「くるまざ」という言葉は、室町時代のころにはすでに日本語の中に定着していたらしい。一六〇三年(慶長八)に日本イエズス会が長崎で刊行した有名な『日葡辞書』にはCurumazaniという語が採られていて、例文としてCurumazani nauoru(車座に直る)があり、「皆の人々が円形に座につく」という説明がついている。
何の具体的な根拠もないことだが、私はこの「車座」という語が、いずれにしても乱世の時代になってから人々に愛用されるようになったのではないかと想像している。「車座に直る」のは女たちではあるまい。合戦を前にした武士団、自分たちの権益を犯されそうになって対策を練るためひそかに集まった豪商たち、権力者に無理難題をふっかけられて鳩首協議するために集合した村の代表者たち、そういう男どもの緊張した顔が、この言葉の背後から立ちのぼってくるように思えてならない。
しかしこの形のつどいは、いったん緊急事態が解決されれば、たちまち一転して、酒宴と歌舞放吟の場になるだろう。女たちもその時は車座に花を添え、その主人公にさえなるだろう。やがて天下太平の世ともなれば、もっぱら後者の車座が全盛となる。
いずれにしても、全員が内側を向くという形の座のとり方は、集団の心構えを統一し、同心の者としての結束と忠誠を誓い合い、敵対する者たちに対する排他的情熱を高める上では、最も効果的な陣形だった。高校野球でもバレーボールでも、危機に臨んだ監督たちは皆これを応用する。何しろ車座に座るというのは、互いに顔と顔を向け合い、相手の一挙手一投足まで直接見つめていられる唯一の座り方なのである。祝いの席であるなら、一同心を同じくする快い興奮、盃を交わし合う歓びに、おのずと歌も踊りも出てくるのは当然だった。
(中略)
私は財政とか経済とかの方面についてまったく暗い人間なので、まことに単純なことしか言えないが、アメリカと日本の間で極度に
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