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 大昔、この列島は豊かな原生林に覆わおお れていた。祖先たちはそうした森のなかに住み、神々といっしょに生活していた。やがて農業をはじめると人びとは森を離れはな 、開かれた耕地で太陽の光を身体いっぱいに浴びながら、一日をすごすことがだんだん多くなった。原生林のなかで獲物えものを追う生活をやめれば、住居も森から出て耕地の近くにつくられるようになる。人間が出たあと、神さまだけが森のなかに残った。これが神の住む神奈備かんなびの森のはじまりである。しかし、この変化は、けっして一朝一夕に生じたのではない。森のなかでの狩人かりゅうどたち、とくに日本のような海洋性気候の、暖地性照葉樹林帯のなかでけものを追ってきた人たちの皮膚ひふ感覚は、一日中、耕地で陽光を浴びてすごす農業人とは根本の体質が違っちが ていたはずである。日陰ひかげ湿気しっけのほうにより安心感を抱くいだ ような背日性を、農業人の向日性とは対照的な形で備えていたと考えられる。
 祖先たちは原始林のうす暗く、たえず湿気しっけを帯びた樹木のかげから離れはな 、明るく乾燥かんそうし、開かれた場所でひとり立ちするには、よほどの決心を必要としただろう。もちろん、その農業も、水稲すいとう耕作に依拠いきょする以上は湿気しっけ無縁むえんではありえない。しかし、水田や畦道あぜみち泥濘でいねいと、原生森のなかの陽光から遮断しゃだんされた全身をつつむ湿気しっけとは、本質的に異なっている。祖先たちの身体には水田で働くようになったのちも、森のなかに生きていたときの皮膚ひふ感覚は久しいあいだ残留したろう。森からの自立は、母の胎内たいないからの自立過程に似て、意識、無意識のうちにさまざまの退行心理が発現するのは、まことにやむをえないことであったと考えられる。
 農家の土間の台所や、ナンド、ヘヤとよばれる寝室しんしつには、すでにのべたように多くの素朴そぼくな神さまたちが住みついて、人びとといっしょに生活し、文字通り起居をともにしてきた。そのありようは、おそらく原始時代に原生森のなかで営まれた祖先たちの住居のなかに起源をもっている。とすると、そうした住居をとり囲む木立のなかに住んでいた神々も、そのまま人びとの生活を守り、住居を守って外敵を防いでくれる神々として、住居の周辺にいつまでも
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いてくれるように願われたろう。森のなかに村があるような形のものはもちろんのこと、耕地に囲まれた広くて明るい場所に家を建てるようになってからでも、周囲に家を保護してくれる屋敷やしき林をもち、それに精神的な防壁ぼうへきの意味までもたせてきたのは、森のなかで神さまといっしょに住んでいた時代の、最後のへソの(であるように思われる。土塀どべい生垣いけがきに囲まれるだけで、外界にむけて自己を完全に開放しているような家でさえ、しばしば屋敷やしき廻りまわ の大木の根もとに屋敷やしき神の小祠しょうしをもっている。これのもとづく起源も、おそらく古いものがあるといえよう。
 ともあれ、明治以後、西洋風をまねてふとんに白いシーツを掛けるか  ことは、寝室しんしつ内部にまで日光と外気をもち込もこ うとする大変革の象徴しょうちょうであった。うす暗く、外気を通すことの少ない寝室しんしつの、シーツもかけないあかじみた万年床まんねんどこ、その木綿ぶとん特有の湿気しっけをおびたはだざわりは、大多数の日本人が久しく馴染んなじ できた住居における私的な生活感覚の、中心部を占めし てきた。ふとんを日に干すのが近代的家政の象徴しょうちょうであることを裏返したら、こういうことになるだろう。それは木綿ぶとんの普及ふきゅうする以前の、帳台構えなどとよばれるナンドの部屋での、ワラにもぐってた感覚の残存であり、それであるから、万年床まんねんどこがあたりまえとされてきた。だが、そのような感覚は、これをさらに煎じつめるせん    と、大昔、この列島に特有の濃密のうみつな照葉樹の原生森のなかで有形無形の外敵におびえ、神々といっしょにつねに湿気しっけをふくんだ薄暗いうすぐら 木陰こかげに身をひそめていた時代の、もっとも根源的な生活感覚にまで遡るさかのぼ ように思われる。屋敷やしきをめぐる屋敷やしき林、さらには森のなかにある村といってよいほどの木立に包まれた集落のたたずまいは、その傍証ぼうしょうといえるだろう。

(高取正男「生活学」 同志社大)
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