a 長文 11.1週 nngu2
 明快に外界へ延びて行く道具とは反対に、芸術は複雑に凝縮ぎょうしゅくして、人間の手もとで無限の外界を予感させる象徴しょうちょうとなった。手仕事の現実的な効果ではなく、そのプロセスそのものが、一タッチ一タッチの痕跡こんせきを積みあげて小宇宙をつくった。外界とは相対的に独立して、芸術はそれ自体の内部に自立し得る小世界を作った。外界がどこまでも見とどけ得ない暗闇くらやみであるとするならば、人間はせめててのひらのなかに、すみずみまで見つくすことのできる完結した世界を必要としたのである。
 そのとき以来、道具の制作と芸術の制作とは、車の両輪のように手仕事のパラドクシカルな両面をそれぞれに代表した。道具はもちろん、それ自身のしかたで現実についての情報量をふやしたが、人間は依然としていぜん   小宇宙としての芸術の制作をやめなかった。道具が現実についてプラスの情報をもたらしたとすれば、芸術は譬喩ひゆ的な意味でマイナスの情報をもたらしたといえる。道具は人間がなにを知り得るかを教えたが、芸術はなにを知り得ないかを教えたといいなおしてもよい。われわれの先祖は、現実にむかって量的な距離きょりを刻々に縮めながら、一方で、なおそのかなたに拡がる無限の「沈黙ちんもく」に測深器をおろしていたのである。
 われわれがみずからの手の宿命的な短さと、その短さの積極的な意味を見失ったのは、いつのことであったか確かではない。近代にはいって道具が機械へと飛躍ひやく的な発展をとげたのちにも、われわれは依然としていぜん   あの無力な手仕事をやめなかったからである。
 地理学が発展し、望遠鏡が発達し、ひとつの山の裏表まで知りつくされたのちに、人間はなおその山を肉眼で見ることをやめなかった。有限な肉眼で眺めなが た山を、有限な画布の大きさに描きえが とどめることをやめなかった。情報の量的な大きさからいえば、山の地理学と山の風景画とはだれの眼にも比較ひかくにもならない。だが、それにもかかわらず、画家はあきもせずに、巨大きょだいな山を手のなかの小宇宙におさめる作業を続けたのである。われわれはこの「徒労」の意味を、いくら反省しても多すぎるということはない。手仕事の徒労によって、画家は初めて情報の量的な蒐集しゅうしゅうから離れはな られたのであり、一かたまりの山の捉えとら がたさを観念ではなく知り得たのではないだ
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ろうか。それと同時に、かれは手仕事がすみずみまでとどいた山の模型に、なにものかを確実に手もとに置き得た安心を味わったにちがいない。そこでもまた人間の「自己」は、無限の可能性としてよりは、現実にたいする不適合状態として耐えた られていたはずなのである。
 けれども、いつとは知れないうちに、われわれはそうした不適合存在としての「自己」を見失ってしまった。あたかも道具や機械と同じように、人間は芸術をも、「自己」の無限の可能性を証明する手段に変えてしまった。一方で、機械によって情報を量的に拡大しながら、われわれはさらに芸術さえ、その機械と同じレヴェルで競争させる地位に置いたのである。
 たとえば近代絵画を大きく変えた動機として、われわれはつねに写真機の発明ということを思い出す。写真機はその手軽さと写実能力の高さによって、当時の写実的な絵画を根底からやかした。絵画がそれによって方向を変えたのは当然だが、しかしそのときとられた対応策は、まさに機械と芸術の特色についての完全な誤解のうえに立っていた。すなわち、近代人は機械の最大の弱点は空想力の貧困にあり、芸術はみずからのイメージの多彩たさいさによって機械と競争し得ると考えたのである。

山崎正和「劇的なる日本人」より)
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