1芸術スポーツといっても、何のことか分からない人のほうが多いに違いない。体操、新体操、シンクロナイズド・スイミング、フィギュア・スケートなど、美しさを競うスポーツの総称である。2耳慣れないのは当然で、二十世紀も九〇年代になってようやく用いられるようになってきた言葉なのだ。だが、この芸術スポーツにこそ、オリンピックの、いやスポーツの未来がかかっていると、私には思われる。3この呼称が登場したということ自体、人間の身体に関する考え方の大きな変化を象徴しているといっていいからである。
むろん、ほんとうは美しくないスポーツなど存在しない。全力で戦っている人間はみな美しい。4野球選手もサッカー選手もテニス選手も、みな美しい。少なくとも、美しさに輝く一瞬を持っている。とすれば何をいまさら芸術スポーツかといわれそうだが、この言葉は、その美しく見える一瞬こそがスポーツのもっとも大切な要素ではないかと問いかけているのだ。5学問的な定義において、スポーツはすべて芸術ではないかと密かに問いかけているのである。その問いかけがいま、きわめて重要になりつつあると私には思われる。
6というのも、スポーツ、さらに総合的な言葉でいえば体育は、必ずしも美しさを追求するものではなかったからである。近代体育はまず何よりも軍事教練として始まった。7ヨーロッパの後を追うように近代化に励んだ日本においてはさらに著しいが、それはまず国民の体力の向上を目指すものだったのである。8その最大の視覚化が軍隊だが、軍隊の予備軍としての学校、それを補完するものとしての工場においても、体育はもっとも重要なものと見なされていた。
9身体の近代化を推し進めたのはじつは愛国主義であり軍国主義だったということになるが、しかしその背後にはさらに重要な動機が隠されていた。生産第一主義である。いかに効率よく生産力を上げるかということこそ、近代体育の、また近代スポーツの隠された主題だった。0二十世紀の過半を占めるのは米ソの冷戦だが、社会体制の違うこの両陣営が争っていたのは軍事力では必ずしもなかった。むしろ生産力だったのである。オリンピックは長いあいだ冷戦を反映したが、その間の最大の話題が記録の更新とメダルの数にほ
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