日本人は記録魔だ、と言う人がある。何でも、やたらにメモをとる、記録しておく。何のためということはない。おもしろそうなことも、おもしろくなさそうなことも、無差別に記録してしまう。事実がそこにあるからであろう。こういう記録魔的なところが、かえって日本に歴史らしい歴史の発達をおくらせることになった。歴史には史観という倫理が必要で、がらくたの骨董屋のような人間は歴史家になることができない。
思想の「体系」もない。しっかり固定した視点もない。ただ見聞を黙々と記録する。そして、記録するかたっぱしから、忘れ去られるのにまかせている。記録を史観で貫いて不朽のものにしようなどとは考えない。しかし、このことが案外、創造のためにはプラスになるのである。むやみと記録し、たちまち忘却のなかへ棄てさる。記録にとらわれない。去るものは追わずに忘れてしまう。そういう人間の頭はいつも白紙のように、きれいで、こだわりがない。
日本人は無常という仏教観が好きだが、頭の中にも、無常の風が吹いていて、しっかりした体系の構築を妨げている。しかし、へたに建物が立っていない空地だから、新しいものを建てるのに便利である、とも言えるのである。
日本語はどうも、俳句や短篇や珠玉のような随筆に見られる点的思考に適している。逆に、大思想を支えるような線的思考の持久力には欠けている。しかし、持続力はときによくない先入主となって、精神の自由な躍動をじゃますることがないとは言えない。「ひらめき」をもつのには、日本語はなかなか好都合なのである。
このごろ、やたらに、対話だとかコミュニケイションだとかが騒がれているが、元来、日本人は多言、雄弁をきらい、沈黙の言語を深いものと感じるセンスをもっている。巧言令色スクナシ仁。そして、問答無用。
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