a 長文 6.3週 nnga2
 人間と人間とのかかわりというものは相互そうご的な環境かんきょう関係である。A、Bふたりの人間がいるとき、AはBにとっての環境かんきょうの一部であり、BはAにとっての環境かんきょうの一部だ。人間関係というのは、人間がたがいに他人にとっての環境かんきょうである、という関係のことである。その主体と環境かんきょうとが、シンボル的交渉こうしょうをおこなうときにうまれる関係が、コミュニケイション過程というものだ。読む能力と書く能力とのあいだに落差がある、ということは、この文脈のうえでかんがえてみると、社会のぜんたいのなかのある部分は、しきりと人工的情報を発するが、すくなからぬ部分は、発信能力をほとんどもたず、もっぱら受信専門で生活している、ということを意味する。あるいは、人間相互そうごがとりむすんでいる環境かんきょう関係のなかに、大きな歪みゆが がある、ということを意味する。
 これは、ぐあいのわるいことではないか。字が読めるけれども、書けない、ということは、いわば、着信専用電話のごときもので、まさしくそのことこそ、現代のわれわれが社会的情報によって一方的にうごかされているということの象徴しょうちょうであるように思われる。
 ジョージ・オウエルは『1984年』のなかで、極端きょくたんに一方的に集中された情報管理社会のすがたをえがいた。そこでは、「偉大いだいなる兄弟(ビッグ・ブラザーズ)」という名の人格化された中央管理装置が、ひとりひとりの人間の行動を個別的にテレビ・カメラによって監視かんししている。全国民的な体操の時間に、体操をさぼっている人間を見つけると、「偉大いだいなる兄弟」は、スピーカーをつうじて叱りつけるしか    。いつも、一方的に監視かんしされている人間には、それに対抗たいこうする手段もない。ただ、諾々だくだくとして、その命令に服するだけだ。いや、そもそも、対抗たいこうという思想をこれっばかしでも心のなかに抱くいだ 人物の存在を『1984年』の世界はゆるさないのである。
 オウエルの世界は、もちろん、痛烈つうれつ風刺ふうしをふくむ空想科学小説であって、それは、とうてい、ありうる話とは思えない。その発想は、奇想天外きそうてんがいである。しかし、われわれの情報行動が、情報を
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

「うける」ことだけに終始するかぎり、『1984年』的な状況じょうきょうにちかい状況じょうきょうが、われわれのまわりに発生しないとはかぎらない。
 そして、その兆候はこの本のなかでくりかえしのべたように、現代のわれわれのあいだに、うまれかけているようにもみえる。われわれは、専門的な情報の生産者のつくるもろもろの情報、すなわちイメージだの意見だのを消費する。いや、まえにみたように、もろもろの「商品」じたいも観念化されているから、こんにちでは、商品やサーヴィスの消費じたいが、情報消費的な側面をもっている。いったい、どれだけの情報消費にわれわれがおカネと時間をついやしているか、ほとんどはかり知れないものがあるというべきであろう。
 極端きょくたんないいかたをすれば、こんにちの経済というものは、シンボルの巨大きょだい交換こうかん過程であるのかもしれぬ。いや、経済の基本になっている貨幣かへいじたいが、ひとつの社会的シンボルなのであった。
 そうしたもろもろの社会的情報をわれわれは消費しつづけて生活している。新聞や週刊誌を読む、というのも情報の消費だし、ラジオ、テレビにかじりつくのも、あきらかに情報の消費である。デザインのいい品物を買うのも、服飾ふくしょくの流行を追いかけるのも、情報の消費だ。そして、情報の消費というのは、たのしい経験であることにちがいない。われわれは、おカネを払っはら て、さまざまの経験を買っているのである。
 しかし、社会ぜんたいのなかで、ごく一部の人間だけが情報の生産と流通をにぎり、大多数の人間は、もっぱら消費専門というのがもし実態であるとするなら、われわれの世界と『1984年』の世界とのあいだにあるちがいは、むしろ、程度の差なのであって、質の差ではないようにも思える。受信専用人間のふえた社会というのは、けっして健康な社会ではないのだ。

 (加藤かとう秀俊ひでとし『情報行動』より)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534