとしても、なお、不可避的に、そうならざるをえなかった。そのうえ、この西洋の影響は時間的にみても、まだ一世紀に
|