1すでにみたように、人間関係とは結局のところ二人の人間のあいだでの問題であるというよりは、むしろ、ひとりの人間の内部での「こちら側の自分」と「もうひとりの自分」との問題であった。2このふたつが、相互に刺激をあたえながら、つねにあたらしい自我をつくってゆく過程、それが人間関係のまさしく人間関係たるゆえんであった。3ピストン運動の錆びつきは、そう考えてくると、人間関係をむつかしくする最大の障害であるといってさしつかえない。極端な頑固、そしてその対極にある極端な浮遊型人間、それはともに厳密な意味での自我喪失というべきなのだろう。
4錆びつきが発生する、ということは、それぞれの人間にとって不幸なことだ。どちらの極に片よるにせよ、「ふたつの自分」のうちのひとつに心が膠着してしまったが最後、その人間の心は進歩することがないのである。5ひとりの人間の心の進歩というものは、結局のところ「ふたつの自分」のあいだの活発な会話からうまれる。その会話によって、自我がかわるからこそ、人間関係は人間にとって大事なのだ。
6自我のこの変化は、別の角度からみれば折衷のプロセスであるとも考えられる。そこにあるのは「こちら側の自分」と「もうひとりの自分」のうちのどちらをとり、どちらを捨てるかという二者択一なのではなく、「ふたつの自分」の歩みよりによる、折衷の立場の建設なのである。
7他人、あるいは自分のなかにとりこまれた他人としての「もうひとりの自分」と接触することで、「こちら側の自分」はすこしずつかわる。また同時に「もうひとりの自分」もかわる。かわったものが互いに接近しあって統合される。8それは折衷という以外のなにものでもない。折衷の積みかさねによって、人間はかわりつづける。人間関係というものは、その理想的なすがたからいえば、ひとりひとりの人間をかえるための方法、というべきなのである。
9人間関係を考えるにあたって、いちばん大事なのは、たぶんこの点だ。たしかに人間関係というのは、ふたり以上の人間がお互いに理解し、協力しあってゆくための方法であり、また技術でもある。0だが、人間の側からみるときには、人間関係はあくまでも個人の成長のための跳躍台だ。人間関係というネットによってより充実した存在になってゆくのである。
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