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 民族と国家の違いちが をはっきりとしておく必要があります。日本では、指導的な政治家で「日本は単一民族国家だから……」ということをいまだに何度でも言う人がいますけれども、これは事実に反します。他国と比べて一つの民族が占めし ている割合が圧倒的あっとうてきに大きいことは確かです。しかし、九七年の札幌さっぽろ地裁の判決は、アイヌの人々を少数民族集団として法的に認定しました。いわゆる二風谷にぶだに裁判です。それから同じ年に「アイヌ新法」と俗称ぞくしょうされる長い名前の法律「アイヌ文化の振興しんこう並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及ふきゅう及びおよ 啓発けいはつに関する法律」ができました。
 つまり立法府や裁判所は、日本が単一民族国家でないということをはっきり法的に確認しているのです。そのほか私たちの身近なところに、外国出自の日本国籍こくせき所有者の人々も――日本国籍こくせきを持っていない外国人の処遇しょぐうの問題は、また別の問題ですが――たくさんいるのです。
 近代国家をつくっているのは民族ではなくて国民なのだということを、国家と個人の関係を考える場合の大前提にしなければいけないのです。その辺の筋目があいまいなままの議論が多いのではないだろうか、と日ごろ感じています。
 その上で国家と個人それぞれにとって、最近、国境の敷居しきいが低くなってきている。プラスとマイナスの両方含めふく てです。独裁者も、国境のかべに守られて安閑あんかんとしていられなくなっています。アジアの独裁者があっという間に権力を失うという例が続きました。
 しかし、国境のかべが低くなれば、批判の自由が入ってくると同時に、他方で経済万能の力が入ってくるということにもなります。これまで、それぞれ国民国家単位でいろいろな試行錯誤しこうさくごを経てつくり上げてきた生活のための条件が大波に洗われる。雇用こようの条件、社会保障の水準、年金制度、こういうものが「経済のグローバリゼーションの中で立ち行くためには、そんなぜいたくなことは言っていられないぞ」という形で押し流さお なが れはじめます。
 そういう理由で国家というもののかげがだんだん薄くうす なってくる。
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国家のかげ薄くうす なると、お金とか宗教とか民族とかこういうナマの力が、公共社会をそれだけ強くつかまえることになります。考えてみれば近代国家は、まず宗教から国民を解放しました。次に、一九世紀以降、とりわけ二〇世紀に入ってきますと、お金の力を相対化させるために、生存権とか労働基本権とかをつくる。特に複数の民族が共存しているようなところでは、それがぶつかり合わないために、たとえば連邦れんぽう制というようなものを工夫してきました。
 宗教とかお金とか民族は、それぞれはもちろん価値のあるものです。しかし、それとしては価値のあるものだけれども、民族とか宗教とかお金とかが丸ごと公共社会を乗っ取ってしまってはいけないでしょう。
 スイスのある学者は、「国家を民族の人質にしてはならない」という言い方で、問題を鋭くするど 指摘してきしています。その傾向けいこうに対してどういう歯どめをかけるか。言うまでもないことですけれども、今世界中で悲劇のもとになっている宗教の争い、あるいは民族紛争ふんそうというのは、国家が強過ぎるからではなくて国家が弱いからです。場合によっては、国家がそういう宗教とか民族にハイジャックされ、その意のままに動かされている。
 それに対して、本来ホッブズ以来の社会契約けいやくの論理が私たちに説明してくれたような国家を復権させる。最近の論壇ろんだんでは国家は非常に評判が悪く、国家の相対化は非常に評判がいいのですけれども、今言ったような側面を踏まえふ  た議論でないとおかしなことになります。
 国家が出てくるべきところで出てこないで、本来は出るべきでないところに出しゃばる。これが前に触れふ た一九九九年の「国旗・国歌法」の立法過程で問題にされたことです。
 国民経済をグローバルスタンダードの荒波あらなみから守る場面では「国家は、もう何もしないよ。みんな自助努力でやりなさい」と言いつつ、「日の丸・君が代は、ちゃんとやらなくちゃだめだよ」という取り合わせになっています。本来はその逆でなくてはいけないのではないかということです。(以下省略)
 
 (樋口ひぐち陽一『個人と国家』)
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