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 デザインと絵画や彫刻ちょうこくについて、何かそこには決定的な違いちが があるのかもしれないと思う人たちの根拠こんきょは、言ってみればできの良くない作品を思いうかべてのことだと思います。絵画や彫刻ちょうこくのできの悪い作品は、とにかく色がきたない、形が悪い、何を言っているのかさっぱりわからない、暗い、湿っぽいしめ   、いやらしい(書いていてもいやになりますが)、ということで(もっと探せばどんどん出てきますが、このくらいにしておきます)、「そんなものを、彼らかれ は真顔でやっているのだから、私にはわからないけれど、さぞかし高尚こうしょうなことがそのおくにあるに違いちが ない」というわけです。しかしそれは買いかぶりかもしれません。だれが見ても変なモノは変で、実は本人としてもこれはちょっと困ったと思っているものです。だから顔もけわしくなってしまうのですね。難解な作品は、作者にも難解で、色の悪い作品は、作者が見ても「色が悪いなー。でもまあいいか、というよりこれしか描けえが ないんだから、仕方ないよ」と思っているかもしれません。で、そう思っているのはまだいい方で、それすらわかっていない場合もしばしばありますが。
 ではデザイン。できの良くないものは、センスが悪い、どこかの真似、使いにくい、やぼったい、等々……芸術とは全てを超えるこ  くらいすばらしいもののはず、と思いこんでいる人たちから見ると、違うちが だろう、となってしまうところでしょうが、それは単にそれができの悪いものだったというだけで、だからデザインが芸術ではない、ということにはなりません。
 考えてみると日本の芸術の過去の傑作けっさくの多くは、今で言うところのデザイナーの作品でした。屏風びょうぶという形式はインテリアデザインの流れで平安時代に流行したものですし、派は装飾そうしょくデザイン以外の何ものでもなかったわけです。それは皿から壁紙かべがみ、本に至るまで、本当に見事なデザインワークで、今や幅広くはばひろ 国宝に指定されています。浮世絵うきよえなどは今で言うグラフィックデザインですし、鎌倉かまくら時代の「伝源頼朝みなもとのよりとも像」などの肖像しょうぞう画は今ならさしずめ稲越いなごし功一さんや篠山しのやま紀信さんの写真を長友典さんがアートディレクションしたような仕事です。茶道で用いる茶碗ちゃわんや茶道具という
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芸術は、キッコーマンのあの醤油しょうゆビンのデザインをしたあん憲司さんなど、工業デザイナーの領分ですし、俵屋宗達は一大ファクトリーの偉大いだいなアートディレクターでした。
 私は生前の田中一光さんと交流がありましたが、グラフィックデザイナーである氏の発言や行動から終始感じていた印象は、一人の偉大いだいな芸術家以外の何ものでもないということでした。主に広告の世界に生きて見事な一貫いっかん性をお持ちになっていた方でしたから、自身が実際よしとしないものの広告は絶対に手がけなかったことでしょうし、広告主も田中さんを芸術家として尊敬していました。
 そもそも芸術とは、ここではない「どこか」につれていってくれるかどうかで真価が決まります。一方、絵画とはいえ、「どこにもつれていってくれない」ものも多くあり、絵画なら全て芸術というわけではない、と気付きます。そうやって考えてみると、すぐれたデザインは、非日常への入口として存在しているのです。

 (千住博『美術の核心かくしん』による)
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