1われわれのからだは、そのすべての部分がいつも同じようにはたらいているわけではない。寝ているとき、座っているとき、しゃべっているとき、歩いているときは、はたらいている神経も筋肉も同じではない。われわれは、刻一刻たえず新しい身の統合をなしとげている。2このたえず変化する動的な統合の複雑さには、どのような人工的システムもかなわないだろう。だがこの現実的な統合が身の統合のすべてではない。
道を歩いている人のなかには、剣道の達人もあれば、ピアノの上手な人もあるだろう。3道を歩くという現実的な統合の範囲にとどまるかぎり、ふたりの身の統合の構造は似たようなものであり、からだとしては同じだ、といえるかもしれない。しかし、それがふたりの身の真の姿ではない。ふたりの身は、今は実現していないが、実現しうる潜在的な統合可能性を構造化している。4ひとりの身のうちには、これまでの剣の立ち合い、さらにはこれまでの剣道の歴史、剣禅一致の思想までも、肉化しているかもしれない。ピアノを弾く人は、ピアノの鍵盤を身体図式のうちに組みこみ、ピアノ曲の解釈の歴史、演奏法の伝統をも潜在的な身の統合のうちに包みこんでいる。5身は解剖学的構造をもった生理的身体であると同時に、文化や歴史をそのうちに沈澱させ、身の構造として構造化した文化的・歴史的身体にほかならない。つまり身体は文化を内蔵するのである。(中略)
この内蔵化の過程というのは、連続的な過程にみえて、実はかなり不連続である。6スポーツでも楽器の演奏でも、あるいはもっと抽象的な学習でもよい。試みるたびにうまくなり、理解が進むのは当然として、あるとき突然身の動きが自由になり、頭が晴れる思いをすることがあるのではないだろうか。あたかもそれまで無かった網目が突然身のうちに張りめぐらされたかのように。7経験は身のうちに沈澱し、くりかえしは(能動的な訓練の場合はもちろん、とくに意識することなくくりかえしている場合でも)、自分では気がつかない小さな発見と創造によって、まだ不確定な網目を潜在的に身のうちに紡ぎ出しているのではないだろうか。
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