1分析とは外から見る立場です。というよりも、外からものを知る方法として、分析という仕方が生まれたのです。(中略)
分析的方法の確立者とも言えるデカルトは「研究しようとする問題のおのおのを出来る限りの、そうして、それを最もよく解決するために要求される限りの、部分に分けること」と言っております。2そうして、それこそ、対象、あるいは問題の要素と言われるものなのです。その意味で、分析とは要素への還元であるとも言われるのです。
例えば、水は水素と酸素からなるという場合、水はたしかに水素とか酸素とか私達が名づけるものから成り立っているのでありますが、3私達はそのもの自体を知るのではなく、水素とか酸素とか名づけることによって、それを理解するのです。もちろん、それは水素とか酸素とかいう言葉で示されるとは限らず、ドルトンが行ったように、4すべての原子を白い丸とか黒い丸とか、中に線を引いた丸とか中心に黒点を書き入れた丸とかいった図形的記号で示すことも出来ますし、さらにOとかCとかNとかHとかいういわゆる化学記号を用いることも出来ます。5そうして、科学の記号としては、一切が数学的記号で示されるのが理想でありましょう。が、ともかくいわゆる物質の要素も、分析的認識としては記号的認識以上には出ないのです。もっとも、ここにはさらに次のような疑問が起るかも知れません。6それは、水素、酸素などの原子ではまだ最後の要素ではないとしても、その原子を原子核と電子にわけ、さらに核を陽子とか中性子とか中間子とかに分けてゆけば最後には真の物質的要素に到達するのではないかという疑問です。7しかし、物質の成分をどんなに小さく分割していっても問題は少しも変りません。というのは、認識の対象が外にある限り、言い換えれば、外からものを眺める限り、やはりそれをとらえるためには、立場と記号が必要であるということには変わりはないからです。8むしろ、今述べたような極微の世界では、それを知るのはもはや、日常的な感覚や知性では不十分で、数学的表現のみがそれを正確に表わしうるのであることを思う時、分析的認識は記号的認識であるということは、一層明らかとなるのです。
9以上お話ししましたことによって、分析するとは対象を記号と
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