a 長文 4.1週 nnza
長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。
 1近代合理主義の精神は、思考の過程、あるいはものを考える過程で、さまざまな夾雑(きょうざつ)物、余計な要素を取り除き、いくつかの単純な原理にしたがって論理を進めようとする思考法をとる。2その過程で仕掛け(しか )られる判断の基準も、できうるかぎり単純であることが望まれる。そして、その考えられる単純な原理こそが、ふたつのものからそのいずれかを選択(せんたく)するという判断基準であった。
 3すなわち、真と偽(ぎ)、善と悪、美と醜(しゅう)、正と否など二者択一(にしゃたくいつ)の論理こそ、近代合理主義が旨(むね)とする判断の方法にほかならない。真なる前提から始まって、真なる判断を繰り返し(く かえ )ていけば、真理に到達(とうたつ)すると固く信じられたのである。4デカルトが、数学的方法に思考方法のあるべき姿を認めたのも、伝統的な数学がこの真偽(しんぎ)二者択一(にしゃたくいつ)の方法に絶対的に依っ(よ )ていたからだ。
(中略)
 5しかし、真偽(しんぎ)の弁別を繰り返し(く かえ )ていって世界全体の判断に達するという演繹(えんえき)的な論理は、世界全体を判断の傘下(さんか)に収めようとするのだから、当然のことに、判断の普遍(ふへん)妥当(だとう)性を要求することになる。6つまり、ある部分では当てはまるが、べつの部分になると当てはまらない理論は、斉一(せいいつ)的な世界像を求める近代の科学的合理主義のなかでは市民権を得ることはできないのである。7たとえば、科学実践(じっせん)の現場でも、理論にそぐわない実験結果や現象が現れたときに、それらを無視し捨象(しゃしょう)して理論の斉一(せいいつ)性を守るということが日常茶飯におこなわれるのである。8しかし、そうした例外に属する現象が無視しえなくなれば、それを取り込む(と こ )ことのできない理論そのものを変える必要がでてくるわけで、こうして理論の転換(てんかん)がおこなわれるようになる。9これが、「科学革命」あるいは「パラダイム・シフト」と呼ばれる現象のひとつである。
 こうした現象は、しかし、世界に対する理論の普遍(ふへん)妥当(だとう)性という信念ないし確信にも似た意識に由来するものだということがわかる。0あらゆる理論は、数学の原理がそうであるように、
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いついかなるところでも当てはまらなくてはならないと固く信じられてきたのである。そうしたなかで、理論に妥当(だとう)しない例外的な現象は、偶然(ぐうぜん)的なもの、あるいは蓋然的(がいぜんてき)なものとして貶め(おとし )られてきたのである。そして、不確定性原理の出現に見られるように、現象をもれなく網羅(もうら)し説明する理論の普遍(ふへん)妥当(だとう)性そのものが揺らぎ(ゆ  )出してくると、方法としても、もはや確率統計的な方法をとらざるをえなくなってきたのである。つまり、現象の世界に対し人間の側がなしえるのは、一定の法則を世界に押しつける(お    )ことではなく、現象のあるがままの姿を記述することと考えられるようになったわけだ。
 理論や法則の普遍(ふへん)妥当(だとう)性という近代科学の絶対主義的傾向(けいこう)は、相対性理論や量子力学など二十世紀の初頭に相次いで現れる新たな潮流によって、おおいに揺さぶり(ゆ   )をかけられた。これらは、学問や理論の世界のなかだけで起こったことのように思われているが、そうではない。われわれの日常生活にも、少なからず影響(えいきょう)を与え(あた )ているのだ。影響(えいきょう)を与え(あた )ているというよりは、むしろ、同じ大きな流れが、理論的世界にも、また日常生活にも現れているというべきなのだろう。
 とにかく、「すべての……は……である」といった論理学の全称(しょう)判断のようなものに見られる、普遍(ふへん)性への意識をもった思考法は、個の意識が昂揚(こうよう)し、多様性が横溢(おういつ)するようになった社会的意識や日常生活のレベルにおいては、もはや妥当(だとう)性を失いつつあると考えるべきだろう。

(山本雅男()『ヨーロッパ「近代」の終焉(しゅうえん)』より)
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長文 4.1週 nnzaのつづき
 1野球で「二年目のジンクス」ということがよく言われる。一年目は好成績を残したのに、二年目はさっぱりダメという場合である。イチローのような特段に優れた選手は例外で、ほとんどが並の実力の持ち主だから、一年目は誤差でたまたまいい成績となっただけで、二年目からは平均に戻っ(もど )たと考えた方が正しいだろう。2にもかかわらず、スウィングが悪い、モーションが悪いと指摘(してき)され、自分もそうではないかと思い込ん(おも こ )でフォームを崩し(くず )てしまい、結局大成しなかった選手が多くいる。数年間を見て実力を見極める度量が欲しいものである。

 3以上、判断の各過程におけるエラーについて述べてきたが、それらに共通する心理を整理しておこう。
 まず、「認知的節約の原理」がある。限られた情報から欠けた部分を経験や先入観や単純な類推によって補い、効率よく事態を処理しようとする心理のことだ。4本人にとって負担が少ない思考法だが、そこにエラーが生じてしまうのだ。
 続いて、「認知的保守性の原理」を挙げよう。すでに持っているスキーマを保ち維持(いじ)しようとする傾向(けいこう)で、反証を無視したり、無理にでも自分の描()像に合わせてしまう心理である。5自分は一貫(いっかん)した考え方をしていると自認できるので心理的な安定感が得られることになる。だからこそ間違い(まちが )やすいとも言える。自分が安心できる思考法でつい安住してしまうからだ。
 6もう一つは、「主観的確証の原理」で、どちらともつかない証拠(しょうこ)だけでなく明らかな反証であっても、自分の予期を積極的に支持していると勝手に解釈(かいしゃく)する心理傾向(けいこう)である。「いやよいやよも好きのうち」と身勝手に思い込ん(おも こ )でセクシュアルハラスメントに及ぶ(およ )人間がその典型と言える。7自分の身勝手さに気づかず、全て他人のせいにして安閑(あんかん)としている人にお目にかかることが多いのはこのためだろう。被疑(ひぎ)者に対して状況(じょうきょう)証拠(しょうこ)しか見つかっていないのに犯人と決めつけ、すべてその仮定の下で解釈(かいしゃく)したがる例もある。8犯人が見つかっていないと不安だが、強引にでも決めつけてしまえば安心するのだ。(早く安心したいという気持が底に潜ん(ひそ )で
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いることもある。)この心理には、思考の経済性や一貫(いっかん)性なども絡み合っ(から あ )ている。こうなるともはや自省する気持を失ってしまう。
 9さらに付け加えるとすれば、「偶然(ぐうぜん)性を拒否(きょひ)したい心理」、言い換えれ(い か  )ば「確固とした因果関係として説明したい心理」もある。偶然(ぐうぜん)に起こったことであっても必然だと思い込み(おも こ )、それをきちんとした因果関係で説明しようとすると科学的な理由が見つからず、ついに超(ちょう)常的現象だと考えてしまうケースである。0予知夢がテレパシーしかないと解釈(かいしゃく)し、たまたま当たったのを透視(とうし)できたと受け取り、そのまま信じ込ん(しん こ )でしまうのだ。認知的エラーを自覚しない人ほど、自分の体験を絶対化して信じ込む(しん こ )傾向(けいこう)が強い。「しょせん、体験したことがない人にはわからない」として、他人の意見や忠告を受け入れなくなってしまうのだ。そして、自分の意見を強調すればするほどその信念はいっそう強くなっていき、もはや後戻り(あともど )が不可能になる。
 むろん、人間の認知エラーが多いと言っても、私たちは日常生活において大きな支障なしに生きている。それを無意識のうちに矯正(きょうせい)したり、または大きな問題が起こらないので気づかないままやり過ごしている。ときには認知エラーが人間の生存にプラスにはたらいていることもあると知っておくべきだろう。あまりに気にし過ぎると神経症(しんけいしょう)を病むことになりかねないからだ。
 ただ、突発(とっぱつ)的な事件が起こって即座(そくざ)の判断を迫ら(せま )れたり、すぐに合理的な解釈(かいしゃく)ができない事象に遭遇(そうぐう)したりしたとき、認知過程には誤りが多いことを自覚して、自分の推論を絶対化しないことが肝腎(かんじん)なのである。それは疑似科学に騙さ(だま )れていないか自らを点検することにも通じるからだ。

(池内了(りょう)『疑似科学入門』による)
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a 長文 4.2週 nnza
 1さて十九世紀の進行のうちに、自然科学がものすごい勢いで発達し、社会のあらゆるものをこれが動かすこととなるにつれて、科学精神は歴史をもとらえずにはおかなかったのであります。そして歴史は歴史科学と呼ばれることになります。2近代科学の開祖であるデカルトは、歴史をあまり重視しなかった。それは近代科学を歴史的制約の外に純粋(じゅんすい)に発展させるために必要な態度であったのですが、ここでは人間の知識ないし思想は二つにはっきり分かたれ、一方に厳密な自然科学があり、他方に文学があって歴史は後者の中に入れられていたのであります。3ところが、その後歴史は歴史科学の名の下に文学の世界から科学の世界に移るのであります。そこでは歴史はもはや過去の再現ではなく、一定の法則による過去の理論的構成であろうとし、また、自然科学がだんだん細かい分野に分かれると同じように、歴史も何々史、さらに何々における何々の研究というふうに細分化される。4その各々は全体をとらええぬかもしれぬが、それぞれの研究の成果は客観的な真理であるから、あたかも自然科学における一々の発見のように、後から来るものはそれを踏み台(ふ だい)として先に進むことができる。かくして蓄積(ちくせき)された厳密な史料によって全歴史がいつか構成されて成立する、というふうに楽観的に考えられたのだと思います。5そしてそうした科学的歴史は個人というものの価値を社会の中に埋没(まいぼつ)させる傾向(けいこう)を生じました。自然科学では蟻(あり)とか狼(おおかみ)とかの発生・進化を環境(かんきょう)に即し(そく )て研究するが、蟻(あり)や狼(おおかみ)の心理や個性(もしそういうものがあるとしたらの話ですが)を黙殺(もくさつ)する。6そうした科学をモデルとする以上、歴史における個人の軽視ということは当然であったといえます。
 ところで、歴史家が自然科学者のように自我を殺して、自分が歴史的世界に生きる人間であることを忘れ去って、歴史を研究し記述することが果たしてできるかどうか。7細部については、それは可能でありましょう。例えば、関ケ原の戦いに家康がどこから引き返して、どこで何日滞在(たいざい)し、何日かかって戦場に着いたかというようなことは古文書(こもんじょ)その他によって、厳密に決定することができ、また万一不正確な点があれば訂正(ていせい)もできます。8しかし、実はそういう仕事は考証家の仕事で歴史ではない。そういうデータが無限に集まれば自ずと歴史が出来上るのではないのです。歴史家はそれらを集めて歴史を書くのですが、関ケ原の役の意義を考えるにはその種の世界観がなくてはできず、つまり、史料の統一には史観というのが
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なければ成立しません。9そうすれば必ずそこに歴史家の主観が出てくるので、もしもまったく純粋(じゅんすい)な精神というようなものの持主があったとしたら、歴史など書かない、また書けもしないだろうと思われます。そもそも歴史事実の選択(せんたく)ないしとらえ方にも、その歴史家の史観は働くのであります。0もちろん、愛国心に作用されたり、伝統文化を偏愛(へんあい)したりして、その史観が何ほどか曇る(くも )といったことも起こりえましょう。しかし、こういうことは避け(さ )がたいことで、もしこれを恐れ(おそ )ていたならばデータの採集ないし小さな特殊(とくしゅ)研究以外に出られないことになります。クローチェは、歴史家が主観を抑える(おさ  )ことは、いわば禁欲であって不能であってはならぬといいましたが、味わうべき言葉だと思います。学問とは冷静な、計量された冒険(ぼうけん)なのであります。
 こうした素朴(そぼく)な客観主義の歴史観を根底から揺り動かし(ゆ うご  )たのは、最近の物理学、歴史がモデルとした自然科学そのものの基本をなす物理学の進歩であって、その物理学が素朴(そぼく)な客観主義ないし決定論を棄て(す )ねばならなくなったことであります。対象は研究者がたんに自我を殺して無私的に見れば見えるようなものではなくて、研究者がそこに操作を加えることによってはじめてとらえられるものである、とされるのであって、「研究者は彼(かれ)が研究するところのプロセスの中に押し入る(お い )」、そしてこのことは自然科学研究についても歴史研究についても共に正しい、とエドガー・ヴィント()はいっています。だからディルタイのいうように、歴史家は自己を脱却(だっきゃく)し、あらゆる時代に合一するようなことは可能で、もしそんなふうに現在から脱却(だっきゃく)しうる純粋(じゅんすい)な精神というようなものがあったら、その精神は歴史をとらえようとはしないでありましょう。この点、ヴァレリー()の言葉は意味深く読まれます。「歴史の真の性格は歴史自体に参与(さんよ)するということである。過去の観念が一つの意味を持ち、また一つの価値を形成するのは、自分のうちに未来への情熱を見出す人間にとってのみである。」

(桑原(くわばら)武夫「歴史と文学」による)
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a 長文 4.3週 nnza
 1分析(ぶんせき)とは外から見る立場です。というよりも、外からものを知る方法として、分析(ぶんせき)という仕方が生まれたのです。(中略)
 分析(ぶんせき)的方法の確立者とも言えるデカルトは「研究しようとする問題のおのおのを出来る限りの、そうして、それを最もよく解決するために要求される限りの、部分に分けること」と言っております。2そうして、それこそ、対象、あるいは問題の要素と言われるものなのです。その意味で、分析(ぶんせき)とは要素への還元(かんげん)であるとも言われるのです。
 例えば、水は水素と酸素からなるという場合、水はたしかに水素とか酸素とか私達が名づけるものから成り立っているのでありますが、3私達はそのもの自体を知るのではなく、水素とか酸素とか名づけることによって、それを理解するのです。もちろん、それは水素とか酸素とかいう言葉で示されるとは限らず、ドルトンが行ったように、4すべての原子を白い丸とか黒い丸とか、中に線を引いた丸とか中心に黒点を書き入れた丸とかいった図形的記号で示すことも出来ますし、さらにOとかCとかNとかHとかいういわゆる化学記号を用いることも出来ます。5そうして、科学の記号としては、一切が数学的記号で示されるのが理想でありましょう。が、ともかくいわゆる物質の要素も、分析(ぶんせき)的認識としては記号的認識以上には出ないのです。もっとも、ここにはさらに次のような疑問が起るかも知れません。6それは、水素、酸素などの原子ではまだ最後の要素ではないとしても、その原子を原子核(げんしかく)と電子にわけ、さらに核(かく)を陽子とか中性子とか中間子とかに分けてゆけば最後には真の物質的要素に到達(とうたつ)するのではないかという疑問です。7しかし、物質の成分をどんなに小さく分割していっても問題は少しも変りません。というのは、認識の対象が外にある限り、言い換えれ(い か  )ば、外からものを眺める(なが  )限り、やはりそれをとらえるためには、立場と記号が必要であるということには変わりはないからです。8むしろ、今述べたような極微(きょくび)の世界では、それを知るのはもはや、日常的な感覚や知性では不十分で、数学的表現のみがそれを正確に表わしうるのであることを思う時、分析(ぶんせき)的認識は記号的認識であるということは、一層明らかとなるのです。
 9以上お話ししましたことによって、分析(ぶんせき)するとは対象を記号と
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しての要素にわけることであることは明らかになったと思いますが、そこで注意しなければなりませんことは、その分析(ぶんせき)の要素とは、単にその対象だけにあるものではなく、他の多くのものにある一般(いっぱん)的要素であるということです。0例えば、水素や酸素は水にだけ含ま(ふく )れているものではなく、アルコールにも、空気の中にもあるのです。ということは、つまり、分析(ぶんせき)するとは、特殊(とくしゅ)なものを一般(いっぱん)的なもので理解するということなのです。そうして、それは、逆に言えば、もしユニークなもの、唯一(ゆいいつ)独自なものがあるとすれば、そのようなものは、分析(ぶんせき)出来ないということなのです。――このことは、動きと分析(ぶんせき)についても言えることで、刻々に変化するものは分析(ぶんせき)出来ないものなのです。なぜかと言いますと、分析(ぶんせき)するとは要素つまり、単位に分けることでありますが、単位とは、それが不変なもの変わらないものであればこそ単位と言えるのですが、対象が刻々に変っているとすれば、それらすべてに共通な単位というものは有りえないのです。もし、一刻の休みもなく変わっているものを何らかの記号で示そうとするなら、逆にその記号が次々に変わらなければならない。それは単位が変わるということである。しかし、それでは、それはもはや単位ではありません。
 このように考えてきますと、分析(ぶんせき)という認識方法は、すべての対象に適用出来るものではないことが明らかとなります。全く個性的な、絶対に他のものによって置き換え(お か )られない唯一(ゆいいつ)独自な、オリジナルなものと、刻々に新たになるもの、すなわち正しい意味の「時間」の認識には、分析(ぶんせき)的方法は適用出来ないのです。

(澤瀉久敬(おもだかひさゆき)「哲学(てつがく)と科学」)
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a 長文 4.4週 nnza
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 1経済学の父アダム・スミスはこう述べています。「通常、個人は自分の安全と利得だけを意図している。だが、彼(かれ)は見えざる手に導かれて、自分の意図しなかった公共の目的を促進(そくしん)することになる」。2ここでスミスが「見えざる手」と呼んだのは、資本主義を律する市場機構のことです。資本主義社会においては、自己利益の追求こそが社会全体の利益を増進するのだと言っているのです。
 3経済学者の「悪魔(あくま)」ぶりがもっとも顕著(けんちょ)に発揮されるのは、環境(かんきょう)問題に関してでしょう。多くの人にとって、資本主義が前提とする私的所有制こそ諸悪の根源です。環境(かんきょう)破壊(はかい)とは、私的所有制の下での個人や企業(きぎょう)の自己利益の追求によって引き起こされると思っているはずです。
 4だが、経済学者はそのような常識を逆なでします。私的所有制とは、まさに環境(かんきょう)問題を解決するために導入された制度だと言うのです。
 5『かつて人類は誰(だれ)のものでもない草原で自由に家畜(かちく)を放牧していました。家畜(かちく)を一頭増やせば、それだけ多く肉や皮やミルクがとれます。草原は誰(だれ)のものでもないので、家畜(かちく)が食べる牧草はタダです。6確かに一頭増えれば他の家畜(かちく)が食べる牧草が減り、その発育に影響(えいきょう)しますが、自由に放牧されている家畜(かちく)の中で自分の家畜(かちく)が占める(し  )割合は微々たる(びび  )ものです。それゆえ、人々は草原に牧草がある限り、自分の家畜(かちく)を増やしていくことになります。7その結果、牧草は次第に枯渇(こかつ)し、いつの日か無数の痩せこけ(や   )た家畜(かちく)がわずかに残された牧草を求めて争い合う事態が到来(とうらい)することになると言うのです。』
 8これこそ「元祖」環境(かんきょう)問題です。そして経済学者は、それは、自然のままの草原が誰(だれ)の所有でもない共有地であるがゆえの悲劇であると主張します。9環境(かんきょう)問題とは「共有地の悲劇」だと言うのです。
 『事実もし草原が分割され、その一画を牧場として所有するようになると、その中の家畜(かちく)はすべて「自分の」家畜(かちく)となります。0
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その時さらに一頭飼うかどうかは、その一頭が新たに牧草を食べることによって、牧場内の他の家畜(かちく)の発育がどれだけ影響(えいきょう)を受けるかを勘案(かんあん)して決めるようになるはずです。もはや牧草はタダではありません。他人に牧場を貸したり売ったりする時でも、その中の牧草の価値に応じた賃料や価格を請求(せいきゅう)するようになるはずです。牧草は合理的に管理され、共有地の悲劇から救われることになります。私的所有制の下での自己利益の追求こそが環境(かんきょう)破壊(はかい)を防止することになると言うわけです。」
 「悪魔(あくま)」の一員だけあって、経済学者の論理は完璧(かんぺき)です(私自身この論理を三十年間教えてきました)。実際、一九九七年の地球温暖化防止に関する京都議定書は、この論理を取り入れました。先進諸国に温暖化ガスの排出(はいしゅつ)枠(わく)を権利として割り当て、その過不足を売買することを条件付きで許したのです。
 ここでは温暖化ガスが汚染(おせん)する大気は家畜(かちく)が食べ荒らす(あ  )牧草に対応し、各国が売買しうる排出(はいしゅつ)枠(わく)は牧畜(ぼくちく)家が所有する牧場に対応しています。すなわち、それは大気という自然環境(かんきょう)に一種の所有権を設定することによって、それが共有地である限り進行していく温暖化という悲劇を解決しようとしているのです。
 では、これで環境(かんきょう)問題はすべてめでたく解決するのでしょうか?
 答えは「否」です。わが人類は不幸にも、経済学者の論理が作動しえない共有地を抱え(かか )ているのです。
 それは「未来世代」の環境(かんきょう)です。

(岩井克人()「未来世代への責任―()―()経済学の「論理」と環境(かんきょう)問題の「倫理(りんり)」―()―()」による)
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長文 4.4週 nnzaのつづき
 1私は『牡丹(ぼたん)灯籠(どうろう)』の速記本を近所の人から借りて読んだ。その当時、わたしは十三、四歳(さい)であったが、一編の眼目とする牡丹(ぼたん)灯籠(どうろう)の怪談(かいだん)の件を読んでも、さのみに怖い(こわ )とも感じなかった。どうしてこの話がそんなに有名であるのかと、いささか不思議にも思う位であった。2それから半年ほどの後、円朝が近所(麹町(こうじまち)区山元町)の万長亭(てい)という寄席へ出て、彼(か)の『牡丹(ぼたん)灯籠(どうろう)』を口演するというので、私はその怪談(かいだん)の夜を選んで聴き(き )に行った。作り事のようであるが、あたかもその夜は初秋の雨が昼間から降りつづいて、怪談(かいだん)を聴く(き )には全くお誂え(あつら )向きの宵(よい)であった。
3「お前、怪談(かいだん)を聴き(き )に行くのかえ」と、母は嚇す(おどか )ようにいった。
「なに、牡丹(ぼたん)灯籠(どうろう)なんか怖く(こわ )ありませんよ。」
 速記の活版本でたかをくくっていた私は、平気で威張っ(いば )て出て行った。ところが、いけない。4円朝がいよいよ高座にあらわれて、燭台(しょくだい)の前でその怪談(かいだん)を話し始めると、私はだんだんに一種の妖気(ようき)を感じて来た。満場の聴衆(ちょうしゅう)はみな息を嚥(の)んで聴き(き )すましている。伴蔵()とその女房(にょうぼう)の対話が進行するにしたがって、私の頸()のあたりは何だか冷たくなって来た。5周囲に大勢の聴衆(ちょうしゅう)がぎっしりと詰めかけ(つ   )ているにもかかわらず、私はこの話の舞台(ぶたい)となっている根津(ねづ)のあたりの暗い小さい古家のなかに座って、自分ひとりで怪談(かいだん)を聴か(き )されているように思われて、ときどきに左右を見返った。今日と違っ(ちが )て、その頃(ころ)の寄席はランプの灯が暗い。6高座の蝋燭(ろうそく)の火も薄暗い(うすぐら )。外には雨の音が聞こえる。それらのことも怪談(かいだん)気分を作るべく恰好(かっこう)の条件になっていたには相違(そうい)ないが、いずれにしても私がこの怪談(かいだん)におびやかされたのは事実で、席の刎()ねたのは十時頃(ころ)、雨はまだ降りしきっている。私は暗い夜道を逃げる(に  )ように帰った。
 7この時に、私は円朝の話術の妙(みょう)ということをつくづく覚った。速記本で読まされては、それほどに凄く(すご )も怖(おそ)ろしくも感じられ
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ない怪談(かいだん)が、高座に持ち出されて円朝の口に上ると、人を悸()えさせるような凄味(すごみ)を帯びて来るのは、実に偉い(えら )ものだと感服した。8時は欧化(おうか)主義の全盛時代で、いわゆる文明開化の風が盛んに吹き(ふ )捲く(ま )っている。学校に通う生徒などは、もちろん怪談(かいだん)のたぐいを信じないように教育されている。9その時代にこの怪談(かいだん)を売り物にして、東京中の人気を殆ど(ほとん )独占(どくせん)していたのは、怖い(こわ )物見たさ聴き(き )たさが人間の本能であるとはいえ、確かに円朝の技倆()に因るものであると、今でも私は信じている。0(中略)
 前にもいう通り、話術の妙(みょう)をここに説くことは出来ないが、たとえばかの孝助が主人の妾(めかけ)お国の密夫源次郎(げんじろう)を突こ(つ )うとして、誤って主人飯島平左衛門を傷つけ、それから屋敷(やしき)をぬけ出して、将来の舅(しゅうと)たるべき相川新五兵衛の屋敷(やしき)へ駈け(か )付けて訴える(うった  )件など、その前半は今晩の山であるから面白いに相違(そうい)ないが、後半の相川屋敷(やしき)は単に筋を売るに過ぎないであまり面白くもない所である。速記本などで読めば、軽々に看過ごされてしまう所である。ところが、それを高座で聴か(き )されると、息もつけぬほどに面白い。孝助が誤って主人を突い(つ )たという話を聴き(き )、相手の新五兵衛が歯ぎしりして「なぜ源次郎(げんじろう)……と声をかけて突か(つ )ないのだ」と叱る(しか )。文字に書けばただ一句であるが、その一句のうちに、一方には一大事出来(しゅったい)に驚き(おどろ )、一方には孝助の不注意を責め、また一方には孝助を愛しているという、三様の意味がはっきりと現れて、新五兵衛という老武士の風貌(ふうぼう)を躍如(やくじょ)たらしめる所など、その息の巧み(たく )さ、今も私の耳に残っている。団十郎(じゅうろう)もうまい、菊五郎(きくごろう)もうまい。しかも俳優はその人らしい扮装(ふんそう)をして、その場らしい舞台(ぶたい)に立って演じるのであるが、円朝は単に扇(おうぎ)一本をもって、その情景をこれほどに活動させるのであるから、実に話術の妙(みょう)を尽くし(つ  )たものといってよい。名人はおそるべきである。

(岡本(おかもと)綺堂(きどう)『岡本(おかもと)綺堂(きどう)随筆(ずいひつ)集』による)
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a 長文 5.1週 nnza
一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。
 1ハマーショルドの日記はきわめて特異である。国連事務総長という要職にあった人の、またその職責にひたむきに献身(けんしん)していた人の手になるものでありながら、職務にかかわる記述が一行としてない。2それを読んだだけで書き手の職業を言い当てるのは、おそらく不可能だろう。世俗(せぞく)的な属性だけではなく、時間も空間もすべて超越(ちょうえつ)しているかに見える。時折現れる日付さえ、この印象を拭い(ぬぐ )去りはしない。3それはそうだろう。この日記は彼(かれ)と「神とのかかわり合いに関する白書のようなもの」(友人のレイフ・ベルフラーゲ宛(あて)の遺書)なのだから。
 4神との対話は透徹(とうてつ)した自己省察となる。もし神の視線が自分に照射されたなら明るみに出されるのは何か、それを測り尽くす(つ  )とでも言うかのように、ハマーショルドは自分の弱さと卑小(ひしょう)さを見つめ続けた。5「それから目をそらしたなら、たちまち自分の行動の誠実さを脅かす(おびや  )ことになるから」(一九五七年四月七日)である。傲慢(ごうまん)さや自己憐憫(れんびん)、怯懦(きょうだ)や取るに足らぬ自尊心を徹底的(てっていてき)に排除(はいじょ)した。6彼(かれ)にとって誠実な生の営みとは、存在にまつわるそれらの夾雑(きょうざつ)物をぎりぎりまで削ぎ(そ )落とすことだった。日記中に引用されている次の文章が、そうした彼(かれ)の思考をあますところなく伝えている。
 7大地に重みをかけぬこと。悲愴(ひそう)な口調でさらに高くと叫ぶ(さけ )のは無用である。ただ、これだけでよい。
 ―()―()大地に重みをかけぬこと。(一九五一年・日付不明)
8「大地に重みをかけぬこと」とは、言いかえれば自己放棄(ほうき)つまりおのれを空しくすることを意味する。この自己放棄(ほうき)(ないしは自己滅却(めっきゃく))という言葉はしばしば日記の中で用いられており、ハマーショルドの思想的中心点の一つだと言ってよい。9それは夾雑(きょうざつ)物に惑わさ(まど  )れたり、自分自身にのみ拘泥(こうでい)したりせぬことである。こうして彼(かれ)は、精神の高みに飛翔(ひしょう)する瞬間(しゅんかん)のために準備を続けた。0
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まさに魂(たましい)の彫琢(ちょうたく)とでも呼ぶほかはない。
 何がこれほどまでに、彼(かれ)を魂(たましい)の彫琢(ちょうたく)に駆り立て(か た )たのだろうか。この人の「憧れ(あこが )」は何であったのか。ここで私たちは、「よき死のための成熟」という一つの答えに出会う。
「死はおまえから生に捧げる(ささ  )決定的な贈物(おくりもの)たるべきであり、生に対する裏切りであってはならない」(一九五一年・日付不明)、そう彼(かれ)は自分に語りかけている。そこに見られるのは、漠然と(ばくぜん )した死への恐怖(きょうふ)などではなく、躍動(やくどう)する生の営みの果てに積極的に死を迎え入れよ(むか い  )うという、確固たる姿勢である。みずから命を絶つ諦(あきら)めでもなければ、他人の生を踏みしだく(ふ    )傲慢(ごうまん)さでもない。
 死を「生に対する贈物(おくりもの)」にすべく彼(かれ)が求めてやまなかったのは、「成熟」ということだった。一九五三年四月七日、国連事務総長に就任した日の日記には、くり返しそれへの渇望(かつぼう)が書かれている。たとえば、「成熟―()―()なかんずく、子供が仲間と遊んでいるときのように、現在の瞬間(しゅんかん)に明るく澄ん(す )だ無心さで遊び、仲間と心がひとつになりきって影(かげ)ひとつささぬ境地」。遊びほうける幼子との結びつけが意表を衝く(つ )が、この「無心さ」が、実は自己滅却(めっきゃく)と同じものであると考えるならさほど不思議はない。こうして彼(かれ)は、国連事務総長という、「世界で最も不可能な仕事」(初代事務総長T・リー)を、気負いも昂(たか)ぶりもせずに、成熟と自己滅却(めっきゃく)という自分自身の原則を静かに再確認することだけで始めたのだった。

(最上敏樹()『国境なき平和に』による)
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長文 5.1週 nnzaのつづき
 1劇は、つねに宗教的な秘儀(ぎ)のうちに、その起原を置いている。ギリシア劇においては、そのことが明瞭(めいりょう)に看取される。その宗教的背景が、シェイクスピア劇では、一見うしなわれているかのように見えるのだ。(中略)
 2もちろん、かれの詩的天才を疑うものはいない。またやや通俗(つうぞく)的ではあるが、その作品の劇的効果は否定しえない。それにしても、近代的な合理主義からいえば、かれの作劇術は、あまりにも粗雑(そざつ)にすぎ、実証的な写実主義からいえば、心理的リアリティを欠いている。3その精神や思想にいたっては、私たちはシェイクスピアのなかに一個の人間である作者の像をみとめることができない。つまり、かれは近代的な意味における芸術家ではない。ひとびとはいうであろう、ハムレットやリアの主張を読みとることができても、作者の主張はどこにも読みとれない。作者はどこにいるのか、と。
 4そういうひとたちに、私は答える。すでにいったように、私は個人の主張などというものに、もはやなんの興味も感じない。個性や心理の、いかに微細(びさい)な分析(ぶんせき)も、いまの私にはなんら新鮮(しんせん)な、驚異(きょうい)や喜びを与え(あた )ない。5すべてはわかりきったことだ。それらは季節に開花する路傍(ろぼう)の花ほどにも、私の眼を惹か(ひ )ぬであろう。が、作者の思想と現実の分析(ぶんせき)とがなくして、現代文学はなりたたぬ。問題は、それが路傍(ろぼう)の花にどう道を通じているかである。6私ばかりではあるまい。私たちが求めるのは博物学でも博物学者でもなく、生きた花なのではないか。シェイクスピアから私たちが受けとるものは、作者の精神でもなければ、主人公たちの主張でもない。7シェイクスピアは私たちになにかを与えよ(あた  )うとしているのではなく、ひとつの世界に私たちを招き入れようとしているのである。それが、劇というものなのだ。それが、人間の生きかたというものなのだ。
 8宗教的な秘儀(ぎ)は、つねにそのことを目的としていた。見ることを許された特定のひとたちを、眼前に「おこなわれていること」の世界に引きずりこむのが秘儀(ぎ)の目的である。いわば路傍(ろぼう)の花が私たちを季節のなかに引きずりこむように、奥儀(おうぎ)が啓示(けいじ)されるのである。(中略)9サルトルが「嘔吐(おうと)」のなかで女にいわせている「
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完璧(かんぺき)な瞬間(しゅんかん)」というのも、じつはそういうものを背景にしなければ成りたたぬのである。対象とのあいだに、違和感(いわかん)を見ず、自己も対象も部分のままでありながら、全体に抱き(いだ )かかえられている瞬間(しゅんかん)、それを女は欲した。そして失敗した。0相手の男が協力しなかったからである。ということは、女は男のまえで、路傍(ろぼう)の花にたいするようにすなおに自分の違和感(いわかん)を棄て(す )さることができなかったということだ。のみならず、女は相手にそれを棄てる(す  )ことを求めていたのである。いいかえれば、自分が主役を演じうるように、相手がふるまうことを期待していたのである。もし、個人が、個人の手で全体性を造りあげようとすれば、自分がその中心になり、相手を自分のまえに跪か(ひざまず )せるまでは、とどまることを知らぬのである。「嘔吐(おうと)」のなかの女は、たとえ受身の端役(はやく)においても、主役を批判し制御(せいぎょ)しようとしているではないか。
 対象を路傍(ろぼう)の花にかぎれば、それは逃避(とうひ)にしかならぬ。が、自然のみを対象とすることも、今日ではすでに逃避(とうひ)である。天災と戦おうとする科学は、私たちの自然にたいする支配慾(よく)の現れかもしれぬが、その裏で、もし私たちが自然との調和だけを心がけるとしたなら、やはりそれは逃避(とうひ)であろう。同様に、階級や戦争の悪を根絶しようとする試みも、私たちのあいだにあっては、容易に逃避(とうひ)に転化しうるのだ。

(福田恆存(つねあり)「人間・この劇的なるもの」)
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a 長文 5.2週 nnza
 1就業人口の半分以上が従事する産業に時代を代表させ、社会の発展段階を狩猟(しゅりょう)社会、農業社会、工業社会、情報社会と分類すると、現在は情報社会の盛期に位置するという解釈(かいしゃく)がある。
 2それぞれの社会がどれくらいの期間にわたり持続したかを計算してみると、現代の人間の直系の祖先をネアンデルタールなど後期石器時代の人類とすれば、狩猟(しゅりょう)社会は数万年、農業社会は数千年、工業社会は数百年という単位で継続(けいぞく)し、二十世紀の中ごろから出発した情報社会が数十年という単位で経過したのが現在ということになる。(中略)
 3農業社会は特定の地域で特定の作物が集中して栽培(さいばい)される単品種多生産方式が特徴(とくちょう)である。工業社会になると、種類を限定した製品を大量に生産する少品種多生産になる。
 情報社会になると、工業製品であっても、同一の仕様のものはきわめて少数しか生産しない多品種少生産が特徴(とくちょう)となる。4情報社会の産業のコメといわれる集積回路(IC)の中の特定用途(ようと)集積回路はその代表である。この特徴(とくちょう)は生産技術の進歩にもよるが、希少であるほど価値があるという情報の性質を反映していると理解してもよい。
 5この方向を発展させると、一品種一生産という特徴(とくちょう)が浮かび上がる(う  あ  )。ある製品を一品ずつしか生産しないという特徴(とくちょう)は、産業革命以前に逆行するかのようだが、この一品種一生産は高度な技術に支援(しえん)された方式である。6各種の製品についてこのようなシステムが実用化すれば、一品種一生産であっても産業革命以前とは根本的に違う(ちが )生産方式が実現することになる。
 農業の発生と並行して集合し定住するという生活形態が出現したが、それは農業が短期に多くの労力を必要とするからであり、労働集約生産が農業社会の特徴(とくちょう)である。7工業社会でも労力は必要だが、より重要な要素は生産設備である。高度な設備の導入が生産効率を向上させるため、企業(きぎょう)が競って工場に最新の設備を投入する設備集約生産が工業社会を特徴(とくちょう)づける。
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 情報産業の代表であるソフトウェア産業では状況(じょうきょう)は大幅(おおはば)に変化する。8この分野は新規の労働集約産業といわれ、端末(たんまつ)装置が配置された部屋に多数の人間が集まってソフトウェアを生産する。しかしそれらの人間は肉体労働をしているわけではなく、高度な知識を駆使(くし)して知的生産に従事しており、知識集約産業と表現するのが適切である。
 9次期社会の重要な産業になると期待されているものに映像産業がある。衛星放送やCATV(有線テレビ)の普及(ふきゅう)によりテレビジョンの総放送時間数は急増し、今後十年間で四倍程度に増加すると予測される。一部は過去の映画などを利用するとしても、ほとんどは新規に制作される必要がある。0
 この制作も多数の人間による労働集約的な生産であるが、そこで要求されるのは農業社会での労力でも情報社会の知識でもなく、人間が感動したり感激したりする内容を創造する能力である。この能力を「感性」と表現すれば、次期社会での産業は感性集約産業ということができる。
 工業社会から情報社会に移行する時期に、重厚長大から軽薄(けいはく)短小への転換(てんかん)という言葉が流行した。重量や容積当たりの価格が高価な製品に産業が移行するという現象だが、「軽薄(けいはく)短小」以後は、そのような言葉では表現できない製品を生産する産業が登場してくる。
 次代の十兆円産業と期待される映像産業が創造するイメージウェアは、重量で計測できる製品ではなく、まったく異質の価値基準でなければ測定できず、そこで誕生してきた表現が「美感遊創」である。
 (中略)
 終焉(しゅうえん)しつつある情報社会を代替(だいたい)して出現する感性社会では、技術は芸術も目指し、技術者は芸術家に変身すると言えよう。

 (月尾(つきお)嘉男(よしお)「産業技術」による)
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a 長文 5.3週 nnza
 1われわれのからだは、そのすべての部分がいつも同じようにはたらいているわけではない。寝(ね)ているとき、座っているとき、しゃべっているとき、歩いているときは、はたらいている神経も筋肉も同じではない。われわれは、刻一刻たえず新しい身の統合をなしとげている。2このたえず変化する動的な統合の複雑さには、どのような人工的システムもかなわないだろう。だがこの現実的な統合が身の統合のすべてではない。
 道を歩いている人のなかには、剣道(けんどう)の達人もあれば、ピアノの上手な人もあるだろう。3道を歩くという現実的な統合の範囲(はんい)にとどまるかぎり、ふたりの身の統合の構造は似たようなものであり、からだとしては同じだ、といえるかもしれない。しかし、それがふたりの身の真の姿ではない。ふたりの身は、今は実現していないが、実現しうる潜在(せんざい)的な統合可能性を構造化している。4ひとりの身のうちには、これまでの剣(けん)の立ち合い、さらにはこれまでの剣道(けんどう)の歴史、剣(けん)禅(ぜん)一致(いっち)の思想までも、肉化しているかもしれない。ピアノを弾く(ひ )人は、ピアノの鍵盤(けんばん)を身体図式のうちに組みこみ、ピアノ曲の解釈(かいしゃく)の歴史、演奏法の伝統をも潜在(せんざい)的な身の統合のうちに包みこんでいる。5身は解剖(かいぼう)学的構造をもった生理的身体であると同時に、文化や歴史をそのうちに沈澱(ちんでん)させ、身の構造として構造化した文化的・歴史的身体にほかならない。つまり身体は文化を内蔵するのである。(中略)
 この内蔵化の過程というのは、連続的な過程にみえて、実はかなり不連続である。6スポーツでも楽器の演奏でも、あるいはもっと抽象(ちゅうしょう)的な学習でもよい。試みるたびにうまくなり、理解が進むのは当然として、あるとき突然(とつぜん)身の動きが自由になり、頭が晴れる思いをすることがあるのではないだろうか。あたかもそれまで無かった網目(あみめ)が突然(とつぜん)身のうちに張りめぐらされたかのように。7経験は身のうちに沈澱(ちんでん)し、くりかえしは(能動的な訓練の場合はもちろん、とくに意識することなくくりかえしている場合でも)、自分では気がつかない小さな発見と創造によって、まだ不確定な網目(あみめ)を潜在(せんざい)的に身のうちに紡ぎ(つむ )出しているのではないだろうか。
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 8練習は、能動的に身をある方向に整除して、統合を容易にする回路を身のうちに形成する試みである。身体を動かさないイメージ練習や、イメージを積極的に浮かべ(う  )て練習することが、動きを内蔵する早道であることがある。9これは意識的・能動的な統合である。ところが逆につぎの段階では、イメージが邪魔(じゃま)になる。こんどは動きによってイメージを消し、無心の状態に達することが必要になる。場合によっては、練習を休むことによって、上手くなったり、こつがつかめることさえある。0この場合にはたらいているのは、無意識的・受動的な統合ともいうべきものである。休んでいる間も練習された動きは、徐々に(じょじょ )身のうちに沈澱(ちんでん)し、動きのネットワークが受動的に構成され、あるとき突然(とつぜん)網目(あみめ)がつながるのであろう。
 ところが一たん網目(あみめ)ができあがると、くりかえしはただの反復に陥り(おちい )がちである。最も抵抗(ていこう)のない道がえらばれ、習慣は惰性(だせい)となるだろう。しかし惰性(だせい)なくりかえしは、あるとき飽和(ほうわ)状態になる。われわれは突然(とつぜん)惰性(だせい)的生に飽き(あ )ていることを発見する。
 どんな立派な計画やユートピアにたいしても、「否!」という少数者がいるというだけではなく、計画は現実化するにつれて惰性(だせい)化し、それに飽き(あ )た多数者を生み出す。哲学(てつがく)者の故生松敬三氏の巧み(たく )な表現を借りれば「人間はユートピアにさえ飽きる(あ  )存在」なのである。人間は座りつづけることもできないし、立ちつづけることもできない。すぐに惰性(だせい)化する存在でありながら、惰性(だせい)的でありつづけることもできない。人間は易きにつく存在だから、禁欲の時代のつぎに享楽(きょうらく)の時代が来るのはわかりやすい道理である。面白いのは、人間は享楽(きょうらく)にも飽きる(あ  )ということである。享楽(きょうらく)の時代のつぎに禁欲の時代が来るという不思議さ――同じ状態を永くつづけることができない人間のいたたまれなさは、動かしがたくみえる生き方を転換(てんかん)し、不可避(ふかひ)とみえる袋小路(ふくろこうじ)を打開する力さえもっている。これが惰性(だせい)的=創造的な習慣的身体の逆説である。

 (市川浩(ひろし)の文章による)
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a 長文 5.4週 nnza
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 マインド・コントロール概念(がいねん)の導入は、カルト問題の現場に大きな変化をもたらした。なぜ人がカルトに入信するかを説明する、明確な道具ができたからである。それまでは、これらは親子関係や教育問題などから言及(げんきゅう)されていた。マインド・コントロール概念(がいねん)はメンバーが自分に起きた出来事を理解する手立てとなり、家族が状況(じょうきょう)を理解するためにも役立った。これを臨床(りんしょう)心理学の言葉に置き換えれ(お か  )ば、心理教育ということになるであろう。心理教育とは、症状(しょうじょう)や行動がどのようなメカニズムで起きているか、それを緩和(かんわ)させたり予防したりするにはどうしたらよいかを教育する介入(かいにゅう)方法である。この機能は、今後も十分に役立つであろう。
 反面、この説明がいつでも有効性を持つわけではないことも事実である。ありがちなのは「自分はマインド・コントロールされていたのではなく、自分で選んだのだ」という主張である。この場合、マインド・コントロール概念(がいねん)は自身のプライドを傷つけるものとして語られる。ここには、自分には十分なコントロール能力があり、その結果、信じたのであって、他人の思うようにコントロールされていたわけではないという反発のニュアンスが含ま(ふく )れる。実際、個々のケースにおいて、個人がどの程度マインド・コントロールと呼ばれるものの影響(えいきょう)下にあったかは、究極的には知る術がない。
 HowモードとWhyモード
 マインド・コントロールという社会心理学的説明で、すべてが解決されるわけでもない。なぜなら、社会心理学が担えるのは事象の説明や解明であり、当事者が自身の経験をどう受け止めるかという臨床(りんしょう)的側面は担っていないからである。「自分がマインド・コントロールされていたことは、よくわかった。でも、それが何になるのか」という言葉を当事者から聞くことは、しばしばある。これは、How(いかに)とWhy(なぜ)の相違(そうい)である。人の持つ知的欲求として「どうして」を知りたい場合と「なぜ」を知りたい場合とがある。これは対象となる事象によっても異なるであろうし、どちらを知ることが満足につながるかが個人のメンタリティによって異なることもある。カルトがもたらす信念は、元来Whyに重点を置くものである。例えば「なぜ社会には、こんなに悪がはびこっているのか」「なぜ私は、こんなに生き辛い(つら )のか」などの疑問や
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苦悩(くのう)に答えるところから、これらの信念は魅力(みりょく)を呈する(てい  )。よって、これらの集団にはWhyに関心を引き寄せられやすい人が残ることになる。
Whyは形而上(けいじじょう)的な問いであり、そもそも多くの人が納得する正答を用意する性質のものではない。カルト・メンバーに教義論争を吹き掛け(ふ か )て、出口の見えない堂々巡り(どうどうめぐ )に陥る(おちい )のは、このためである。信じるか信じないかの基準しかないものに、客観的な正当性を求めるのはナンセンスである。したがって、カルト的思考を持った個人が別の視点を見出すのは、刑(けい)而()上的な問いの前提に自ら疑問を持つときか、思考の方向性がHowのモードに切り替わっ(き か  )たときのいずれかであろう。そこで個人がHowを理解すれば、それだけで事足りる場合もある。だが、そもそもWhyに関心を持っていた彼ら(かれ )は、原点に戻る(もど )場合も少なくない。それは、哲学(てつがく)的・宗教的問いに対する絶対的な答えを失い、呆然と(ぼうぜん )立ちすくむWhyであることも、過去の個人的経験に対するWhyであることもあるであろう。

(戸田京子「カルト問題における心理学――社会心理学から見えるもの・臨床(りんしょう)心理学から見えるもの」による)
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長文 5.4週 nnzaのつづき
 1「日本人は、奈良(なら)時代には梅が好きだった。ところが平安時代から好みが変って、桜を愛するようになった」
 と、こんなことを教室で教えられたり、本で読んだりしたことは、ないだろうか。少くとも私はそうだった。こう書いてある本も、いっぱいある。
 2しかし、そんな事実はない。太古以来、日本人は桜を愛してきたのである。
 それでは、どうしてこんな間違い(まちが )がおこったのか。じつは奈良(なら)時代にできた『万葉集』という歌集でいちばんたくさん詠ま(よ )れた花は、梅である。
 だから、みんな、梅が好きだったと思った。
 3ところが、これは当時の中国好みの貴族趣味(しゅみ)によるもので、ある歌人などは梅見に人びとを招集し、みんなでいっせいに四十首ほどの梅の歌を作った。おまけに、後からこの時をしのんで梅の歌を作った人もある。
 こうなるといっきょに梅の歌の数がふえてしまう。4その数を、歌の性質を吟味(ぎんみ)しないで数えたから、個人やごく少数の人の好みを、一般(いっぱん)の人の好みと勘(かん)ちがいしてしまったのである。
 反対に、単純に桜の歌を数えると、数は梅に及ば(およ )ない。しかし桜が民衆的には熱烈(ねつれつ)に愛されていることがわかる。
 5また、平安時代になっても、ごく初期のころには、宮中の正殿(せいでん)の前に、梅と橘(たちばな)が植えられていた。それが火事で焼けて、その後桜と橘(たちばな)に変った。そこでまた、人びとは梅から桜へと趣味(しゅみ)が移ったと誤解するのだが、最初は万事中国好みの宮廷(きゅうてい)だったから、梅を植えたのである。6やがては素直に、日本趣味(しゅみ)にしたがって桜を植えた。
 そこで、今後は若い世代にも「日本人はずっと桜を愛してきた」と、言おうではないか。
 しかし、そうなると日本人はどうしてこうも、長い間桜を愛しつづけるのだろうという疑問がわく。7もう桜は、遺伝子の中に組みこまれてしまった記号だろうか。(中略)
 もう桜は、日本人の遺伝子の問題である。
 ではどんな遺伝子なのだろう。
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 先ほど『万葉集』について述べたが、その中に、次のような一首がある。

  桜花 時は過ぎねど 見る人の 恋(こい)の盛りと 今し散るらむ

 8桜の花はどうして散るのか、作者は推測する。「この桜の花は次のように思って散るのではないか」と。つまり桜は「私を見ている人は、いまが一番私を愛してくれている」と思う。だから桜はしおれるのを待たないで散ろうと思う。
 そう、作者は桜の落花を納得した。
 9人間にいいかえてみると、恋人(こいびと)がいま、一番私を愛してくれている。だから自殺をしよう――そう思うことになる。
 そんな人がいたら、盛りの命の死を惜しま(お  )ない人はいない。
 もっと生きつづけて永遠の愛に生きればよかったのに、とやや批判をする人もいるだろう。0しかし反面、長くは生きられない命だから、花の盛りに死んでよかった、と賛成する人もいるだろう。
 いずれにしても、これらは時間の中で命を見ていることに変りはない。
 命は時間の力を、まぬがれがたい。
 このもっとも根元的な命の課題を、死からもっとも遠い花の絶頂期に考えることの、衝撃(しょうげき)力は強い。
 万葉の歌の作者は、桜の花をじっと見ることによって、無意識に体の中にたたえられていた命のうつろいが誘い出さ(さそ だ )れ、花の姿がわが命の代行者として映ったのだろう。人間の死の想いを誘い出し(さそ だ )たものは、花のあまりもの美しさだったことになる。

(中西進の文章による)
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a 長文 6.1週 nnza
一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。
 1一七九〇年、フランス革命政府議会は、それまでのように人体を尺度にした、地方ごとに違う(ちが )長さの測り方をやめ、世界中同じ単位で長さを測れるようにしようという決議をした。2この時代には、グローバリゼーションの震源(しんげん)地はアメリカではなく、フランス革命政府だったのだ。
 3だが同様に普遍(ふへん)指向が強かった古代ギリシャの生んだ哲学(てつがく)人プロタゴラスは、「人間は万物の尺度なり」という、特殊(とくしゅ)指向こそが普遍(ふへん)的だという、見事な逆説的命題を吐い(は )た。4実際、人体のさまざまな部分を規準にした尺度は、十八世紀末までは、まさしく普遍(ふへん)的に、誰(だれ)もそれを怪しむ(あや  )ことなく、国ごと、地方ごとに用いられていたのだ。
 5フランスで当時用いられていた、長さを測る単位には、アンパン(片手の指をいっぱいに広げたときの親指の先から小指の先まで)、クーデ(肘(ひじ)から伸ばし(の  )た中指の先まで)、ピエ(足の意。ヤード・ポンド法のフィート「足」に対応)、6プース(足の親指の意。一ピエの十二分の一)、トワーズ(身の丈(み たけ)の意。六ピエ)、ブラス(両腕(うで)を伸ばし(の  )て広げた長さ。五ピエ。日本の尋(ひろ)に対応)等があった。7クーデに対応する日本の尺は、呉服尺(ごふくじゃく)、鯨尺(くじらじゃく)、曲尺(かねじゃく)でも違う(ちが )が、やはり前腕(ぜんわん)の骨の長さから来た尺度だ。8布などを測るのに肘(ひじ)を曲げたかたちは測りやすいのか、西アフリカのモシ社会でも、細長い帯状に織った綿布を売るとき、曲げた肘(ひじ)から中指の先までの長さを単位にして測る(カンティーガ、複数でカンティーセという)。9日本語で前腕(ぜんわん)の小指側の骨を尺骨(しゃっこつ)と呼ぶことからも、この測り方と前腕(ぜんわん)との関連が窺わ(うかが )れる。尺骨(しゃっこつ)を指すラテン語の解剖(かいぼう)用語はulnaだが、これは古代ローマでの長さの単位でもあった(三七センチに対応するから、日本の呉服尺(ごふくじゃく)と鯨尺(くじらじゃく)のあいだくらいの長さだ)。0尺という漢字は手の親指と中指を開いた象形で、日本では咫(あた)だ(掌(てのひら)の下端(かたん)から中指の先までともいわれる)。
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 一七九一年、フランス革命政府は学者を招集して、地球の北極点から赤道までの経線の距離(きょり)の一千万分の一を、世界に共通する長さの単位とすることを決定した。だが実際にこの距離(きょり)を測ることはできないので、フランス北岸のダンケルクから、地中海に面したスペイン領バルセロナまでを精密な三角測量で測り、両端(りょうたん)の地点の緯度(いど)から、北極点・赤道間の距離(きょり)を算出するという方法がとられた。
 この二地点のあいだは山岳(さんがく)地帯が多く、革命直後で政情も不安定であり、測量は困難を極めた。それでも一七九八年に測量を完了(かんりょう)し、翌年には白金製のメートル原器が作られた。地方ごとに人間中心で作られていた尺度を、ヒトを離れ(はな )た「地球」(グローブ)の寸法から割り出すことにしたのだから、これこそ語義通りの「グローバリゼーション」の先駆け(さきが )というべきだろう。
(中略)
 アメリカ合衆国は一八七五年の国際メートル条約の原加盟国だが、ヤード・ポンド法は「慣習的単位」として禁止されていないどころか、日常生活ではこちらの方が普通(ふつう)に用いられている。しかもアメリカの影響(えいきょう)が強い航空・宇宙関係の国際用語では、メートル法を採用している国も、アメリカの「慣習的単位」に合わせざるをえない状態だ。国際線の旅客機でも、高度や距離(きょり)の表示に、メートルとフィートが併用(へいよう)されていることは、よく知られている。
 現代におけるグローバル化の中心にある米英が、かつてのフランス主導のグローバル化に対して、ローカルな「慣習的単位」に固執(こしつ)している事実を見ても、グローバル対ローカルという関係が、文化外の要素も多分に含む(ふく )「力関係」の上に成り立っていること、普遍(ふへん)指向と特殊(とくしゅ)な慣習的価値の尊重という対立も、状況(じょうきょう)次第、「力関係」の都合次第でいかに変わるものであるかがよく分かる。

(川田順造『もう一つの日本への旅』による)
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長文 6.1週 nnzaのつづき
 1もしも「忘れる」という現象が境界の融け(と )てしまう現象であるとしたら、この「融け(と )てしまう」という現象の形で現れているものをさらに私は問わなくてはならない。というのも「融け(と )てしまう」というのは、融け(と )て消えてしまうというような意味では決してないからである。
 2融ける(と  )というのは、一滴(いってき)のインクが大海のなかに拡散的に融け(と )てなくなるというようなものではない。そうではなくて自分を保ちながら、ある相手と交わり、そのあいだの境界を融かし(と  )てしまうあり方のことをここでは意味している。
 3これはある交流の形態である。私たちはたしかに大気や大地といつも交流し、交感し合っている。実際私たちの生理現象(呼吸や消化や新陳代謝(しんちんたいしゃ)等)はまさに大気や大地との相互(そうご)性そのものである。しかし問題は、そういう相互(そうご)性そのものに目をとめよ! というところにあるのではない。4そうではなくて、そういう相互(そうご)性を私たちは少しも自覚していない、つまりそれを忘れているという現象の方に注目しようというのである。
 生理学や生態学であれば、おそらくその相互(そうご)性そのものに諸手でとびついて、いかに生体が環境(かんきょう)世界と交わり合っているか、得意気に説明しにかかるであろう。5素人の私たちは、そんなにもたくさんな関係を自分たちは外界とむすんでいるのかと、説明されるたびに感心することになるだろう。けれども実際のところは、そういう説明を聞いたその十分もたたないうちに、大地の上を二本足で歩き、空気を吸って、つねに新陳代謝(しんちんたいしゃ)していることなどキレイさっぱり忘れて行動しているのである。これが日常の姿である。
 6これはどういうことなのかというと、私たちはこの「忘れる」という形で、実際のところキレイさっぱり大気や大地のことを忘れ去っているのではなく、私たちと大気や大地との関係を気にもとまらないほどに融け(と )合わせている、ということだったのである。7つまり融け(と )合うという形で相手と交流し合っていたのである。「忘れる」とは「失う」ような関係ではなく、もっと積極的な相手との交流の実現の形だったのである。
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 私はここで一気に主題の核心(かくしん)を取り上げておこうと思う。8それは私たちの存在様式が、その根本において、個体としてではなく交わりとしての存在様式である、ということについてである。つまりある存在があってそれが外界と関係をもっているというのではなく、そもそもはじまりそのものが交わりとしてある、ということについてである。
 9この根源としての交わりを「忘れる」ことによって、私たちは逆に、交わっていることよりか、互いに(たが  )区別し合って境界をもっていること、つまり私たちが個体であることの方をより自覚してきたのである。「覚えている」とはまさに境界を覚えていることであり、覚醒(かくせい)とは、個体であることの自覚なのである。0
 根源に交わりがある。いや根源が交わりである。このことを本当に理解することは、今日ではしごく難しいことになってきている。なぜなら私たちは交わりということを思い浮かべる(おも う   )前に、かならず個体を想定してしまうことに慣れているからである。出発は個体ではなく交わりそのものである。このことの理解がしだいにできなくなりつつある。
 「根源としての交わり」と私が呼んだもの、それを私たちのよく知っていることばに言い直せば、生命ということになる、と私は思う。(中略)
 結論をさきにいえば、意識や心理や認識はすべて個体の現象として扱える(あつか  )面があるのに(むろんそれはみかけにすぎないのだが)、生命には個体をこえる拡がりがあるかのように感じられるからである。(中略)
 問題は生命なるものを日常的に問う観点が発見されていないところにあるのではないか。宗教用語や生物−生理学用語で記述される生命以外に、日常用語で記述される生命がまだないのではないか。その辺が最大の問題であるように私には感じられてきた。

 (村瀬(むらせ)学の文章に拠る(よ ))
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a 長文 6.2週 nnza
 1ニュートンが集大成したようなテクノロジー科学はたんに思想上の成果として学者たちの規範(きはん)になっただけではなかった。それは政治的・社会的にも支持を獲得(かくとく)することができた。というより、政治的・社会的に同様のエートスがすでに生成され定着しつつあったために支持を得ることができたのである。
 2このことをもっと立ち入って論じてみよう。テクノロジー科学は十七世紀に登場した近代国家の中に受容された。何かを作れたりするという意味で有用であったから受容されたのだろうか? 必ずしもそうではない。3そう見るのは、狭隘(きょうあい)な実用主義的短見である。テクノロジー科学はいわば「イデオロギー」として近代的政体に取りこまれたのである。
 近代政治哲学(てつがく)の伝統は、イタリアのニッコロ・マキアヴェッリ()によって始められたと言われる。4彼(かれ)の政治哲学(てつがく)は、政治の目的や理想をほとんど問題にしない。それは、与え(あた )られた状況(じょうきょう)下で君主がいかにして他の有力なライヴァル()たちの詐術(さじゅつ)にかかって敗北することなく、人民にほどよく信頼(しんらい)され、すなわち恐れ(おそ )られすぎもせず、かといってあなどられもせず、統治できるかの技法について論ずる。5『君主論』(一五三二年)は、君主の闘争(とうそう)手段として、法と力をあげているが、マキアヴェッリ()が主として考察の対象とするのは、力による統治である。彼(かれ)によれば、君主は野獣(やじゅう)性と人間性とを巧み(たく )に使い分け、ともかく勝利しなければならない。それゆえ力の保持が重要である。6「武装せる予言者は勝利し、武力なき予言者は破滅(はめつ)する」(第六章)のが政治の冷徹(れいてつ)な法則である。このような政治技法は、マキアヴェッリ()を待たずとも、およそ政治が存在してからというもの現実に行われていたに違い(ちが )ない。7けれども、彼(かれ)は政治悪を現実に認容し、自分の名前で、一書をもって理論化をあえてした点で嚆矢(こうし)をなすのである。(中略)
 近代自然哲学(てつがく)は機械論的であると言われる。機械論的自然像とは自然を機械として見る考えをいう。8説明することが困難な生命的、有機的なことがらを可能な限り排除(はいじょ)しようとするのである。抽象(ちゅうしょう)的言葉づかいでは、「自然は微粒子(びりゅうし)の位置運動からなる」と
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言いかえられる。デカルトは、宇宙が微粒子(びりゅうし)の集成で、それらを統御(とうぎょ)しているのは数学的自然法則であると見る、機械論的宇宙像の最初の提唱者となった。9数学と自然学における波の最重要概念(がいねん)は「分析(ぶんせき)」であった。十七世紀には、最も精緻(せいち)な機械は機械時計であると考えられていたので、科学革命当時、自然は時計と類比的に見られた。(中略)自然は生きているに違い(ちが )ないが、とりあえず機械と見てそれにアプローチしようとするのが、テクノロジー科学の方法論的合意なのである。0そうアプローチする方が、自然を理解しやすいからである。換言(かんげん)すれば、技術的に操作することが可能になるのである。その点で、テクノロジー科学はマキアヴェッリ()の政治哲学(てつがく)に実によく似ている。彼(かれ)にとって政治とは人民の統治の技術なのである。「いかにして」の技術なのである。
 マキアヴェッリ()のリアリズムは、前述のようにベイコンによって高く評価され、さらにホッブズによって近代科学的よそおいをほどこされた。
 ホッブズは国家を機械と見たのである。伝統的主権者(王権)は神秘的仮面をはがされ、国家をよりよく統治し、人民に安寧(あんねい)を提供しうるもののみが主権者に値するとされた。ホッブズにとって、政治科学にアプローチする最も重要な概念(がいねん)は、「分析(ぶんせき)」であった。彼(かれ)によって、国家の成り立ちは個々人にまで分解(分析(ぶんせき))され、こうした個々人の安全(最悪の事態としての突然(とつぜん)の暴力死の回避(かいひ))を保障してくれる政治システムはいかなるものであるかが探究された。こういうアプローチの仕方から得られる帰結は、主権者は誰(だれ)でもよい、したがって、政体は君主制でも共和制でもどちらでもよい、要は、人民に安定した生活を約束してくれれば、政治の最低の役割は果たされる、ということである。このリアリズムの観点に立った政治科学は、誰(だれ)にでも評価されるはずであったが、現実認識があまりに冷徹(れいてつ)すぎたために、ホッブズは彼(かれ)の先駆(せんく)者マキアヴェッリ()同様みなから嫌わ(きら )れた。今日でもあまりに正直すぎる者が嫌われ(きら  )の的になるように――。
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a 長文 6.3週 nnza
 1このように、一七世紀から一八世紀にかけて、すでに地球や自然界の歴史的展開ということは何人かの人びとにとっては当然のこととなってはいたが、しかも、一つ大切な点は、そうした時期における「自然界の歴史的展開」は、「進歩」すなわち「悪い状態から良い状態へ」という価値スケールのなかで考えられていたわけではないという点である。2むしろ、自然は人間の堕落(だらく)に見合うように神が悪い状態に造り変えているのであり、それが破局の積み重ねとなって最後の審判(さいご しんぱん)にいたるのだ、という考え方が強かったと言えよう。
 3こうした終末論的な悲観論を逆転させた、地球、生物界、そして人間社会の歴史が「悪い状態から良い状態へ」の「進歩」の歴史である、という楽観主義は、まさしく啓蒙(けいもう)主義と産業革命の所産であったと言えよう。4一七世紀までの神の支配する自然という考え方から、人間の支配する自然へという一八世紀啓蒙(けいもう)期の考え方への転換(てんかん)が如実(にょじつ)に示すように、歴史は自分たちの手で築くものであり、また世界の歴史は、より良い方向に向かってつねに進んでいるという「進歩」の思想がヨーロッパ世界を強く支配し始めた。5それが「生物の進化」、すなわち下等動物から高等動物へという価値尺度を歴史が昇り(のぼ )つめてきた、という思想を下から支えることになったのである。
 したがって、生物進化論はそうした「社会進化論」と密接に連なっている。6たとえばのちに見るように「適者生存」や「生存競争」など進化論の概念(がいねん)として使われているものは、もともと資本主義の理念としての「自由競争」に由来していて、「社会進化論」の強力な推進者として知られているスペンサー(一八二〇−一九〇三)の用語であったし、7ダーウィンやウォーレスの生物進化論のきっかけが社会学者としてのマルサス(一七七六−一八三四〉の『人口論』であったことも、生物進化論と社会科学的思想との強い関連を物語っている。(中略)
 8ダーウィニズムは、すでに述べたように、社会思想から重要なフィード・バックを受けていたが、ダーウィニズム自身が今度は、人類の「社会」的問題を扱う(あつか )思想領域へ逆にフィード・バックすることになった。
 9「最適者生存」の「最適者」という概念(がいねん)を、きわめて恣意(しい)的
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に、自分の都合のよいように解釈(かいしゃく)して、それを倫理(りんり)や社会思想の面に応用しようとする態度が、『種の起源』以後急速に拡がっていくのがそのことを示している。0自由競争という資本主義の理念こそ、その競争のなかで最良のものが生き残るという生物学的原理が保証する社会進歩の原理なのであって、競争を否定する社会主義では、人類社会の進歩は希めない、という社会主義批判も、「科学」の名のもとに横行したし、「天賦(てんぷ)人権論」など万人が平等な権利をもっているとする発想も、ダーウィニズムの名で攻撃(こうげき)された。たとえばチェンバレン(一八五五−一九二七)は元来はイギリス人(一九〇八年ドイツに帰化)でありながら、一八九九年に『一九世紀の基礎(きそ)』という書物をドイツ語で書いたが、この書物は、人種の優劣(ゆうれつ)を生物学的に証明しようとし、とくにゲルマン民族の優秀(ゆうしゅう)性を強調して、そこに暗に「優勝劣敗(ゆうしょうれっぱい)」というダーウィニズムの通俗(つうぞく)的スローガンを示唆(しさ)したし、ダーウィンの従弟ゴルトン(一八二二−一九一一)が始めたと言われる「優生学」は、一方において、遺伝的操作のなかで悪性の素質を排除(はいじょ)すると同時に、他方では「優れた」素質を伸ばす(の  )という考え方を基にしており、「人種改良」や「人間の進化」が現実の問題として浮かび上がっ(う  あ  )てくることにもなった。
 しかし、このように、「人間」が「人間」の素質の善・悪を判断し操作するという思想がきわめて危険であることは、ナチズムの例が鮮やか(あざ  )に教示してくれており、「優生学」が一部には進化論を中心とする純粋(じゅんすい)の科学理論に根を下しているだけに、これまでになかった「人間の手による人間の人為(じんい)淘汰(とうた)」という思想の合理化さえ行なわれるようになったことは注意しなければならない。そして、このような「人類」の進化や、「人類の改良」という着想から、いわゆる一九世紀末の「超人(ちょうじん)思想」も現われてくることになると言えよう。

 (広重 徹(とおる)・伊東(いとう)俊太郎(しゅんたろう)・村上陽一郎(よういちろう) 『思想史のなかの科学』 村上氏執筆(しっぴつ)部分より)
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a 長文 6.4週 nnza
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 「私が結婚(けっこん)相手に望む経済力は、そんなに大きなものではありません。ただ私と子ども二人が安心して暮らせる程度でいいのです。子どもには小さいときから習い事をさせてやりたいです。お金がないからといって子どもにみじめな思いをさせるのだけは絶対にいやです。そして、子ども二人を私立大学に行かせてやれるくらいの給料は求めます(だって、私もそうしてもらったので当然だと思います)。月に一回は外食し(もちろん廻(まわ)るお寿司(すし)ではなく、お洒落( しゃれ)なイタリアンとかです)、年に一回は海外旅行に行く。そういう程度の経済力です。私には玉の輿(たま こし)願望はありません。私の両親が夫の両親に対し、肩身(かたみ)の狭い(せま )思いをするのはいやなので、軽い玉の輿(たま こし)程度で十分です。もちろん夫は真面目に働く人でないと困ります。ちょっといやなことがあると会社を辞めるとかされたりすると、とても困ります。それから、土曜日には子どもを連れて公園でサッカーしたり、川の堤防(ていぼう)の下でキャッチボールしたりするのを、私は堤防(ていぼう)の草むらに坐っ(すわ )て眺める(なが  )のが夢です。それから、煙草(たばこ)を吸う人は絶対にお断りです。本人よりも周りにいる私や子どもたちの受動喫煙(きつえん)が怖い(こわ )からです。家族(子どもと私の両親)を大事にして、結婚(けっこん)記念日とかは絶対に覚えていてくれないといやです。あとDVとかして、暴力を振るう(ふ  )人ももちろんお断りです。まだ、他にもありますが、先生が三つまでと言われたので、このくらいにしておきます」
 言っておくが、これは学生の書いたものを合成したり、特定の個人のものを意図的に抽出(ちゅうしゅつ)したりしたものではない。みんなみんな、こう書いてくるのである。なんでここまで同じなのか、私が聞きたいくらいである。この女子学生の結婚(けっこん)願望を男子学生に紹介(しょうかい)すると、教室中に「冬虫夏草」みたいな菌糸(きんし)状のものが浮遊(ふゆう)する。漠然と(ばくぜん )した怒り(いか )と不安めいたものだ。
 こういう、学生の書いたものを何年も多数読んできて、私はこの国の晩婚(ばんこん)化は止まらないと思ったのである。今は、まだ晩婚(ばんこん)化で済んでいるが、これから非婚(こん)率の上昇(じょうしょう)も必至である。就職難と結婚(けっこん)難が、双子(ふたご)になってやってくる。
 男の子は、正社員として就職できずにフリーターになれば結婚(けっこん)で
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きない。結婚(けっこん)できないで家庭を持てないから、就労意欲が低下し、ますます離職(りしょく)が促進(そくしん)される。女の子は、正社員で就労意欲の高い、ついでに給料も高い男性目指して、「容貌(ようぼう)偏差(へんさ)値」を上げるのに余念がない。しかし、「実用偏差(へんさ)値」はきわめて低い。料理を作ったことがない。ご飯を炊い(た )たことがないという女子は多い。なぜなら、女子学生の母親は「女は、結婚(けっこん)するといやでも家事をしなければいけないから、家にいるうちはそんな苦労をさせたくない」と、娘(むすめ)に家事をさせないからである。むしろ、男子学生の母親の方に「将来、息子が結婚(けっこん)したら、奥さん(おく  )も働いている可能性が高いので、男も家事ができなければならないので、今から教えている」と語るケースが多かった。だから、男の子の方が、基本的な炊事(すいじ)はできるのである。現在、大学生はとても忙しい(いそが  )。授業以外に専門学校に行き、アルバイトもしている。
 「バイトで深夜の十二時にアパートに帰り、カップ麺(めん)を食べていると侘しく(わび  )なり、就職してもこういう生活かと思うと、家に帰ったときにはやはり誰か(だれ )人の気配があってほしいなと思います」
 こういうことを女子学生が書いてきたケースは一回もない。男子学生にのみ見られる。こういう生活実感から来る結婚(けっこん)への憧れ(あこが )は、だからこそディテールに凝っ(こ )た具体的なものになるのであろう。

(小倉千加子『結婚(けっこん)の条件』)
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長文 6.4週 nnzaのつづき
 1今の世の中、孤独(こどく)という言葉は、なぜか悪いイメージで塗り(ぬ )固められている。いつからそうなったのか、私は知らない。いつの頃(ころ)からか、引きこもりという言葉が、現代の若者や子どもたちの、社会や学校に出られないで家にこもり切りになる特殊(とくしゅ)な状態を指すようになってから、孤独(こどく)のイメージはすっかり悪くなった。2言い換える(い か  )なら、引きこもりの若者や子どもたちが何万、何十万という数になってから、いよいよ孤独(こどく)のイメージは、社会的に手を差しのべてあげなければならないもの、克服(こくふく)しなければならないもの、といった否定的なものになってしまったのだ。
 3もちろん、集中的ないじめを受けたり、心の病になったりして、まともに対人関係を保てなくなった場合には、周囲からの何らかのサポートが必要であることは言うまでもない。そういう場合の孤独(こどく)と、人間ひとりが生きていくうえで本来的にまつわりつく孤独(こどく)とでは、本質において違う(ちが )もののはずだ。両者の間に明確な線引きはできないにしても。
 4ところが、両者をいっしょくたにして、すべて孤独(こどく)はあってはならないものであるかのような風潮になっているところに問題がある。子どもには子どもなりに、心の成長や考える力をつけるためには、孤独(こどく)な時間はとても大事なのに、今の社会はそのゆとりを持たせようとしない。5ミヒャエル・エンデの『モモ』に描か(えが )れた「時間貯蓄(ちょちく)銀行」の銀行員のように、何もしないでいると、たとえば、「あなたはきょうは、二時間三十一分四十七秒無駄(むだ)にした。一生は六十六万六千四百三十二時間二十五分四十八秒しかないのだから、時間をそんなに無駄(むだ)にしてはいけない。6一分一秒でも何もしない時間は私どもに預けなさい」といったぐあいに迫る(せま )のだ。
 やれ塾(じゅく)に、やれお稽古( けいこ)に、やれ宿題に、と迫ら(せま )れることに耐え(た )られない子どもたちは、ゲームやケータイやパソコンに没入(ぼつにゅう)する。7大人たちは奇妙(きみょう)なことに、ちゃーんとゲームやケータイやパソコンを大量生産して、子どもたちがどんどんその世界に入るのを誘っ(さそ )ている。そういうものをどんどん子どもに与える(あた  )のは、「麻薬(まやく)
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を与える(あた  )に等しい」と言ったのは、医療(いりょう)少年院に勤務する精神科医・岡田(おかだ)尊司氏だ。
 8ダブルバインド(二重拘束(こうそく))という精神医学用語を紹介(しょうかい)したことがある。社会学や人類学などマルチな才能を持つベイトソンという学者が作った、人間の心の領域にかかわる用語だ。ベイトソンが紹介(しょうかい)している象徴(しょうちょう)的な症例(しょうれい)はわかりやすい。母親が精神病院に入院中の息子に面会に行く。9息子と並んで座った母親は、口では「あなたを愛してるのよ」と言うが、内心では息子を恐れ(おそ )ている。息子は言葉をそのまま受けとめ、嬉しく(うれ  )なって母親にキスをしようとする。ところが、母親は一瞬(いっしゅん)だがピクッと顔をこわばらせ、キスされるのを避ける(さ  )ように身をそらす。0内心が身体に表れたのだ。息子は鋭く(するど )母親の二面性を読み取り、病室に駆け(か )戻る(もど )。母親が帰った後、息子は暴れまくり、保護室に入れられてしまう。
 親が二律背反のことを同時に子どもに言うと、子どもはどちらを選んでいいかわからなくなり、精神的に混乱したり、身動きができなくなったりする。そういう親に育てられた子は、心の発達にゆがみが生じるおそれがある。これがダブルバインドとその結末だ。

(柳田(やなぎだ)邦男(くにお)の文章による。一部省略がある。)
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