a 長文 7.1週 nngi2
 1食べる。寝る(ね )。愛する。排泄(はいせつ)する。そのつど、ただこの身体から湧き(わ )だし、自らを駆り立てる(か た  )生命の営みを、わざわざ欲望と名付け、「私」という主語を与え(あた )ているのは人間だけである。しかも、所有や支配の欲望になると、とたんに話は複雑になる。
 2持ち家がほしい。名声がほしい。力がほしい。そういう「私」は、はたしてどこまで「私」であるか。たとえば寸暇(すんか)を惜しん(お  )で株に熱中する「私」を、「私」はどこまで「私」だと知っているか。3人間の欲望について考えるとき、まずはそう問わなければならないような世界に私たちは生きている。
 たとえばある欲望をもったとき、私たちはそれをかなえようとする。4その段階で、私たちはなにがしかの手段に訴え(うった )ねばならず、そのために対外的な意味や目的への、欲望の読み替え(よ か )が行われる。健康のため。家族のため。生活の必要のため、などなど。5こうした読み替え(よ か )は、すなわち欲望の外部化であり、欲望は、この高度な消費社会では「私」から離れ(はな )て、つくられるものになってゆく。
 6そこでは名声や幸福といった抽象(ちゅうしょう)的な欲望さえ、目と耳に訴える(うった  )情報に外部化され、置換(ちかん)されるのが普遍(ふへん)的な光景である。たとえば、家がほしい「私」は、ぴかぴかの空間や家族の笑顔の映像に置換(ちかん)された新築マンションの広告に見入る。7そこにいるのはうつくしい映像情報に見入る「私」であり、家族の笑顔を脳に定着させる「私」であって、たんに家がほしい漠(ばく)とした「私」はずっと後ろに退いている。8代わりに、家族の笑顔を見たい「私」が前面に現れ、それは映像のなかの新築マンションと結びついて、欲望は具体的なかたちになるわけである。
 けれども、こうしてかたちになった欲望は、ほんとうに「私」の欲望か。9「私」はたしかに家がほしかったのだけれども、その欲望は正しくこういうかたちをしていたのか。仮に、たしかに家族の笑顔を見たいがために家がほしかったのだとしても、家という欲望と、家族の笑顔という欲望は本来別ものであり、これを一つにしたのは「私」ではない、広告である。
 0このように、消費者と名付けられたときから「私」は誰(だれ)かがつくりだした欲望のサイクルに取り込ま(と こ )れている。そこでは「私」は
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覆い(おお )隠さ(かく )れ、ただ大量の情報に目と耳を奪わ(うば )れて思考を停止した、「私」ではない何者かが闊歩(かっぽ)している。
 こうして、欲望から「私」が消え、おおよそ政治の権力闘争(とうそう)から一般(いっぱん)の消費生活まで、欲望のための欲望と化して、現代社会はある。欲望は「私」の外部で回転し、「私」を駆り立てる(か た  )。そこに明確な主体はおらず、従って欲望を止めるものはいない。個々の欲望の当否は、ほとんど損得に置き換え(お か )られ、損得もまた外部化されて新たな欲望になるだけである。
 ところで有限の世界では、欲望のサイクルも有限になるはずだが、実際にはあたかも無限であるかのように回転し続け、そこここで、さまざまな悲喜劇を引き起こす。欲望は必ずしもかなえられないばかりか、ときには実質的な損害になって返ってくる。そのとき、これがサイクルであるがために悪者はすっきり定まらず、定まらないがために悪者探しは逆に苛烈(かれつ)になる。
 「私」の欲望であれば、失意も損失も「私」が引き受けることで収まりがつくが、「私」の消えた現代の欲望は、始まりも終わりもない。破綻(はたん)したら破綻(はたん)したで、ともかく悪者を探して社会的な辻褄(つじつま)を合わせるだけである。一方、消費者という名の「私」はどこまでも無垢(むく)に留まるのだが、「私」が無垢(むく)でないことは、「私」が知っている。

(高村薫(かおる)「新・欲望論」二による)
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a 長文 7.2週 nngi2
 1現代の日本で、翻訳(ほんやく)者の社会的な地位が低い理由のひとつは「独創性」が重視されていることにある。独創性がある仕事は価値が高く、独創性がない仕事は価値が低いとされている。2翻訳(ほんやく)は、実態はともかく、世間の認識では独創性がない仕事だとされている。物書きの世界で、一流の翻訳(ほんやく)よりも三流の執筆(しっぴつ)の方が尊敬されるのも、このためだ。
 3考えてみれば、これは不思議な話だ。翻訳(ほんやく)はたとえば、演奏に似ているともいえるし、演劇に似ているともいえる。音楽なら、作曲家が五線譜(ごせんふ)に書いた「原作」を、演奏家や歌手が音に「翻訳(ほんやく)」して聴衆(ちょうしゅう)に届ける。4演劇なら、脚本(きゃくほん)家が脚本(きゃくほん)として書いた「原作」を、役者が演技の形で「翻訳(ほんやく)」して観客に届ける。原著者が外国語で書いた「原作」を、日本語に「翻訳(ほんやく)」して読者に届ける翻訳(ほんやく)と、どこが違う(ちが )のかと思いたくなる。5流行歌の世界なら、誰(だれ)がうたったのかは誰(だれ)も知っている曲でも、誰(だれ)が作曲したのかは知られていないことが少なくない。脚本(きゃくほん)家はどちらかといえば裏方で、俳優の方が脚光(きゃっこう)を浴びる。6これに対して翻訳(ほんやく)では、原著者には独創性があるが、翻訳(ほんやく)者には独創性がないとされる。
 もちろん、翻訳(ほんやく)とは解釈(かいしゃく)であり、解釈(かいしゃく)である以上、おなじ原作を十人が訳せば十通りの訳ができる。7だから、演奏家や歌手が独創的でありうるように、翻訳(ほんやく)者は独創的でありうる。この点には、翻訳(ほんやく)者の立場からは疑問の余地はない。しかし、独創性を崇める(あが  )風潮は一種の病気のようなものだ。8翻訳(ほんやく)を職業とする者がこの風潮にひれ伏す(  ふ )理由はない。また、独創性を競ったところで、原著と比較(ひかく)されれば翻訳(ほんやく)にはどうみても勝ち目はない。翻訳(ほんやく)にも独創的な面がないわけではないことを認めさせても、意味があるとは思えない。
 9独創性がもてはやされる世の中で軽視されがちな翻訳(ほんやく)を職業とする者は、独創性とは何なのか、じっくりと考えておかなければならない。一般(いっぱん)には、独創性とは、「他人の真似をするのではなく、
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自分ひとりの考えで何かを作りだす能力」だとされている。ほんとうにそうなのだろうか。
 0少し考えてみればわかることだが、他人を模倣(もほう)するのではなく、自分ひとりで他人とは違う(ちが )考えを編み出せたと思ったとき、それがほんとうに独創的であるケースはめったにない。他人の真似をするつもりはなくても、他人がすでに考えてきたのと同じ考えにたどりついただけになるのが通常であり、この場合は、独創的だとはいえない。無知だっただけだ。これまでだれも考えていなかったことだとしても、あまりに幼稚(ようち)な考えだからかもしれないし、あまりに突拍子(とっぴょうし)もない誤りだからかもしれないし、あまりに現実を無視しているからかもしれない。他人とは違う(ちが )考えだとしても、それがほんとうの意味で独創的である場合はきわめて少ないはずだ。
 では、どういう条件があれば独創性があるといえるのだろうか。おそらくは、人類が蓄積(ちくせき)してきたものを十分に吸収したうえで、新しい考え方を生み出すことが、ひとつの条件だろう。つまり、独創性とは学習と継承(けいしょう)を前提としたものであり、学習と継承(けいしょう)がなければ独創性はないといえるのではないだろうか。(中略)
 歴史上に残る発見や発明をみていくと、ほぼおなじ時期にそれぞれ独自に、おなじことを考えた人が他にもいたケースがきわめて多い。何人かがほぼ同時におなじことを発見・発明し、そのなかでとくに厚かましかった人の名前だけが歴史に残っているケースすら少なくないのだ。発見や発明が継承(けいしょう)を基礎(きそ)にしたものだと考えれば、なぜこのようなケースが多いのかも、すぐに理解できる。独創性だけをもてはやすのがいかに危ういかも、理解できるはずである。学習と継承(けいしょう)がなければ、独創性も生まれない。
 こう考えたとき、独創性に対する翻訳(ほんやく)者の立場ははっきりする。翻訳(ほんやく)という仕事にも独創性があると主張する必要はないし、独創性を誇る(ほこ )人たちに引け目を感じる必要もない。翻訳(ほんやく)とはあらゆる独創性の基礎(きそ)になり、それどころか、社会や文化や技術や経済など、人間のあらゆる活動の基礎(きそ)になる学習と継承(けいしょう)を担っているのである。

(山岡(やまおか)洋一『翻訳(ほんやく)とは何か』)
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a 長文 7.3週 nngi2
 1科学は自然の対象を観測し、そこに存在する構造や機能の法則性を明らかにする。ある対象領域に成り立つ法則を発見した、法則を確立したというのは、どのようにして保証するのだろうか。
 2ボールを投げると放物線をえがき、ある一定の距離(きょり)に落ちる。ある物質と物質を混ぜてある一定の温度に保つと、反応してある物質ができる。3こういった多くの実験から、そこにある種の規則性を認識し、そこから法則を確立していくわけであるが、その法則は実験によって確かめるというプロセスを絶対的に必要とする。しかも、誰(だれ)がやっても同じ結果が得られるということでなければならない。
 4このように、科学は、自然のなかに存在する対象を分析(ぶんせき)し、そこから法則を抽出(ちゅうしゅつ)し、対象を分析(ぶんせき)的に理解するというところに中心があった。5こうして法則が確立されると、つぎの段階として、これらの法則の新しい組み合わせを試みることによって、それまで世界に存在しなかった新しいものをつくりだせる可能性があることに人々は気づいたわけである。
 6法則を組み合わせて、実験をしてみて、もとの対象が復元できることを確かめるところまでは、科学の領域であろうが、法則をいろいろと新しく組み合わせて何か新しいものをつくっていくというつぎのステップは、シンセシス、あるいは合成・創造の立場であり、それが現代における技術であるということができる。7つまり、現代技術は科学の法則を意識的にあらゆる組み合わせで使ってみて、何か新しいものをつくりだしていこうとする明確な意図をもったものとなっていて、これが従来の技術とは明確に異なっているところである。
 8このように分析(ぶんせき)と合成とは対概念(がいねん)となり、したがって、科学と技術も対概念(がいねん)であり、コインの裏表の関係であると理解される。そこで、これら全体は科学技術という一つの概念(がいねん)、一つの言葉としてとらえることができるだろう。
 9科学と技術とはまったく異なる概念(がいねん)で、科学技術という表現は適当でないという考え方をする人もいる。しかし、現代科学は高度の技術なしにはありえず、その技術も科学によって支えられている。0今日では、科学者自身がシンセシスの領域に本格的にのりだしてくる一方で、技術者のほうも、技術を押し(お )すすめるために本格的な科学的基礎(きそ)研究をおこなっている。
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 こうして、科学と技術の境界は判然としなくなってきているうえに、何か新しい発見があると、これがただちに技術の世界に使われて新しい発明につながり、これがまた基礎(きそ)研究にフィードバックされるという、ひじょうに速いサイクルをえがく時代になっている。そういった状況(じょうきょう)からも、これら全体を科学技術と呼ぶのが適当であるというわけである。
 二〇世紀の技術は、それ以前の技術とはまったく異なるものである。昔の技術は、アート(art)という言葉がしめすように、その道の専門家の直感と努力によって磨き(みが )ぬかれた技芸であり、芸術にせまる何ものかであったわけで、科学とは何の関係もないものであった。ところが、二〇世紀における技術は、科学によって確立された対象についての法則を、意図的、体系的、網羅(もうら)的に組み合わせて用い、新しいものを手当たりしだいにつくりだすというものである。これが現代技術のもつきわだった特色である。
 そこで一つの大きな問題が浮かび上がっ(う  あ  )てくる。これまでの科学は神が創造した地球と自然、そしてそこに存在する物を観察し、理解するということをおこなってきた。そのかぎりにおいて、科学は謙虚(けんきょ)であり、科学は価値中立であるとされてきた。しかし、神のみがもっていたものごとを創造する秘密を、今日私たち人間が手に入れ、あらゆる法則を無原則的に組み合わせて、できることは何でもおこない、どんどんと新しい物を勝手につくりだしつつあるわけである。そして、それらはけっして地球と自然、生物や人間にとってよいものばかりではない。一見よいものと見えても、長期にわたってながめてみれば、深刻な問題をもたらすものもたくさんつくりだしているのである。
 したがって、今日の科学技術においては、価値中立ということはありえず、私たちがつくりだすものについては、はっきりした責任を負うべきであろう。二一世紀にはあらゆる科学技術の分野において、分析(ぶんせき)の時代が終わって、創造の時代に入っていくことは明らかであるから、科学技術に対する人類の責任は重大である。

(長尾(ながお)真『「わかる」とは何か』による)
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a 長文 7.4週 nngi2
 1「新しさ」がマイナス価値であった時代があった。新しさは奇(き)を衒う(てら )もの、良き古き伝統を破壊(はかい)するものだとして忌避(きひ)されたのである。思想の面で新しいアイディアを提出するものは非難と告発を免れ(まぬか )がたかった。2新しい思想家はどこでもいつでも、弾圧(だんあつ)されたし、排除(はいじょ)されたりしたものである。政治の場面でも、現存秩序(ちつじょ)を批判し、のりこえようとする運動は、いつでも新しい運動であったが、これも破壊(はかい)的なものとして可能なかぎり抑圧(よくあつ)される。
 3いつの時代でも、どんな社会においても、古さの方が価値的にプラスであって、新しさはつねにマイナス価値であった。新しいものは、古いものとの対決の中ではじめてエネルギッシュになり、前進のための生産力を獲得(かくとく)する。4したがって、物質的な力とも言うべき飛躍(ひやく)力と魅惑(みわく)的力をもつ新しさの基本型は、現存秩序(ちつじょ)の体系または古い価値体系から脱出(だっしゅつ)する批判的運動であるというべきであろう。
(中略)
 5圧倒的(あっとうてき)な力をもつモード的・記号的新しさによって隠さ(かく )れているが、決して消滅(しょうめつ)しそうもない批判的新しさもある。それはいろいろの形をとって現れるが、何よりも感情的・情緒(じょうちょ)的なものが基本であろう。6エルンスト・ブロッホが書きとめてくれた「小さな白昼夢」などはその典型である。小さな子どもの小さな夢は、憧憬(どうけい)とよぶべきもので、それはおとぎ話の形をとって未来へとはばたく。はかなさとこわれやすさを特徴(とくちょう)とする白昼夢は、現在の世界からの前方への脱出(だっしゅつ)願望である。7そこには、世界についての感情が世界を批判している。このままではいけない、別の良き世界があるのだと、理性的でなく情緒(じょうちょ)的に判断している。情緒(じょうちょ)・感情は批判力をもちうる。
 8感情や情緒(じょうちょ)は行為(こうい)である。それは世界の中にあって世界を作り変える。まだないものを先取りし、この先取りによってすでに世界の外に出る。外に出ることで今の生活世界を批判する。9いっさいのユートピアは、基本的にはこの感情の行為(こうい)的批判を出発点とし
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ている。
 前に、過去に埋もれ(うず  )た新しさがあると述べた。多くの可能性をもちながら、開花と現実化の条件を与え(あた )られないままに、歴史のほこりの堆積(たいせき)の下に埋もれ(うず  )た新しきものがある。0私たちは、願望夢のように前に眼を向けるばかりでなく、しばしばそれ以上に過去に眼を向ける。なぜ過去に眼を向けるのか。あるいはプロスペクティヴ()とレトロスペクティブとは互いに(たが  )無縁(むえん)なのであろうか。過去へふり向けられるレトロの眼は、単なる懐古(かいこ)趣味(しゅみ)であってはならない。現在を永遠化し、その立場から過去をふりかえる眼は、保守的なレトロスペクティヴ()である。現在に安住し、過去を高見から眺める(なが  )のは、過去をダシにして現在を栄光化する態度だ。こういうレトロの眼はモードの眼である。記号は新しさの発掘(はっくつ)源としてのみ過去を見る眼である。
 そうではなくて、過去の中に開花を待ちつつひそむ問題を探求することこそ、新しさの探求である。かつてワルター・ベンヤミンは、目ざめを待つ新しきものについて語った。可能的新しさを目ざめさせる眼こそ、真のレトロスペクティヴ()であり、それが同時にプロスペクティヴ()になる。レトロスペクティヴ()とプロスペクティヴ()との有機的な連関を自覚的に行うことは、歴史学や歴史哲学(てつがく)の仕事である。これは、もはや現在の固定化でも栄光化でもなくて、現在を前へと超え(こ )ていく作業である。過去の中で目ざめを待つ新しさは、未来において甦る(よみがえ )新しさである。どれほど過去を調べてもこの新しさがなくなることはない。過去には無尽蔵(むじんぞう)の新しさがある。
 時間的最先端(さいせんたん)が新しいというのは、近代歴史意識の虚妄(きょもう)であろう。時間と歴史に病的なまでに固執(こしつ)する現代の歴史感覚をひっくり返さなくてはならない。最も古い層のなかに目ざめを待つ根源的新しさがあるという逆説的立場――これがベンヤミンの独創性である――は、近代という大いなる時代の本質を突く(つ )。新しさの考察は、こうして、近代性への根本的反省へと通じていくであろう。

(今村仁司『精神の政治学』による)
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a 長文 8.1週 nngi2
 1誰(だれ)でも情報には「量」というものがあると漠然と(ばくぜん )信じている。コンピュータが安価になり、身近な存在になるにつれて、「ビット」という工学的な情報量の単位も日常用語として使われるようになってきた。2四八ビット・パソコンは三二ビット・パソコンよりたくさんの情報を一度に扱える(あつか  )はずだろう。
 こういう「情報量」は、技術的話題に登場するだけではない。われわれはよく「この本はぶ厚いわりには情報量が少ない」と文句を言ったりする。3言うまでもなくこれは、ぺージ数(文字数)という「見かけの「情報量」」が一般(いっぱん)に読み手にとっての「情報量」とは異なるという事実を語っている。
 4さて、右のありふれた言葉は、「情報量」という概念(がいねん)の危うさの証左でもある。この言葉は、ひとまず二通りに解釈(かいしゃく)できる。「内容が知っていることばかりだ」と「興味が湧か(わ )ない」の二つである。「知らないことを教えてくれるのが情報だ」という立場に立てば、第一の解釈(かいしゃく)が妥当(だとう)だろう。5これは情報を「客観的」にとらえようと努める立場である。
 だが、内容に知らないことが多く理解し難いとき、読み手にとって果たしてその本の「情報量」は多いのだろうか?──内容が理解できなくて「(主観的な)興味」が湧か(わ )なければ、「情報量」はやはり少ないのではないだろうか。
 6そもそも、「内容を知っている」とはどういうことか? ──「フランス革命は一七八九年に起こった」といった命題なら「知っている」と言えるだろうが、「二一世紀に日本社会のモラルは堕落(だらく)する」などのあいまいな命題なら、興味の有無を答える方がましだろう。7むしろ、知っていることばかりなら興味も湧か(わ )ないはずだという立場に立てば、「情報量が少ない」とは、すなわち「興味がない」「魅力(みりょく)がない」ことだと断じる方が直観に一致(いっち)している。
 8だからこそ、情報とは「いざなうもの」でなくてはならない。生物であるわれわれの興味を惹く(ひ )魅力(みりょく)的な対象が、はじめて情報として「意味」をもつのだ。
 9このように、情報を「意味=価値」があり、「いざなうもの」とみなすことは、心の側から情報をとらえることである。言い換える(い か  )と、情報の「伝達」よりむしろ「生成」の側面に目を向
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けるわけである。0環境(かんきょう)世界のなかで、心がいったい何を「情報」として選びとるか、が問題となるからだ。環境(かんきょう)世界からは、光、音など無限に多様な外部信号が降り注ぐ。はっきりさせなくてはならないのは、その中から心が何を選びとり、いかにして「情報」として構成していくか、という点なのである。
 もちろんこれは、哲学(てつがく)的な認識論や存在論にかかわる難問であって、とうていここで論じ尽くせる(つ   )テーマではない。だが、一九七〇年代にあらわれた生物物理学者清水博の情報理論は、この難問に一筋の光を投げかけるように思える。そのポイントは、生物をみずから秩序(ちつじょ)をつくっていく「自己組織系」とみなし、系の秩序(ちつじょ)生成のダイナミズムのなかに「情報」の発現を位置づけたことにある。清水によれば、生命システムとは、「システム(自分)の存在にとって意味のある情報を、内部知識と内部法則にもとづいて自分自身でつくりだしていく」ものなのだ。
 右のような「意味」の自律的生成を、文章による説明に終わらず数学的なモデルで詳しく(くわ  )記述したところに、清水とそのグループによる科学者としての先駆(せんく)的業績がある。「情報」をその意味内容に立ち入ってとらえる科学研究はすでに始まっているのだ。
 生物がいかなる「情報」をつくるかはいわば生物の「価値観」にひとしい。ゆえに情報を「いざなうもの」「興味のあるもの」「価値のあるもの」とみなすことは、決して単なる文学的な比喩(ひゆ)表現ではないのである。二一世紀の知性は、情報生成のダイナミズムをさぐる新しい情報科学のうちに最大の課題のひとつを見いだしていくだろう。

(西垣(にしがき)通『聖なるヴァーチャル()・リアリティ』による)
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a 長文 8.2週 nngi2
 1自己表現の意欲は、言葉あるいは文字として表してみて、初めて具体性を帯びる。自発的にものを考えるようになって、人は初めて自分の言葉を発する。言葉に対して自覚的になると言ってもよいでしょう。2言葉なくして、考え、迷い、一念を生じ、邂逅(かいこう)することはあり得ないのです。
 ところが、このとき間髪(かんぱつ)を入れず、言葉の不自由、その障害に突き当たる(つ あ  )という事実を見逃す(みのが )わけにはゆきませぬ。3例えば我々が平生使っている思想や文学上の用語、精神とか知性とか主体性とか実存とか、なんでもいい、その一つ一つを取り上げて、これを厳密に検討してごらんなさい。一つとして曖昧(あいまい)ならざるものはない。4各人によってさまざまの解釈(かいしゃく)や定義やニュアンスを生じ、それをまた一つ一つ解釈(かいしゃく)し定義して行かねばならぬといったような、途方(とほう)もない迷路に入り込ん(はい こ )でしまいます。
 5言葉というものは、おそろしく不完全なものだと悟り(さと )ます。実に曖昧(あいまい)です。そういう言葉をさまざまに組み合わせつつ、かろうじて自分が言いたいと思っている思想的イメージに近づいてゆく。6それは依然として(いぜん   )不完全ではあるが、この不完全の自覚が、我々の考える力を更に(さら )押し進める(お すす  )原動力ともなるのです。精神の問題は、幾何(きか)学の公理のように割り切れない。7しかし、幾何(きか)学の公理のように、その一つ一つの正確さを目ざすことは大切で、この無限の正確さへの意志が、言葉を開拓(かいたく)して行くともいえましょう。言葉を使用するとは、開拓(かいたく)して行くことと同義なのです。そこに精神としての「自己」が存在するわけです。8言葉の不自由な性質そのものが、言葉の生命だといっていいかもしれませぬ。
 言葉のかような性質が、逆に我々をして、考えさせ、迷わせ、一念を生ぜしめ、邂逅(かいこう)を促す(うなが )といってもいい。9言葉に翻弄(ほんろう)される自己を見いだすでありましょう。翻弄(ほんろう)に翻弄(ほんろう)を重ねて、さて、その極限に見いだすものは何か。我々は、初めて「沈黙(ちんもく)」の意義を知るのです。例えば非常にうれしいとき、悲しいとき、感動したり、さまざまに思い惑う(まど )とき、どんな現象が起こるか。言葉を失っている自
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己を見いだすでありましょう。0心の中であれこれと思い巡らし(めぐ  )てみるが、さて表現となると、どう言っていいかわからぬ。たちまち言葉につまって、沈黙(ちんもく)せざるを得なくなる。恋愛(れんあい)がその端的(たんてき)な例です。恋する(こい  )男女は、恋する(こい  )ことによって言葉を失うものです。
 かかる時機を、重視しなければなりませぬ。なぜなら、言葉を失うことは、心の充実(じゅうじつ)を意味するからであります。言うに言われぬ思い、そこに人間の真実がある。しかし、あえて表現しなければならぬ。その苦しさにおいて、我々は言葉の障害と格闘(かくとう)し、開拓(かいたく)し、換言(かんげん)すれば精神は自己を形成しようとしてもがくわけで、言葉の困難の自覚が、そのまま人間生成の陣痛(じんつう)ともなるわけです。
 こう考えるなら、自分の言葉を持つということが、いかに至難か明白でありましょう。我々はつい有り合わせの言葉を用います。世間一般(いっぱん)が用いたり、その時々の流行語となっている言葉を、無批判に使用します。どんな結果が生ずるか、申すまでもありますまい。精神はここに感化されることによって死に瀕する(ひん  )のであります。
 自分の言葉を持つということは自分が生まれるということです。「はじめに言葉ありき。」という一句が聖書にありますが、私はここでいちおう聖書から離れ(はな )て、人間生成の一条件として考えてみます。初めて発した自己コユウの言葉は、その人の生命のあけぼのであるということを。「生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなわち新しき生涯(しょうがい)なり。」──これは若き島崎藤村(しまざきとうそん)が、その最初の詩集に記した序文の一節です。自分の言葉を持つこと、すなわち自分の生涯(しょうがい)の始まりなのであります。
 そうあるためには、私がさきに述べた「沈黙(ちんもく)」を重視し、これに耐え(た )ねばなりませぬ。この沈黙(ちんもく)とは、正確さへの意志と言ってもよい。沈黙(ちんもく)は意志の強さの尺度であります。多くの沈黙(ちんもく)に耐え(た )た人の言葉ほど美しい。言葉の芸術である文学は、根本においてこれを目ざすものなのであります。多くの言葉を重ねながら、結局言うに言われぬ思いという沈黙(ちんもく)を創造し、ここに恨み(うら )を宿すものなのであります。
──亀井(かめい)勝一郎(かついちろう)「人間生成」──
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a 長文 8.3週 nngi2
 1インフォームド・コンセント(            )なる言葉がある。商品販売(はんばい)者が、無知なる顧客(こきゃく)に対して、自己決定するのに必要な情報知識を噛み砕い(か くだ )て説明した上で、同意を取り付ける義務を負うということである。2そして、医療(いりょう)において提供されるべき情報知識は、診断(しんだん)の内容、複数の治療(ちりょう)方針の利点と危険性、治療(ちりょう)しない場合の症状(しょうじょう)の予想などであると語られている。正当な考え方だ。しかし専門家が、本当に情報知識を持っているのかと疑ってみる必要がある。
 3知人が医者に余命三ヵ月(かげつ)かもしれないと告げられたことがある。正確には、簡単な所見から推すと、最悪の場合、末期症状(しょうじょう)の可能性があり、詳細(しょうさい)な検査の結果として、予期される末期症状(しょうじょう)であると判明すれば、余命は三ヵ月(かげつ)程度である可能性があると告げられたことがある。4誤診(ごしん)であった。正確には、当初の所見は可能性の指摘(してき)としては論理的には正しかったが、当初の予期は確率以上の悲観性を滲ま(にじ )せた点において道徳的に誤りだった。
 5ここで指摘(してき)したいのは、これは情報知識の提供などという、代物ではないということである。たんなる占い(うらな )である。この場合、最低限提供すべき情報はこうなるだろう。所見の根拠(こんきょ)、推測の根拠(こんきょ)、確率計算の根拠(こんきょ)、予後の推定の根拠(こんきょ)である。これを示すために提供すべき情報はこうなるだろう。6過去に実際に治療(ちりょう)した症例(しょうれい)の解析(かいせき)、過去の症例(しょうれい)と現在の症例(しょうれい)の相違(そうい)と類似性の評価の根拠(こんきょ)、当の症例(しょうれい)について報告する諸文献(ぶんけん)の内容の分析(ぶんせき)、症例(しょうれい)分析(ぶんせき)や症例(しょうれい)分類の根拠(こんきょ)と生存期間計算の根拠(こんきょ)などである。7ところが医者にこんな知識はない。なぜなら、誰(だれ)も持っていないからである。すると、どうなるのか。
 余命告知やリスク予知について、道徳的に論じたいのではない。占い(うらな )は、人生の指針として役立つことはあるからだ。8人間がなってないとは思うものの、医者を非難したいわけでもない。長くは持たないと経験的に分かることはあるからだ。占い(うらな )をめぐる問題は、
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各人の世間知を活用すれば済むことである。9病気の悲しみを癒し(いや )て死の恐怖(きょうふ)に耐える(た  )には、経験知で充分(じゅうぶん)足りる。ところが、悲しみを利用する連中は、無駄(むだ)な論議を交わし、無用の研究を積み重ねる。しかも余命を生きる力の不可思議に何の関心も払わ(はら )ないのだ。
 0安楽死や尊厳死をめぐって人びとはこう信じているかのようだ。安楽に生きるより安楽に死ぬほうが大切だ。尊厳をもって生きるより、尊厳をもって死ぬほうが大切だ。最期だけは美しく死にたい。誰(だれ)にも迷惑(めいわく)をかけずに、後顧(こうこ)の憂い(うれ )なく死にたい。別の人びとはこう考えている。死の教育が大切だ。死ぬまで勉強だ。最期を看取るのも勉強だ。さらに別の人びとはこう考えている。制度設計が必要だ。素敵な死に場所を建築しよう。予算と人員が必要だ。子供も死に触れ(ふ )て死を学ぶべきだ。子供にもメメント・モリ(死を想え)というわけだ。人びとは、「末期状態の患者(かんじゃ)」や「植物状態の患者(かんじゃ)」について第三者的にあれこれ想像しては、死を正面から見詰めよ(みつ  )うと喋り(しゃべ )合っている。
 死ぬのは悲しい。苦しまずに死にたいと願うのは当然だ。最期だけは高貴でありたいと願うのもたぶん当然だ。誰(だれ)でも対処してきたことだし、時が来れば誰(だれ)でも対処することだ。議論や教育や勉強や制度の問題ではない。ところが死の悲しみを利用して稼ぐ(かせ )連中は、死ぬまで生きる力、生きて死なせる力に安楽と尊厳を感じることはない。「誰(だれ)も生きてはいない。誰(だれ)もが見せかけの生を送っている。死ぬことを避ける(さ  )ことしか考えていない。しかも人生全体が死の礼拝堂である」。そしてスピノザは書いていた。「自由な人間は何よりも死について考えることが少ない。自由な人間の知恵(ちえ)とは、死の省察ではなく、生命の省察である」(『エチカ』)。

(小泉義之(よしゆき)『ドゥルーズの哲学(てつがく)』)
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a 長文 8.4週 nngi2
 1「新しさ」がマイナス価値であった時代があった。新しさは奇(き)を衒う(てら )もの、良き古き伝統を破壊(はかい)するものだとして忌避(きひ)されたのである。思想の面で新しいアイディアを提出するものは非難と告発を免れ(まぬか )がたかった。2新しい思想家はどこでもいつでも、弾圧(だんあつ)されたし、排除(はいじょ)されたりしたものである。政治の場面でも、現存秩序(ちつじょ)を批判し、のりこえようとする運動は、いつでも新しい運動であったが、これも破壊(はかい)的なものとして可能なかぎり抑圧(よくあつ)される。
 3いつの時代でも、どんな社会においても、古さの方が価値的にプラスであって、新しさはつねにマイナス価値であった。新しいものは、古いものとの対決の中ではじめてエネルギッシュになり、前進のための生産力を獲得(かくとく)する。4したがって、物質的な力とも言うべき飛躍(ひやく)力と魅惑(みわく)的力をもつ新しさの基本型は、現存秩序(ちつじょ)の体系または古い価値体系から脱出(だっしゅつ)する批判的運動であるというべきであろう。
(中略)
 5圧倒的(あっとうてき)な力をもつモード的・記号的新しさによって隠さ(かく )れているが、決して消滅(しょうめつ)しそうもない批判的新しさもある。それはいろいろの形をとって現れるが、何よりも感情的・情緒(じょうちょ)的なものが基本であろう。6エルンスト・ブロッホが書きとめてくれた「小さな白昼夢」などはその典型である。小さな子どもの小さな夢は、憧憬(どうけい)とよぶべきもので、それはおとぎ話の形をとって未来へとはばたく。はかなさとこわれやすさを特徴(とくちょう)とする白昼夢は、現在の世界からの前方への脱出(だっしゅつ)願望である。7そこには、世界についての感情が世界を批判している。このままではいけない、別の良き世界があるのだと、理性的でなく情緒(じょうちょ)的に判断している。情緒(じょうちょ)・感情は批判力をもちうる。
 8感情や情緒(じょうちょ)は行為(こうい)である。それは世界の中にあって世界を作り変える。まだないものを先取りし、この先取りによってすでに世界の外に出る。外に出ることで今の生活世界を批判する。9いっさいのユートピアは、基本的にはこの感情の行為(こうい)的批判を出発点とし
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ている。
 前に、過去に埋もれ(うず  )た新しさがあると述べた。多くの可能性をもちながら、開花と現実化の条件を与え(あた )られないままに、歴史のほこりの堆積(たいせき)の下に埋もれ(うず  )た新しきものがある。0私たちは、願望夢のように前に眼を向けるばかりでなく、しばしばそれ以上に過去に眼を向ける。なぜ過去に眼を向けるのか。あるいはプロスペクティヴ()とレトロスペクティブとは互いに(たが  )無縁(むえん)なのであろうか。過去へふり向けられるレトロの眼は、単なる懐古(かいこ)趣味(しゅみ)であってはならない。現在を永遠化し、その立場から過去をふりかえる眼は、保守的なレトロスペクティヴ()である。現在に安住し、過去を高見から眺める(なが  )のは、過去をダシにして現在を栄光化する態度だ。こういうレトロの眼はモードの眼である。記号は新しさの発掘(はっくつ)源としてのみ過去を見る眼である。
 そうではなくて、過去の中に開花を待ちつつひそむ問題を探求することこそ、新しさの探求である。かつてワルター・ベンヤミンは、目ざめを待つ新しきものについて語った。可能的新しさを目ざめさせる眼こそ、真のレトロスペクティヴ()であり、それが同時にプロスペクティヴ()になる。レトロスペクティヴ()とプロスペクティヴ()との有機的な連関を自覚的に行うことは、歴史学や歴史哲学(てつがく)の仕事である。これは、もはや現在の固定化でも栄光化でもなくて、現在を前へと超え(こ )ていく作業である。過去の中で目ざめを待つ新しさは、未来において甦る(よみがえ )新しさである。どれほど過去を調べてもこの新しさがなくなることはない。過去には無尽蔵(むじんぞう)の新しさがある。
 時間的最先端(さいせんたん)が新しいというのは、近代歴史意識の虚妄(きょもう)であろう。時間と歴史に病的なまでに固執(こしつ)する現代の歴史感覚をひっくり返さなくてはならない。最も古い層のなかに目ざめを待つ根源的新しさがあるという逆説的立場――これがベンヤミンの独創性である――は、近代という大いなる時代の本質を突く(つ )。新しさの考察は、こうして、近代性への根本的反省へと通じていくであろう。

(今村仁司『精神の政治学』による)
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a 長文 9.1週 nngi2
 1時間はしばしば流れとして語りだされる。未来から現在へ、現在から過去へと流れる水のように。しかしこれは正しくない。そのように時間を流れとして語りだしている者は、そういう時間の外で時間について語っているからだ。2不在の未来(まだない)もそのようなものとして語られるかぎりで現在のなかにあるし、おなじように不在の過去(もうない)もそのようなものとして語られるかぎりでたしかに現在のなかにある。つまりは現在と現在と現在。だから、そこに時間は流れない。むしろ流れは隠さ(かく )れてしまう。
 3それは時間を時間の外から眺め(なが )ているからだ。もし時間が流れると言うのなら、そのように語る者自身が流れのなかにあることが数え入れられているのでなければならない。4流れている者が流れのなかで流れるままにそれを流れとしてとらえ、ひるがえっておのれをも流れるものとしてとらえる。そのような時間の意識のしくみが問いただされねばならない。5そのような意識にたいしてはじめて流れは流れとして見え、旋律(せんりつ)は旋律(せんりつ)として聴こえ(き  )てくる。言葉について語るということにも、おなじようなことが言える。考えるということについて考えるということとおなじく。
 6わたしたちは何ものかについて言葉で考え、語りだす。そして次に、その言葉が、事態を正しくとらえているかどうかを問う。あるいは、語られた事態がほんとうに存在する事態とおなじかどうかを問う。7その問いをシステマティックに緻密(ちみつ)にするのが「哲学(てつがく)」である。
 「哲学(てつがく)」においては、この問いは、観念(や命題)と実在との一致(いっち)・不一致(ふいっち)というかたちで語りだされる。いわゆる真理の対応説である。
8至極まっとうな問いのようにみえる。しかしそこで、何と何とが引き較べ(くら )られているのか。観念と実在との一致(いっち)というが、それはどのようにして確証できるのか。
 9観念と実在との一致(いっち)とは、つまり語りと語られた事態との一致(いっち)ということである。では、語りが対応づけられるその語られた事態は当の語りの外で、どのようにして問題とされうるのか。0言及(げんきゅう)されることによって、つまり別のかたちで意識され、語りだされることによってである。けっきょく、対応ということで問われているのは、ある語りと別の語りとの対応ということだということになる。ある語りと別の語りとの整合性がそこでは問題となっているという
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ことになる。こうして観念と実在の関係は、命題と命題の関係に移される。対応説は整合説に移行させられるのだ。
 が、問題は、そこで終わらない。観念と実在との関係を問う「哲学(てつがく)」の場所はどこにあるのか、という問題がさらに別にある。語りと語りの関係を語る語りとは何か、という問題である。胃がよくはたらいているときは胃の存在は意識されず、むしろその機能が不全になってはじめてその存在が意識されるように、哲学(てつがく)もまたそれが機能不全に陥っ(おちい )たときにみずからの媒体(ばいたい)について思考をはじめる。
 それが端的(たんてき)に問題になるのは、わたしがわたし自身の存在に問いを向けるときである。わたしがわたしを語る。そのときに、わたしがわたしについてのそのわたしの語りについて語るというのはいったいどういうことなのか(これは「哲学(てつがく)」では「自己意識」の問題である)。
 わたしについてわたしが語るとき、その語りによってはじめのわたしは規定される(スピノザも書いていたように、規定するとは否定すること、限定することにほかならないから)。その限定されたわたしと限定しているわたしの関係についてさらに言葉をくわえることは、わたしとわたしとのその関係をさらに別なかたちで限定することである。時間を流れとしてとらえる意識が時間そのもののなかにあったように、わたしの自己意識の構造を問題とするわたし自身もそういう自己意識のなかにあるわけである。
 ここではけっきょく、わたしがわたし自身を三重に限定していることになる。そういうメタにメタをくわえる事態についていまここで語っているわたしは、その三重の限定にさらにメタ次元から介入(かいにゅう)していって、限定を重ねているわけだ。
 あるものを限定するというのは、それを変形することである。デフォルマシオン、歪める(ゆが  )こと。それはしかし、なにかある原型のデフォルマシオンではない。すでに確認したように、原型はなんらかのデフォルマシオンのなかでしか現れえないのであるから、時間においても「わたし」においてもそうだったが、みずからについて語るというのは、変形に変形をくわえることなのである。そして、その変形のやり方自体を、ときに論理的に、ときに倫理(りんり)的に問うのが「哲学(てつがく)」というものである。
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a 長文 9.2週 nngi2
 1「私は何ものなのか?」という問いへの答えは、二人称(ににんしょう)での語りかけと、三人称(さんにんしょう)での描写(びょうしゃ)と、一人称(いちにんしょう)での思いが、少しずつ重なり合ってくることによってしか、与え(あた )られない。2したがって、「まだ呼びかけうるかも、なお応じうるかも……」という呼応の可能性なしには、答えの探しようもない。この呼応の可能性に支えられて、諸種の描写(びょうしゃ)が重なってくるにつれ、「どうやら私は……らしい」という果実もみのる。3もちろん、そうした果実の多くは、しばし甘美(かんび)だったとしても、「自己正当化ゆえのあまさにすぎなかったか……」という苦みをも残す。しかし、そうした苦みは、さらなる呼応への敏感(びんかん)さを養ってくれる。
 4呼応、つまり呼びかければ応答があるということは、人の間かつ時の間の、一回的な出来事であり、したがって、一見ささいな出来事である。しかし、私もあなたも、そうした呼びかけ・応答をつうじて、はじめて、曲がりなりにも自分のかけがえのなさを確認しえている。5あなたも私も乳児と親の間柄(あいだがら)からはじまって、呼応の可能性をたよりにして、はじめて相手に向かって振舞う(ふるま )ことができ、そうした相手との間で、自分のかけがえのなさを、曲がりなりにも確認してきた。6にもかかわらず、このナケなしの呼応の可能性も、あまりにも当たり前であるがゆえに、あたかも空気のように、見過ごされうる。
7たとえば、こうである。いわく「呼びかけられうること、呼びかければ応じられうることは、なるほど幼児が自分を意識するようになる過程では必要かもしれない。8しかし、ひとたび自分を自覚するようになれば、他人との呼応の可能性などは、登ってしまえば無用になるハシゴのようなもので、べつになくなってもかまわない……」云々(うんぬん)。9とりわけ、どこへ行っても注目され、あるいは気をつかってくれる人に囲まれて、向こうから声をかけてもらえるような立場にある人は、えてして、こう考えやすい。
 0しかし、呼応の可能性の大切さを見切ってしまうのには、あまりにもありふれているという以外にも、べつの原因もある。私たちはそれぞれ自分の生活に忙しい(いそが  )。だから、自分にとって必要でもないことにかんして、あるいは直接に関係ないと思える人から、呼びかけられても、いちいち応じてはいられない。私たちはそう考えて、自分が応じる呼びかけの範囲(はんい)と種類を、自分のほうから限って
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しまう。じじつ、そう限定しなければ一日何時間あっても足りない。そこまで私たちに向かって多種多様な呼びかけが発せられている。のみならず、私たちが呼びかけとして聞き分けていない声は、さらに多種多様である。したがって、自分が応じるいわれのある呼びかけの種類と範囲(はんい)を限定することは、自分の生活がある以上、やむをえない。
 こうした自己保身ゆえに呼応の可能性を切り詰める(き つ  )と、「この眩(くるめ)きには応えなくてもいいだろう」と見切った他人の呼びかけを聞き流し、その切実な訴え(うった )を見殺しにする。しかし、それだけではすまない。「もともと私は応える立場にはいないのだから……」と自分に言い聞かせて、聞き流したことを自己正当化することになる。そして、こうした自己正当化は、もっとも身近な他者の聞き取りにくい眩(くるめ)きさえも、たんなる雑音として切り捨てることの正当化に連なる。
 そのツケは、声の小さい者たちに回され、彼(かれ)・彼女ら(かのじょ )において、「何ひとつ応答などなかったではないか……」という苦い思いを生み、「他人との呼応の可能性など、当てに出来ない……」というシニシズムを生む。そして、このシニシズムとともに、もっとか細い声への鈍感(どんかん)さが蔓延(まんえん)し、その結果、人は自分に向けられている切実な呼びかけを自分が無視しているという事実すら気づかないようになる。そうなると、それだけいっそう、自分が何であるかについても、不安になる。こうして「私探し」がいたずらに加速される。
 もちろん、ひとくちに「私探し」といっても、その実態も背景も多種多様であって、すべてが、呼応の可能性の切り詰め(き つ )に還元(かんげん)できはしない。しかし、もしあなたが、「呼応の可能性など当てにできない……」という印象をよすがとして、「他者にたいして特定の人物であることなど、自分が自分であるためには二次的・三次的なことだ……」と思いはじめているのなら、もう一度、考え直していただきたい。

(大庭健の文章による)
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a 長文 9.3週 nngi2
 1世間では、いま、表現教育ということが盛んに叫ば(さけ )れている。子供たちに、どうにかして「豊かな表現力」「誰(だれ)とでも話せるコミュニケーション能力」を身につけさせようと、親も教師も躍起(やっき)になっている。2子供の方から見れば、表現を強要されているとさえ言える状況(じょうきょう)だ。
 だがどうも、教える側も、子供たちの方も、「表現」ということを無前提に考えすぎていないか?
 3いや、いったい、何をそんなに伝えたいというのか?
 私はここ数年、演劇のワークショップ(体験型の演劇教室)を、年間で百コマ以上、全国で繰り返し(く かえ )て開催(かいさい)してきた。教育の門外漢に、このような依頼(いらい)が殺到(さっとう)するのも、表現教育隆盛(りゅうせい)の一つの現れであろうか。
 4ただ、私が、そういった場で子供たちに感じ取ってもらいたいことは、表現の技術よりも、「他者と出会うことの難しさ」だった。どうすればコミュニケーション能力が高まるかではなく、自分の言葉は他者に通じないという痛切な経験を、まず第一にしてもらいたいと考えてきた。
 5高校演劇の指導などで全国を回っているといつも感じるのは、生徒創作の作品のそのいずれもが、自分の主張が他者に「伝わる」ということを前提として書かれている点だ。
 6私は、創作を志す若い世代に、演劇を創るということは、ラブレターを書くようなものだと説明する。「俺(おれ)は、おまえのことがこんなに好きなのに、おまえはどうして俺(おれ)のことが分かってくれないんだ」という地点から、私たちの表現は出発する。7分かり合えるのなら、ラブレターなんて書く必要はないではないか。
 日本はもともと、流動性の低い社会のなかで「分かり合う文化」を形成してきた。8誰(だれ)もが知り合いで、同じような価値観を持っているのならば、お互い( たが )がお互い( たが )の気持を察知して、小さな共同体がうまくやっていくための言葉が発達するのは当然のことだ。それは日本文化の特徴(とくちょう)であり、それ自体は、卑下(ひげ)すべきことではない。
 9明治以降の近代化の過程も、価値観を多様化するというよりは、大きな国家目標に従って価値観を一つにまとめる方向が重視され、教育も社会制度も、そのようにプログラミングされてきた。0均質化した社会は、短期間での近代化には好条件だ。日本は明治の
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近代化と、戦後復興という二つの奇跡(きせき)を成し遂げ(な と )た。
 しかし、私たちはすでに大きな国家目標を失い、個人はそれぞれの価値観で生き方を決定しなければならない時代に突入(とつにゅう)している。このような社会では、価値観を一つに統一することよりも、異なる価値観を、異なったままにしながら、その価値観を摺り(す )合わせ、いかにうまく共同体を運営していくかが重要な課題となってくる。
 いま、あらゆる局面で、コミュニケーション能力が重視されるのは、ここに原因がある。「分かり合う文化」から、「説明し合う文化」への転換(てんかん)を図ろうということだろう。
 だが、ここに一つの落とし穴がある。
 表現とは、単なる技術のことではない。闇雲(やみくも)にスピーチの練習を繰り返し(く かえ )ても、自己表現がうまくなるわけではない。
 自己と他者とが決定的に異なっている。人は一人ひとり、異なる価値観を持ち、異なる生活習慣を持ち、異なる言葉を話しているということを、痛みを伴う(ともな )形で記憶(きおく)している者だけが、本当の表現の領域に踏み込める(ふ こ  )のだ。多くの優れた芸術家は、自分の中にその断念、その絶望を持っている。ひとは幼少期、自分のことを決して受け入れてくれない他者の存在を発見する。その哀しみ(かな  )を忘れない者だけが、芸術家という名に値する。(中略)
 私たちがこれから作っていく成熟社会の緩やか(ゆる  )な絆(きずな)は、お互い( たが )が分かり合えないという絶望から出発する。この絶望の中にのみ希望はある。だとすれば、分かり合えないことを、その存在の根拠(こんきょ)とする芸術の役割は小さくないだろう。学校や家庭や社会の中で、子供たちに、その発達過程に合わせて、「伝わらない」という切実な体験をさせる、そんな芸術教育のプログラムが、いま必要とされているのではないか。

(「新世紀の思考」(平田オリザ)より)
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a 長文 9.4週 nngi2
 1ところが、ある日、ハッと気がつく。からだの中は、まったくなにもレッテルがはってない。まだ、まっ白ではないか。そこで、からだの中身に名前をつけていく。解剖(かいぼう)しなくても、ある程度はわかる。2大ケガをした人や、死んだ人を見ていれば、からだの中について、いくらかの知識が得られる。そこで、からだの中にある「構造」に、名前をつけることをはじめる。
 名前をつけるとは、どういうことか。ものを「切ること」である。3エッ。名前と、「切ること」とは、なんの関係もないじゃないか。
 名前をつけることは、ものを「切ること」なのである。なぜなら、「頭」という名をつければ、「頭でないところ」ができてしまう。「頭」と「頭でないところ」の境は、どこか。
 4だから、「頭」という名をつけると、そこで「境」ができてしまうのである。「境ができる」ということは、いままで「切れていなかった」ものが「切れる」ということである。国境が変わったとしよう。5昨日まで、自分の国だったから自由に行けたはずの町が、今日からは簡単に行けなくなる。それは、日本では起こったことがないが、大陸の国では、しばしばあったことである。
 6地面はずっと続いているのに、「中国」と「インド」という国ができると、「境」つまり国境ができる。つながっているはずの地面が、「切れてしまう」ではないか。
 でも、国は人間が勝手に決めた。からだは自然にできたのではないか。7だから、言ったでしょう。自然に起こることは、たとえ生死であっても、その境は、簡単には決められませんよ、と。
 それを簡単に「切ってしまう」のは、だれか。「ことば」である。名前である。ことばができると、つながっているものが切れてしまう。8ことばには、そういう性質がある。
 人のからだに、名前をつける。名前がついた部分は、ほかの部分とは、頭のなかでは「切れて」しまう。頭、首、胴体(どうたい)、手、足。その「境」を、きちんと言えるだろうか。9そんなことは、だれも言えないのである。なぜかって、「一人の」、そのなかに、境はない。ただ、人の「部分」に、手だの足だのという「名をつける」と、人が「切れて」、バラバラになってしまうのである。0もちろん、実際にバラバラになるわけではない。「ことばの中では」である。でも、人はほとんど「ことばの世界」に暮らしている。だから、やっぱり、「切れた」と言っていいのである。
 これが解剖(かいぼう)のはじまり。なぜなら、ことばの中、すなわち頭の中で、からだがまず切れてしまうから、実際に「切る」ことになるの
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である。
 そんなバカな。頭のなかで「切れる」のと、実際に「切る」のとは、違う(ちが )でしょうが。それは、違う(ちが )。でも、頭の中で「切る」から、やがては実際に「切る」ことになる。頭の中で、車というものが考えられたから、やがて実際に車が作られるようになったのである。車というものができたおかげで、車を考えついたわけではない。新しい車を作るなら、まず設計図を引かなくてはならない。車ばかりではない。頭のなかで、家の設計図がまずできるから、家がたつ。人のからだを「ことばにしよう」とするから、解剖(かいぼう)がはじまるのである。なぜなら、ことばには「モノを切る」性質があるからである。
 ああ、難しかった。そうでもないでしょう。ことばには、ものを切る性質がある。人間は、頭で考えたことを、外に実現する癖(くせ)がある。この二つのことを知っていれば、解剖(かいぼう)のはじまりがわかるのである。

(養老孟司(たけし)『解剖(かいぼう)学教室へようこそ』による)
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