a 長文 6.1週 nnza
一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。
 一七九〇年、フランス革命政府議会は、それまでのように人体を尺度にした、地方ごとに違うちが 長さの測り方をやめ、世界中同じ単位で長さを測れるようにしようという決議をした。この時代には、グローバリゼーションの震源しんげん地はアメリカではなく、フランス革命政府だったのだ。
 だが同様に普遍ふへん指向が強かった古代ギリシャの生んだ哲学てつがく人プロタゴラスは、「人間は万物の尺度なり」という、特殊とくしゅ指向こそが普遍ふへん的だという、見事な逆説的命題を吐いは た。実際、人体のさまざまな部分を規準にした尺度は、十八世紀末までは、まさしく普遍ふへん的に、だれもそれを怪しむあや  ことなく、国ごと、地方ごとに用いられていたのだ。
 フランスで当時用いられていた、長さを測る単位には、アンパン(片手の指をいっぱいに広げたときの親指の先から小指の先まで)、クーデ(ひじから伸ばしの  た中指の先まで)、ピエ(足の意。ヤード・ポンド法のフィート「足」に対応)、プース(足の親指の意。一ピエの十二分の一)、トワーズ(身の丈み たけの意。六ピエ)、ブラス(両うで伸ばしの  て広げた長さ。五ピエ。日本のひろに対応)等があった。クーデに対応する日本の尺は、呉服尺ごふくじゃく鯨尺くじらじゃく曲尺かねじゃくでも違うちが が、やはり前腕ぜんわんの骨の長さから来た尺度だ。布などを測るのにひじを曲げたかたちは測りやすいのか、西アフリカのモシ社会でも、細長い帯状に織った綿布を売るとき、曲げたひじから中指の先までの長さを単位にして測る(カンティーガ、複数でカンティーセという)。日本語で前腕ぜんわんの小指側の骨を尺骨しゃっこつと呼ぶことからも、この測り方と前腕ぜんわんとの関連が窺わうかが れる。尺骨しゃっこつを指すラテン語の解剖かいぼう用語はulnaだが、これは古代ローマでの長さの単位でもあった(三七センチに対応するから、日本の呉服尺ごふくじゃく鯨尺くじらじゃくのあいだくらいの長さだ)。尺という漢字は手の親指と中指を開いた象形で、日本ではあただ(てのひら下端かたんから中指の先までともいわれる)。
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 一七九一年、フランス革命政府は学者を招集して、地球の北極点から赤道までの経線の距離きょりの一千万分の一を、世界に共通する長さの単位とすることを決定した。だが実際にこの距離きょりを測ることはできないので、フランス北岸のダンケルクから、地中海に面したスペイン領バルセロナまでを精密な三角測量で測り、両端りょうたんの地点の緯度いどから、北極点・赤道間の距離きょりを算出するという方法がとられた。
 この二地点のあいだは山岳さんがく地帯が多く、革命直後で政情も不安定であり、測量は困難を極めた。それでも一七九八年に測量を完了かんりょうし、翌年には白金製のメートル原器が作られた。地方ごとに人間中心で作られていた尺度を、ヒトを離れはな た「地球」(グローブ)の寸法から割り出すことにしたのだから、これこそ語義通りの「グローバリゼーション」の先駆けさきが というべきだろう。
(中略)
 アメリカ合衆国は一八七五年の国際メートル条約の原加盟国だが、ヤード・ポンド法は「慣習的単位」として禁止されていないどころか、日常生活ではこちらの方が普通ふつうに用いられている。しかもアメリカの影響えいきょうが強い航空・宇宙関係の国際用語では、メートル法を採用している国も、アメリカの「慣習的単位」に合わせざるをえない状態だ。国際線の旅客機でも、高度や距離きょりの表示に、メートルとフィートが併用へいようされていることは、よく知られている。
 現代におけるグローバル化の中心にある米英が、かつてのフランス主導のグローバル化に対して、ローカルな「慣習的単位」に固執こしつしている事実を見ても、グローバル対ローカルという関係が、文化外の要素も多分に含むふく 「力関係」の上に成り立っていること、普遍ふへん指向と特殊とくしゅな慣習的価値の尊重という対立も、状況じょうきょう次第、「力関係」の都合次第でいかに変わるものであるかがよく分かる。

(川田順造『もう一つの日本への旅』による)
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長文 6.1週 nnzaのつづき
 もしも「忘れる」という現象が境界の融けと てしまう現象であるとしたら、この「融けと てしまう」という現象の形で現れているものをさらに私は問わなくてはならない。というのも「融けと てしまう」というのは、融けと て消えてしまうというような意味では決してないからである。
 融けると  というのは、一滴いってきのインクが大海のなかに拡散的に融けと てなくなるというようなものではない。そうではなくて自分を保ちながら、ある相手と交わり、そのあいだの境界を融かしと  てしまうあり方のことをここでは意味している。
 これはある交流の形態である。私たちはたしかに大気や大地といつも交流し、交感し合っている。実際私たちの生理現象(呼吸や消化や新陳代謝しんちんたいしゃ等)はまさに大気や大地との相互そうご性そのものである。しかし問題は、そういう相互そうご性そのものに目をとめよ! というところにあるのではない。そうではなくて、そういう相互そうご性を私たちは少しも自覚していない、つまりそれを忘れているという現象の方に注目しようというのである。
 生理学や生態学であれば、おそらくその相互そうご性そのものに諸手でとびついて、いかに生体が環境かんきょう世界と交わり合っているか、得意気に説明しにかかるであろう。素人の私たちは、そんなにもたくさんな関係を自分たちは外界とむすんでいるのかと、説明されるたびに感心することになるだろう。けれども実際のところは、そういう説明を聞いたその十分もたたないうちに、大地の上を二本足で歩き、空気を吸って、つねに新陳代謝しんちんたいしゃしていることなどキレイさっぱり忘れて行動しているのである。これが日常の姿である。
 これはどういうことなのかというと、私たちはこの「忘れる」という形で、実際のところキレイさっぱり大気や大地のことを忘れ去っているのではなく、私たちと大気や大地との関係を気にもとまらないほどに融けと 合わせている、ということだったのである。つまり融けと 合うという形で相手と交流し合っていたのである。「忘れる」とは「失う」ような関係ではなく、もっと積極的な相手との交流の実現の形だったのである。
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 私はここで一気に主題の核心かくしんを取り上げておこうと思う。それは私たちの存在様式が、その根本において、個体としてではなく交わりとしての存在様式である、ということについてである。つまりある存在があってそれが外界と関係をもっているというのではなく、そもそもはじまりそのものが交わりとしてある、ということについてである。
 この根源としての交わりを「忘れる」ことによって、私たちは逆に、交わっていることよりか、互いにたが  区別し合って境界をもっていること、つまり私たちが個体であることの方をより自覚してきたのである。「覚えている」とはまさに境界を覚えていることであり、覚醒かくせいとは、個体であることの自覚なのである。
 根源に交わりがある。いや根源が交わりである。このことを本当に理解することは、今日ではしごく難しいことになってきている。なぜなら私たちは交わりということを思い浮かべるおも う   前に、かならず個体を想定してしまうことに慣れているからである。出発は個体ではなく交わりそのものである。このことの理解がしだいにできなくなりつつある。
 「根源としての交わり」と私が呼んだもの、それを私たちのよく知っていることばに言い直せば、生命ということになる、と私は思う。(中略)
 結論をさきにいえば、意識や心理や認識はすべて個体の現象として扱えるあつか  面があるのに(むろんそれはみかけにすぎないのだが)、生命には個体をこえる拡がりがあるかのように感じられるからである。(中略)
 問題は生命なるものを日常的に問う観点が発見されていないところにあるのではないか。宗教用語や生物−生理学用語で記述される生命以外に、日常用語で記述される生命がまだないのではないか。その辺が最大の問題であるように私には感じられてきた。

 (村瀬むらせ学の文章に拠るよ 
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