1ベルクソンの記憶論に戻っていえば、彼は、こう言っている。記憶には二つの種類のものがある。一つは身体運動の反復によって得られる「習慣的記憶」であり、この場合には経験は表象されない。もう一つは、自発的な「純粋記憶」であり、この場合には、精神が過去を表象として想起する。2このように習慣的記憶と純粋記憶とを分類した場合に、後者を機器に委ねることは不可能であろう。想起的な純粋記憶は、思い出されるのは個々の事物であっても、イメージ的全体としての世界にかかわっているからである。
3基本的にベルクソンのこの想起的記憶の考え方にのっとりつつ、思い出の持つ意味をいっそう鮮やかに示しているものに、小林秀雄の次のことばがある。「思ひ出が、僕等を一種の動物である事から救ふのだ。記憶するだけではいけないのだらう。4思ひ出さなくてはいけないのだらう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしてゐるので、心を虚しくして思ひ出す事ができないからではあるまいか。/上手に思ひ出す事は非常に難しい。」(「無常といふ事」)
5ここには、思い出が精神的な純粋記憶として、動物的・機械的な記憶と対比されて鋭くとらえられている。ベルクソンの純粋記憶もそうなのだが、これらの場合、想起的記憶だけが精神の記憶とされ、そこから身体的なものはまったく排除されている。6が、想起的記憶はまったく身体から切り離せるものであろうか。いうまでもなく、人間は心身の高次の統合体であり、いまや人間において、精神とは、活動する身体のことだと見なされている。そして、記憶が担うイメージ的な表象は、つまりは、身体的なものを基盤とした感性的なものだからである。
7記憶の働きは近代の知から排除されたが、それには、それなりの理由があった。それまでの歴史の拘束や重圧から逃れ、共同体から個人が独立するためには、どうしても過去との繋がりを断ち切る
|