1オイル・ショックが生じた時、これで日本もおしまいだと思った人たちは、日本の内外を問わず、沢山いたと思います。2石油資源をすべて外国に依存している日本は、もっともひどく打撃を受ける国であり、日本商品は割高になり、輸出は激減し、国際収支は大赤字になって、失業者は巷にみちあふれる。多くの人たちはこういう事態を予想したでしょう。
3私自身も、あの一九四五年八月十五日の真夜中に、桜島の南の垂水海軍航空隊の野天風呂(風呂の建物は、爆撃ですっ飛んでいたので、見事な野天風呂になってしまっていた)にはいっていた時のことを、おもわず思い出しました。4私はちょうどその前日に、佐世保の針屋海兵団から転勤して来たばかりで、隊の事情には暗かったので、従兵に風呂はどこかと聞きますと、案内してくれて、「背中を流しましょう」といいます。5「戦争がすんだのだから、もう他人の背中など洗うな」といったのですが、「分隊士が最後です」というので、お世話になりました。垂水航空隊というのは、鹿児島湾の海辺にあって、片方は山、片方は海の約三、四〇〇メートルの狭い平地に、細長く作られていました。6海風が吹いて気持ちよく、月が丸くて、こうこうと照っていたのを覚えています。
待ち望んでいましたが、全く思いがけずやって来た平和に、私たちはどうしたらよいかわかりませんでした。7すべて静かで、夜おそく風呂を使う水音と、波の音と、私たちの時々の会話の他は、全く何の音もありませんでした。8しかし、それから数日たって、第五航空艦隊司令長官の宇垣中将が、彗星(海軍の爆撃機)に乗って、沖縄上空に、特攻隊員のあとを追って自爆したことが判明しますと、四国九州方面の海軍部隊は、指揮官を失って壊滅し、算をみだして兵隊も、士官も、めいめい勝手に復員してしまったのです。9復員といえば人聞きはよいですが、実際には逃亡以外の何物でもなかったのです。私もその一人でした。そして、それが戦後のはじまりだったのです。0
それから、終戦直後の流行歌「リンゴの唄」があって、プロ野球の大下や川上の青バット、赤バットが現れて、歌手の笠置シヅ子の
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