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 伝統の根をもたぬものは遊離ゆうりした存在である。しかし、伝統を越えこ ぬものは真に新しい存在とはならない。新しい存在によって伝統が受けつがれない時伝統は腐朽ふきゅうする。新しい存在が新しい伝統をつくる。伝統を真に伝統たらしめるものは、伝統を越えこ た新しい存在である。この一般いっぱん的な方式に今日のわれわれの問題もある。われわれの民族性とは伝統の中に顕現けんげんするものだからである。
 明治以来の輸入文化は伝統の根をもっていない。それはあらゆる方面に新しい世界を開いたけれど、その新しい世界はどこか宙に浮いう た、でなければどこかに空虚くうきょを宿したものであった。しかしそこに民族の可能性が引き出されたのである。民衆の生活の自然の発展によるよりも外部の力に反応した上からの誘導ゆうどうによってそうなったところに二重の遊離ゆうり性が見られるにしても、とにかくそうなったことは可能性の新しい展開であった。それをうしろにひき戻すもど ことはできない。うしろに引き戻すひ もど ことはいかなる破壊はかいよりも悪い破壊はかいである。ただしかし宙に浮いう ているものを地につけ空虚くうきょ埋めるう  ことはできる。
 試みに建築の世界を考えて見よう。
 建築は生活と実用との中に常にかたく組みこまれている。そして鉄筋コンクリート建築が近代の生活と実用とに最も適合したものとせられている。構成が容易で耐久たいきゅう力が強い。材料が比較的ひかくてき安価である。――しかし日本の湿気しっけにはこの材料は必ずしも適しない。日本ではまだ独立の小家屋が都市においても一般いっぱん的な家屋単位となっているし、従ってそれには古来の木造建築が最も手軽で便利である。それにこの古来の建築法は日本の風土にたしかに適合している。しかしいっぽう公共建造物に今日こういう木造建築物を建てないところをみるとそれは今日のわれわれのある生活面に対して明らかに適合しないことが解る。そこで歌舞伎座かぶきざの建築のようにその建物の性質上木造の様式を保存したいところでは、コンクリートをもって木造の様式だけをまねる。これがいかに不自然な醜いみにく ものになっているかは眼のある人は見ていよう。コンクリートの壁面へきめんは木材の支える力としての弾性だんせいをもっていない。それがたとえば円柱の表面の張りのある美しさとなっているのであるが、疑似円柱に
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はその美しさは全く見られない。これは典型的な例であるが、新しい材料を用いて古い日本の様式を採り入れようとしたものは多くこの種の不自然とみにくさとをもっている。今日見られる建築の「日本的」方向とはこういう一種の折衷せっちゅう主義である。ここでわれわれが注意しなければならないのは、こういう建物においても実質的にはまったく新しい材料を使っているということである。従って新しい材料をもってする新しい建築に必要なあらゆる技術がここでは自明なこととして予想せられている。そしてその技術はまた新しい科学の基礎きその上に立っている。建物において「日本的」なものを主張する人でも、決して木造建築を大公共建造物において主張しはしないし、隅田川すみだがわに昔風の木橋を架けよか  うとはしないのである。その意味で過去へ帰ろうとはしないし、また帰ることはできない。新しい科学と技術との勝利がここにある。古い大工に新しい建築家が代っているのである。この事実をわれわれは窮極きゅうきょくにおいて認めなければならないであろう。
 われわれはしかしもう一つの和洋折衷わようせっちゅう態を知っている。今もなお郊外こうがいにおびただしく見られる小住宅の形式で、普通ふつうの日本家にひと間かふた間の「洋館」をくっつけたものである。その「洋館」はおおむね赤い屋根や青い屋根をもっている。それは何の調和をも考えずにとってくっつけたまでのものである。ほとんどすべての場合そのみにくさは言語に絶する。
 私は田舎の町にいた子供のころを思い出す。そこに一軒いっけんのペンキ塗りぬ の「洋館」が建った時、その建物をどんなに立派な建物だと考えたかを思い出す。今見ればそれはいかにも安っぽいちゃちな建物である。しかしそのころはそれが西洋風の外観をもっているということだけで立派に見えたのだ。こういう感じを子供にいだかせる理由は当時の状況じょうきょうからすればもちろん自然であった。われわれはあらゆるものを西洋から受け入れ学んできたからである。しかし同時に今日大人の眼をもってわれわれがそれを安っぽいちゃちな建物とすることも正しい。それは在来の固有の日本の家屋のいかなるものより安っぽくてちゃちである。しかし郊外こうがいの住宅においては、そういう「洋館」がその住宅全体に勿体もったいをつける必須ひっす条件になっている。そこに何か新しい文化が象徴しょうちょうせられているように考えられるのである。(津田塾大つだじゅくだい
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