1伝統の根をもたぬものは遊離した存在である。しかし、伝統を越えぬものは真に新しい存在とはならない。新しい存在によって伝統が受けつがれない時伝統は腐朽する。2新しい存在が新しい伝統をつくる。伝統を真に伝統たらしめるものは、伝統を越えた新しい存在である。この一般的な方式に今日のわれわれの問題もある。われわれの民族性とは伝統の中に顕現するものだからである。
3明治以来の輸入文化は伝統の根をもっていない。それはあらゆる方面に新しい世界を開いたけれど、その新しい世界はどこか宙に浮いた、でなければどこかに空虚を宿したものであった。しかしそこに民族の可能性が引き出されたのである。4民衆の生活の自然の発展によるよりも外部の力に反応した上からの誘導によってそうなったところに二重の遊離性が見られるにしても、とにかくそうなったことは可能性の新しい展開であった。それをうしろにひき戻すことはできない。5うしろに引き戻すことはいかなる破壊よりも悪い破壊である。ただしかし宙に浮いているものを地につけ空虚を埋めることはできる。
試みに建築の世界を考えて見よう。
建築は生活と実用との中に常にかたく組みこまれている。6そして鉄筋コンクリート建築が近代の生活と実用とに最も適合したものとせられている。構成が容易で耐久力が強い。材料が比較的安価である。――しかし日本の湿気にはこの材料は必ずしも適しない。7日本ではまだ独立の小家屋が都市においても一般的な家屋単位となっているし、従ってそれには古来の木造建築が最も手軽で便利である。それにこの古来の建築法は日本の風土にたしかに適合している。8しかしいっぽう公共建造物に今日こういう木造建築物を建てないところをみるとそれは今日のわれわれのある生活面に対して明らかに適合しないことが解る。9そこで歌舞伎座の建築のようにその建物の性質上木造の様式を保存したいところでは、コンクリートをもって木造の様式だけをまねる。これがいかに不自然な醜いものになっているかは眼のある人は見ていよう。0コンクリートの壁面は木材の支える力としての弾性をもっていない。それがたとえば円柱の表面の張りのある美しさとなっているのであるが、疑似円柱に
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