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 人間が、他の動物においては例外なくそうであるような、完全に特殊とくしゅ化された器官や本能をそなえていないこと、自然のままの状況じょうきょうに適応することによって生存してゆくことはできないこと、このことは、人間にとっては環境かんきょう世界なるものが存しないことを意味している。動物が個々の状況じょうきょうに面していかに行動してゆくべきかを決定するのは、かれの内なる自然そのものであった。それに反して、人間が自然のなかで生存しうるためには、かれ自身が自分の行動によって状況じょうきょうを変えてゆかなければならない。言いかえれば、動物に対しては自然が、始めからそれぞれの環境かんきょう世界をあたえているのであるが、人間は自然に対してはたらきかけることによって、初めて自分の生活環境かんきょうを作り出さなければならない。この人間のはたらきによって形成されるもの、それが広い意味での文化とよばれうるならば、文化をもつことは人間にとって生物学的に必然である。そしてこの文化世界のほかに、自然のままの環境かんきょう世界なるものは人間にとって本来的に存しえない。極言すれば、人間には自然はないのである。しかも環境かんきょう世界と違っちが て、もはや人間という種に共通のものとして一定の文化世界があるわけではなく、それぞれの民族や社会集団がそれぞれ別の文化形態を作るのである。
 このように見てくると、人間においては動物の場合とは本質的に違っちが た意味での自発性ということが考えられなければならない。すなわち、環境かんきょう世界からの刺戟しげきに対する反応として、すでに自分のなかにそなわっている本能によって行動するという意味での自発性「物体の運動との対比において」ではなくて、むしろ逆に、本能的な直接性が欠如けつじょしていることにおいて成立する自発性、少し逆説的な言い方になるが、直接の動因が与えあた られていないがゆえに行われなければならぬ自発性である。これは知覚の面でも運動の面でも見られる。
 われわれの知覚世界は、たんに受動的に成立しているものではなく、われわれによって構成されたものである。動物は生存に必要な刺戟しげきしかうけないのに反して、人間はもともと刺戟しげき過剰かじょうの状態にあり、生活を順調にいとなむためにはこの不均衡ふきんこうを何らかの形で
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克服こくふくしてゆかねばならない。幼児心理学によれば、産児は最初のうちはたいていの刺戟しげきに対して不快感の反応を示す。うぶ声も苦痛感の表現にほかならないと言われている。そこでまずこの「制」の充満じゅうまんがいちおう遮蔽しゃへいされることになる。ある実験報告によれば、音の刺戟しげきに対し、二ヵ月かげつ目にはかなりの程度まで不快さなしに耐えるた  ようになり、さらに三ヵ月かげつころからは無関心でいることができるようになる。この無関心さの程度は、拒否きょひ的および志向的な「反応」との割合において、始めは増大してゆき、八ヵ月かげつころ最大になる。この段階を経たうえで、こんどはそれらの「制」を加工してゆく能力が発達し始める。それはほぼ十ヵ月かげつころから見られ、積極的に外界に向かう態度が明確になって、手でものをつかむ運動が発達してゆくのと並行している。幼児におけるこの経過はもちろん「無意識的に」おこなわれることである。しかし人間が生活の必要にとっては過剰かじょう刺戟しげきに対し、それを自分のはたらきによって処理し秩序ちつじょづけ加工して、みずからの知覚世界を構成してゆく、その最初の段階がここに見られるのである。そのはたらきのより進んだ段階における重要な道具が言語にほかならない。われわれは知覚されるさまざまのものに対して言語その他の記号をもっておきかえ、その記号にともなう表象とその意味の理解によって対象世界を体系化してゆく。これがわれわれの認識活動である。

(山本信『形而上学けいじじょうがくの可能性』より)
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