1このように、一七世紀から一八世紀にかけて、すでに地球や自然界の歴史的展開ということは何人かの人びとにとっては当然のこととなってはいたが、しかも、一つ大切な点は、そうした時期における「自然界の歴史的展開」は、「進歩」すなわち「悪い状態から良い状態へ」という価値スケールのなかで考えられていたわけではないという点である。2むしろ、自然は人間の堕落に見合うように神が悪い状態に造り変えているのであり、それが破局の積み重ねとなって最後の審判にいたるのだ、という考え方が強かったと言えよう。
3こうした終末論的な悲観論を逆転させた、地球、生物界、そして人間社会の歴史が「悪い状態から良い状態へ」の「進歩」の歴史である、という楽観主義は、まさしく啓蒙主義と産業革命の所産であったと言えよう。4一七世紀までの神の支配する自然という考え方から、人間の支配する自然へという一八世紀啓蒙期の考え方への転換が如実に示すように、歴史は自分たちの手で築くものであり、また世界の歴史は、より良い方向に向かってつねに進んでいるという「進歩」の思想がヨーロッパ世界を強く支配し始めた。5それが「生物の進化」、すなわち下等動物から高等動物へという価値尺度を歴史が昇りつめてきた、という思想を下から支えることになったのである。
したがって、生物進化論はそうした「社会進化論」と密接に連なっている。6たとえばのちに見るように「適者生存」や「生存競争」など進化論の概念として使われているものは、もともと資本主義の理念としての「自由競争」に由来していて、「社会進化論」の強力な推進者として知られているスペンサー(一八二〇−一九〇三)の用語であったし、7ダーウィンやウォーレスの生物進化論のきっかけが社会学者としてのマルサス(一七七六−一八三四〉の『人口論』であったことも、生物進化論と社会科学的思想との強い関連を物語っている。(中略)
8ダーウィニズムは、すでに述べたように、社会思想から重要なフィード・バックを受けていたが、ダーウィニズム自身が今度は、人類の「社会」的問題を扱う思想領域へ逆にフィード・バックすることになった。
9「最適者生存」の「最適者」という概念を、きわめて恣意的
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