最近のローティーン以下の子供たちは、あれほど教師が「個性」「自立」「自立性」を金科玉条のように主張しているにもかかわらず、目立つことを嫌う傾向が強いそうである。彼らの間では、「他人に配慮ができる」気配り型が人気で、「場の空気が読めない」外し型が不人気だそうである。事実、うちの小学生の娘を見ていても、目立たないことの重要性を学習していると感じている。
「けっこうです」という言葉は頭が痛い。高文脈言語である日本語を象徴する言葉である。文脈を理解していないと、「イエス」か「ノー」かわからないのである。日本人でも文脈が微妙で、どちらかわからないことさえある。最近の若者の間で、この「けっこうです」に代わる言葉のひとつに、「ビミョー」があろう。明確な判断を避けているとの批判もあるが、若者たちの間では、共有している文脈のなかで、最近はとくに否定的な意見や感想をできるだけ述べたくないので、推し量れという高文脈言葉として使われている。まさに微妙なのである。
(中略)
これを巨視的にはどう捉えるべきか。戦後の一億総中流という平等幻想の上に築かれた企業という名の大きな帰属集団が、いままさに崩壊せんとしており、日本的小規模帰属集団への先祖返りが若者によってなされようとしている、と受けとれないこともない。この意味においても、日本企業は若年層の企業への忠誠心(この場合は英語のコミットメントという語がふさわしい)を、どのように確保するのかという大きな問題を抱えているといえる。このまま企業が、若者たちの企業へのコミットメントを喪失すれば、日本企業の企業力、ひいては日本の国力は衰退していくことだろう。
したがって、若者の行動の変化が個人主義への移行につながるという議論は、明らかに論理が飛躍している。利己主義化(わがまま化)していることを個人主義化の根拠としているのかもしれないが、集団主義を否定すれば個人主義になるというような単純な二項対立的な問題ではない。日本と西欧の自我/自己構造の違いを考え
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