1さて十九世紀の進行のうちに、自然科学がものすごい勢いで発達し、社会のあらゆるものをこれが動かすこととなるにつれて、科学精神は歴史をもとらえずにはおかなかったのであります。そして歴史は歴史科学と呼ばれることになります。2近代科学の開祖であるデカルトは、歴史をあまり重視しなかった。それは近代科学を歴史的制約の外に純粋に発展させるために必要な態度であったのですが、ここでは人間の知識ないし思想は二つにはっきり分かたれ、一方に厳密な自然科学があり、他方に文学があって歴史は後者の中に入れられていたのであります。3ところが、その後歴史は歴史科学の名の下に文学の世界から科学の世界に移るのであります。そこでは歴史はもはや過去の再現ではなく、一定の法則による過去の理論的構成であろうとし、また、自然科学がだんだん細かい分野に分かれると同じように、歴史も何々史、さらに何々における何々の研究というふうに細分化される。4その各々は全体をとらええぬかもしれぬが、それぞれの研究の成果は客観的な真理であるから、あたかも自然科学における一々の発見のように、後から来るものはそれを踏み台として先に進むことができる。かくして蓄積された厳密な史料によって全歴史がいつか構成されて成立する、というふうに楽観的に考えられたのだと思います。5そしてそうした科学的歴史は個人というものの価値を社会の中に埋没させる傾向を生じました。自然科学では蟻とか狼とかの発生・進化を環境に即して研究するが、蟻や狼の心理や個性(もしそういうものがあるとしたらの話ですが)を黙殺する。6そうした科学をモデルとする以上、歴史における個人の軽視ということは当然であったといえます。
ところで、歴史家が自然科学者のように自我を殺して、自分が歴史的世界に生きる人間であることを忘れ去って、歴史を研究し記述することが果たしてできるかどうか。7細部については、それは可能でありましょう。例えば、関ケ原の戦いに家康がどこから引き返して、どこで何日滞在し、何日かかって戦場に着いたかというようなことは古文書その他によって、厳密に決定することができ、また万一不正確な点があれば訂正もできます。8しかし、実はそういう仕事は考証家の仕事で歴史ではない。そういうデータが無限に集まれば自ずと歴史が出来上るのではないのです。歴史家はそれらを集めて歴史を書くのですが、関ケ原の役の意義を考えるにはその種の世界観がなくてはできず、つまり、史料の統一には史観というのが
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