a 長文 4.1週 nnza2
 1野球で「二年目のジンクス」ということがよく言われる。一年目は好成績を残したのに、二年目はさっぱりダメという場合である。イチローのような特段に優れた選手は例外で、ほとんどが並の実力の持ち主だから、一年目は誤差でたまたまいい成績となっただけで、二年目からは平均に戻っ(もど )たと考えた方が正しいだろう。2にもかかわらず、スウィングが悪い、モーションが悪いと指摘(してき)され、自分もそうではないかと思い込ん(おも こ )でフォームを崩し(くず )てしまい、結局大成しなかった選手が多くいる。数年間を見て実力を見極める度量が欲しいものである。

 3以上、判断の各過程におけるエラーについて述べてきたが、それらに共通する心理を整理しておこう。
 まず、「認知的節約の原理」がある。限られた情報から欠けた部分を経験や先入観や単純な類推によって補い、効率よく事態を処理しようとする心理のことだ。4本人にとって負担が少ない思考法だが、そこにエラーが生じてしまうのだ。
 続いて、「認知的保守性の原理」を挙げよう。すでに持っているスキーマを保ち維持(いじ)しようとする傾向(けいこう)で、反証を無視したり、無理にでも自分の描()像に合わせてしまう心理である。5自分は一貫(いっかん)した考え方をしていると自認できるので心理的な安定感が得られることになる。だからこそ間違い(まちが )やすいとも言える。自分が安心できる思考法でつい安住してしまうからだ。
 6もう一つは、「主観的確証の原理」で、どちらともつかない証拠(しょうこ)だけでなく明らかな反証であっても、自分の予期を積極的に支持していると勝手に解釈(かいしゃく)する心理傾向(けいこう)である。「いやよいやよも好きのうち」と身勝手に思い込ん(おも こ )でセクシュアルハラスメントに及ぶ(およ )人間がその典型と言える。7自分の身勝手さに気づかず、全て他人のせいにして安閑(あんかん)としている人にお目にかかることが多いのはこのためだろう。被疑(ひぎ)者に対して状況(じょうきょう)証拠(しょうこ)しか見つかっていないのに犯人と決めつけ、すべてその仮定の下で解釈(かいしゃく)したがる例もある。8犯人が見つかっていないと不安だが、強引にでも決めつけてしまえば安心するのだ。(早く安心したいという気持が底に潜ん(ひそ )で
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いることもある。)この心理には、思考の経済性や一貫(いっかん)性なども絡み合っ(から あ )ている。こうなるともはや自省する気持を失ってしまう。
 9さらに付け加えるとすれば、「偶然(ぐうぜん)性を拒否(きょひ)したい心理」、言い換えれ(い か  )ば「確固とした因果関係として説明したい心理」もある。偶然(ぐうぜん)に起こったことであっても必然だと思い込み(おも こ )、それをきちんとした因果関係で説明しようとすると科学的な理由が見つからず、ついに超(ちょう)常的現象だと考えてしまうケースである。0予知夢がテレパシーしかないと解釈(かいしゃく)し、たまたま当たったのを透視(とうし)できたと受け取り、そのまま信じ込ん(しん こ )でしまうのだ。認知的エラーを自覚しない人ほど、自分の体験を絶対化して信じ込む(しん こ )傾向(けいこう)が強い。「しょせん、体験したことがない人にはわからない」として、他人の意見や忠告を受け入れなくなってしまうのだ。そして、自分の意見を強調すればするほどその信念はいっそう強くなっていき、もはや後戻り(あともど )が不可能になる。
 むろん、人間の認知エラーが多いと言っても、私たちは日常生活において大きな支障なしに生きている。それを無意識のうちに矯正(きょうせい)したり、または大きな問題が起こらないので気づかないままやり過ごしている。ときには認知エラーが人間の生存にプラスにはたらいていることもあると知っておくべきだろう。あまりに気にし過ぎると神経症(しんけいしょう)を病むことになりかねないからだ。
 ただ、突発(とっぱつ)的な事件が起こって即座(そくざ)の判断を迫ら(せま )れたり、すぐに合理的な解釈(かいしゃく)ができない事象に遭遇(そうぐう)したりしたとき、認知過程には誤りが多いことを自覚して、自分の推論を絶対化しないことが肝腎(かんじん)なのである。それは疑似科学に騙さ(だま )れていないか自らを点検することにも通じるからだ。

(池内了(りょう)『疑似科学入門』による)
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a 長文 4.2週 nnza2
 1教養の危機を語るにつけて、現代人の俗耳(ぞくじ)にもっともはいりやすい説明は、いわゆる情報化時代の脅威(きょうい)であろう。その場合、問題の焦点(しょうてん)はおもにメディアの革命にあてられる。
 電子メディアの台頭によぶ活字文化の衰退(すいたい)が憂慮(ゆうりょ)されるのがつねである。2端的(たんてき)にいえば、人びとがテレビ映像に耽溺(たんでき)して本を読まなくなり、関心は総合雑誌よりもインターネットの情報に向いているといった現象が、不安として指摘(してき)される。(中略)
 3変化のポイントは、知の性質のなかで永遠性よりも新しさが価値を占め(し )、脈絡(みゃくらく)よりは断片性が強められ、知がより多く時事的な好奇(こうき)心と実用性に訴える(うった  )ようになったことであった。写本の聖書よりは個人の著作のほうが、著作よりは雑誌論文や新聞記事のほうが、ときどきの移り行く関心に応え、その分だけ視野の脈絡(みゃくらく)に欠けることは明らかだろう。4単行本の目次は、一つの論理の構成を示しているが、雑誌の目次や新聞のページ建ては、多様な主題を緩やか(ゆる  )に分類しているにすぎない。そして情報という言葉のもっとも常識的な定義が、この主題の多様性、新鮮(しんせん)さと断片性、猟奇(りょうき)性と実用性であることはいうまでもあるまい。5古い情報、役に立たない情報、論理の難解な情報などは、誰(だれ)の興味もひかないはずである。
 ちなみに、知(knowing)を、その働きの方向によって分類すれば、情報(information)と反対の極をめざすのが、知恵(ちえ)(wisdom)だと見ることができる。6聖書の知恵(ちえ)、長老の知恵(ちえ)、おばあさんの生活の知恵(ちえ)という言い方が暗示するように、それは時間を超え(こ )た真実を総合的にとらえるものとして理解されている。知恵(ちえ)は深い意味で実用性を持つが、およそ新しさや多様性とは縁(えん)がなく、それ自体が内部から自己革新を起こす性質にも欠けている。7知恵(ちえ)は永遠であり唯一(ゆいいつ)であり、その内部にも多様化への余地を許さない統一性を保っている。そして、このように比較(ひかく)すると、普通(ふつう)に知識(knowledge)と呼ばれる種類の知は、
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構造と機能のどちらの面でも、この知恵(ちえ)と情報の中間にあると考えられるのである。
 8知識は断片的な情報に脈絡(みゃくらく)を与え(あた )、できるだけ広い知の統一性を求めるとともに、できるだけ永く持続するものにしようとする。その点では、明らかに情報よりは知恵(ちえ)の方向をめざしながら、しかし知識はその内部に多様な情報を組みこみ、全体としては分節性のある構造をつくりあげる。9全体を区切る細部があって、そのあいだに順序配列のある統一をつくるのである。知識はたえず新しい情報を受け入れて自己革新に努め、同時に古い知識との連続性を維持(いじ)しようとする。一方、内側にも外側にも複雑な脈絡(みゃくらく)を持つ知識は、情報よりも知恵(ちえ)よりもそれを理解するのに努力を必要とする。0さらに実用性という点から見ても、知識はこの二つに比べて効用をわかりにくくしたのが特色だといえよう。
 こうした知識がにわかに拡大したのが十八世紀であって、自然科学を中心に随所(ずいしょ)で神秘的な知恵(ちえ)や経験的な知恵(ちえ)を駆逐(くちく)して行った。青年の学ぶ新しい学問のほうが、村の長老やおばあさんの言い伝えよりも尊重されるようになったのである。だがその反面、知識は最初からたえず情報に背後を脅かさ(おびや  )れ、体系的な統一性を試される宿命をおびていた。十八・九世紀は新発見の時代でもあって、理論的な知識は、それに合わせてたえず組み替え(く か )を求められたからであった。知識が増殖(ぞうしょく)し視野が分岐(ぶんき)するにつれて、その全体を統一する中心的な価値が揺らい(ゆ  )だことは、先に述べた。二十世紀はこの趨勢(すうせい)がさらに力を増して、ついにいっさいの求心性を欠いた情報の群れが優位を占める(し  )時代になったのである。

 (山崎(やまざき)正和『歴史の真実と政治の正義』による)
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a 長文 4.3週 nnza2
 1ある特定の動物になる、あるいはその動物の身になったところを想像してみる、ということが文学の世界ではよくあります。漱石(そうせき)の『我輩(わがはい)は猫(ねこ)である』やカフカの『変身』はその代表的な例です。
 これらの作品を読んでいると、このような想像もそれほど突飛(とっぴ)な話ではない気がします。2その動物になってしまったら、自分の生活はどうなるのか、「どんな感じ」がするのか、想像することは、簡単な気がするでしょう。
 しかし、ほんとうにそうでしょうか。精密に検討してみると、このような想像が意外に困難であり、むしろ不可能に近いことがわかってきます。3正確に言うと、「想像すること」自体は簡単なのですが、その妥当(だとう)性を主張することが無意味なのです。
 哲学(てつがく)者ヘーゲルは、この問題を、もっともきちんと提起した人です。彼(かれ)は、そのタイトルもずばり「コウモリになったらどんなふうか?」という論文で、その不可能さと無意味さを指摘(してき)しています。4「コウモリの身になったらどんなふうか、その体験事実はコウモリだけに特異的なもののはずである。あまりにも特異的すぎて、それをわれわれ人間が想像できると主張することすら、ほとんど無意味なのだ」と彼(かれ)は言います。
 5たとえば、自分の腕(うで)が網状(あみじょう)に枝分かれして、その間に膜(まく)が張り、空を飛べるようになったら、どんなだろうとか、明け方や夕方の空を飛びながら虫を捕まえ(つか  )られたらとか、一日中洞穴(ほらあな)や天井(てんじょう)裏に足でつかまって逆さ吊り(つ )でいたら、などと想像することは、もちろんできます。6目がほとんど見えず、超(ちょう)音波のエコロケーション(反響(はんきょう)定位)・システムを使って環境(かんきょう)世界を知覚するということも、ある程度想像することは可能だともいえます。
 しかし、そのような想像をしている限り、それは「私がコウモリの身に押し込め(お こ )られたら」という想像でしかありません。7飛行機にパイロットが乗り込み(の こ )操縦するように、コウモリに「私が」乗り込み(の こ )「操縦する」ことを想像したら、という特異なケースでしかないのです。(中略)
 しかし、いまここで問うているのは、そういうことではありませ
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ん。8「コウモリがコウモリとして、コウモリの身で体験する世界とはどのようなものなのか」という問いなのです。その問いに答えようとして想像力を働かす瞬間(しゅんかん)に、そこには「私」の「ヒト」としての制約が避け(さ )がたくはたらいてしまいます。9この制約そのものがすでにして、ここで要求されている課題と矛盾(むじゅん)します。つまりどうがんばっても、想像されたものは「ヒトの身体」の経験であり、「ヒトの心」の経験でしかないのです。
 まだ納得できないと言われる方のために、もう少しがんばってみましょうか。0
 つまり、ヒトとしての「過去」、ヒトとしての「記憶(きおく)」がじゃまをしているということだろう。それなら、先ほどの「飛行機とパイロット」のような状態でも構わない、強引に(ヒトの来歴をひきずったまま)コウモリに「乗り込ん(の こ )で」、コウモリのセンサー(感覚器)を使い、コウモリの翼(つばさ)を使って飛び続けてみてはどうか。そうすればやがて、コウモリとしての「経験」、コウモリとしての「来歴」ができ、コウモリとしての「自我」さえ(もしそんなものがあるとすれば)芽生えるかもしれない。その分だけコウモリ自身の体験に近いものを体験できるのではないか。
 これはかなりいい線を行っている議論だと思います。しかしこれをさらに徹底(てってい)するには、人間としての感覚能力や記憶(きおく)をすべて「失う」、あるいは「消し去る」というところまで推し進めないと完璧(かんぺき)ではありません。そうでないと、完全にコウモリとしての「来歴」を獲得(かくとく)したことにならないのです。
 ところがそうなったとすると、そこに存在するのは「私」ではなく、何の変哲(へんてつ)もないコウモリが一匹(ぴき)いるだけということになりはしないでしょうか。つまり、この思考実験の前後を比べると、もとは「私」と自ら呼んでいたヒトが一人消え、コウモリが一匹(ぴき)増えただけという話になるのではないでしょうか。「コウモリになったとしたときの体験をありありと想像できるか」という最初の課題も、どこかで蒸発してしまうことになるのです。
 
(下條(しもじょう)信輔()『「意識」とは何だろうか』より)
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a 長文 4.4週 nnza2
 1私は『牡丹(ぼたん)灯籠(どうろう)』の速記本を近所の人から借りて読んだ。その当時、わたしは十三、四歳(さい)であったが、一編の眼目とする牡丹(ぼたん)灯籠(どうろう)の怪談(かいだん)の件を読んでも、さのみに怖い(こわ )とも感じなかった。どうしてこの話がそんなに有名であるのかと、いささか不思議にも思う位であった。2それから半年ほどの後、円朝が近所(麹町(こうじまち)区山元町)の万長亭(てい)という寄席へ出て、彼(か)の『牡丹(ぼたん)灯籠(どうろう)』を口演するというので、私はその怪談(かいだん)の夜を選んで聴き(き )に行った。作り事のようであるが、あたかもその夜は初秋の雨が昼間から降りつづいて、怪談(かいだん)を聴く(き )には全くお誂え(あつら )向きの宵(よい)であった。
3「お前、怪談(かいだん)を聴き(き )に行くのかえ」と、母は嚇す(おどか )ようにいった。
「なに、牡丹(ぼたん)灯籠(どうろう)なんか怖く(こわ )ありませんよ。」
 速記の活版本でたかをくくっていた私は、平気で威張っ(いば )て出て行った。ところが、いけない。4円朝がいよいよ高座にあらわれて、燭台(しょくだい)の前でその怪談(かいだん)を話し始めると、私はだんだんに一種の妖気(ようき)を感じて来た。満場の聴衆(ちょうしゅう)はみな息を嚥(の)んで聴き(き )すましている。伴蔵()とその女房(にょうぼう)の対話が進行するにしたがって、私の頸()のあたりは何だか冷たくなって来た。5周囲に大勢の聴衆(ちょうしゅう)がぎっしりと詰めかけ(つ   )ているにもかかわらず、私はこの話の舞台(ぶたい)となっている根津(ねづ)のあたりの暗い小さい古家のなかに座って、自分ひとりで怪談(かいだん)を聴か(き )されているように思われて、ときどきに左右を見返った。今日と違っ(ちが )て、その頃(ころ)の寄席はランプの灯が暗い。6高座の蝋燭(ろうそく)の火も薄暗い(うすぐら )。外には雨の音が聞こえる。それらのことも怪談(かいだん)気分を作るべく恰好(かっこう)の条件になっていたには相違(そうい)ないが、いずれにしても私がこの怪談(かいだん)におびやかされたのは事実で、席の刎()ねたのは十時頃(ころ)、雨はまだ降りしきっている。私は暗い夜道を逃げる(に  )ように帰った。
 7この時に、私は円朝の話術の妙(みょう)ということをつくづく覚った。速記本で読まされては、それほどに凄く(すご )も怖(おそ)ろしくも感じられ
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ない怪談(かいだん)が、高座に持ち出されて円朝の口に上ると、人を悸()えさせるような凄味(すごみ)を帯びて来るのは、実に偉い(えら )ものだと感服した。8時は欧化(おうか)主義の全盛時代で、いわゆる文明開化の風が盛んに吹き(ふ )捲く(ま )っている。学校に通う生徒などは、もちろん怪談(かいだん)のたぐいを信じないように教育されている。9その時代にこの怪談(かいだん)を売り物にして、東京中の人気を殆ど(ほとん )独占(どくせん)していたのは、怖い(こわ )物見たさ聴き(き )たさが人間の本能であるとはいえ、確かに円朝の技倆()に因るものであると、今でも私は信じている。0(中略)
 前にもいう通り、話術の妙(みょう)をここに説くことは出来ないが、たとえばかの孝助が主人の妾(めかけ)お国の密夫源次郎(げんじろう)を突こ(つ )うとして、誤って主人飯島平左衛門を傷つけ、それから屋敷(やしき)をぬけ出して、将来の舅(しゅうと)たるべき相川新五兵衛の屋敷(やしき)へ駈け(か )付けて訴える(うった  )件など、その前半は今晩の山であるから面白いに相違(そうい)ないが、後半の相川屋敷(やしき)は単に筋を売るに過ぎないであまり面白くもない所である。速記本などで読めば、軽々に看過ごされてしまう所である。ところが、それを高座で聴か(き )されると、息もつけぬほどに面白い。孝助が誤って主人を突い(つ )たという話を聴き(き )、相手の新五兵衛が歯ぎしりして「なぜ源次郎(げんじろう)……と声をかけて突か(つ )ないのだ」と叱る(しか )。文字に書けばただ一句であるが、その一句のうちに、一方には一大事出来(しゅったい)に驚き(おどろ )、一方には孝助の不注意を責め、また一方には孝助を愛しているという、三様の意味がはっきりと現れて、新五兵衛という老武士の風貌(ふうぼう)を躍如(やくじょ)たらしめる所など、その息の巧み(たく )さ、今も私の耳に残っている。団十郎(じゅうろう)もうまい、菊五郎(きくごろう)もうまい。しかも俳優はその人らしい扮装(ふんそう)をして、その場らしい舞台(ぶたい)に立って演じるのであるが、円朝は単に扇(おうぎ)一本をもって、その情景をこれほどに活動させるのであるから、実に話術の妙(みょう)を尽くし(つ  )たものといってよい。名人はおそるべきである。

(岡本(おかもと)綺堂(きどう)『岡本(おかもと)綺堂(きどう)随筆(ずいひつ)集』による)
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a 長文 5.1週 nnza2
 1カーニヴァル()の期間中、街の中心へと出向くための手段もまた祝祭的で意識的なものとなる。すなわち人々は、バスや市街電車のなかで歌を歌い、踊り(おど )、サンバのリズムに身体を動かしながら目的地に向かう。2こうしたことが起こるのはカーニヴァル()のために急に交通手段が改善されたからではもちろんなく、乗り物の内部空間までがカーニヴァル()の空間へと変質したことによるものなのである。だから、バスや電車はもはや決められた時間に仕事場に着かねばならない労働者によって占め(し )られてはいない。3そこに乗っている人々が目的地に着かないかぎり、いかなる物事も始まらないのである。人々でぎゅうぎゅう詰め(つ )になった公共の交通機関による通勤という、都市の日常生活における地獄(じごく)のような苦痛の時間が、カーニヴァル()のあいだきわめて創造的な瞬間(しゅんかん)に変化する。4この瞬間(しゅんかん)人々は笑いや冗談(じょうだん)や身体の接触(せっしょく)を通じて、強烈(きょうれつ)な生感覚を味わうのである。
 カーニヴァル()においては、場所の移動という行為(こうい)自体が、高度に遊戯(ゆうぎ)化され、儀礼(ぎれい)化された別種のリアリティとして民衆によって生き直されていることを、こうした指摘(してき)は示している。5不毛で、苦痛だけが充満(じゅうまん)する日常的通勤行為(こうい)が、いかに祝祭的な場に変容しているかを、右の描写(びょうしゃ)は見事に伝える。(中略)
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 ダ・マッタも指摘(してき)するように、ブラジルでは、カーニヴァル()のあいだにいかなることが起きようと、それは「本気」(serio)ではなく、一種の「遊び」「冗談(じょうだん)」であるという一般(いっぱん)的な信仰(しんこう)のようなものがある。6しかしこの場合、それは冗談(じょうだん)だから許される、とか、真面目でないから責任がない、といった、自己弁明的な理屈(りくつ)を保証するための留保ではない。むしろ逆に、ここで主張されているのは、真面目でないものこそが永続的な価値をもつ、という強固な民衆的信仰(しんこう)についてである。7ブラジルにおいて、規則と常識と事大主義によって支配された堅気(かたぎ)な真面目さ=堅苦し(かたくる )さ(ポルトガル語のserioに対応する一語を見つけることは難しい)を代表するのは、政府機関、政党、学校、裁判所といった公共的な組織から、8会社、銀行、さらには教会や社交クラブといった組織にいたるあらゆる中産階級的な法人組織であり、それらは一種の永続性のイデオロギーを所有しているものの、現実には社会のなかでつねに改変や整理の対象とされ、驚く(おどろ )ほど頻繁(ひんぱん)に現われては消えるという動きを繰り返し(く かえ )てきた。9役所や企業(きぎょう)の標榜(ひょうぼう)する永遠性へのオプセッションは、かなわぬ理念にすぎないことを民衆はすでに悟っ(さと )てしまっている。これと対照的なのが、貧しく、地味であっても決して廃れる(すた  )ことも宗旨(しゅうし)替え(が )することもなく、昔ながらの熱気とともに存続してきたカーニヴァル()の地域集団なのである。0永遠性のイデオロギーを戴く(いただ )かにみえる制度的な法人組織が、じつははかない命しか持たず、逆説的にも、まったく自発的に生まれ組織を欠いたカーニヴァル()集団と祝祭の方が、結局は日々生きる民衆の永続性への希求をまっすぐに受けとめることができる…。このパラドックスのなかの真実に目覚めることによって、ブラジルには、真面目でないもの、中産階級に属さないものはすべて生き残る、という強固な信仰(しんこう)が生まれることになったのである。
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a 長文 5.2週 nnza2
 1過去のわが国の外国語教育は、たしかに読解力と文法のみに重点を置きすぎたといえる。そのため、哲人(てつじん)カーライルのような文章が書けても、話す方は赤ん坊(あか ぼう)に等しい「教養人」が生産されてしまった。しかし、だからといって、発音の方は立派でも、内容空疎(くうそ)な会話しかできないというのでは、決して国外で尊敬されることにはなるまい。2そう考えると、小学校レベルで外国語に親しませるというのは本当に必要だろうか。低学年では、むしろ国語を正確に読み書き話す力をつけるのが先決であり、その基盤(きばん)なしに外国語を教えても、中途半端(ちゅうとはんぱ)な根無し草的「国際人」を養成することになりかねない。(中略)
 3文法や語彙(ごい)を重視してきた反動として、近年それらを軽視し、発音や流暢(りゅうちょう)さだけを追い求める向きがあるが、これは間違っ(まちが )ている。格調ある言葉を使う必要は、日本語でも外国語でも同じである。発音については、あまりひどい片仮名発音は禁物であるが、発音が全く英米人のようである必要はなく、ある程度の訛り(なま )はかまわない。
 4多少の訛り(なま )は、話している人の文化的アイデンティティーを示しており、世界が多様であることを物語っている。長い国連生活で、私は各国の外交官や国連職員がお国訛り(くになま )の英語やフランス語で、堂々と自分の考えを述べるのを聞いてきた。5流暢(りゅうちょう)さより、話す内容の方が、はるかに重要なのである。現行の語学教科書には、学ぶ人の知的水準を無視したものが多く、読者の文学性や哲学(てつがく)的関心をそそるような教材の使用に努めるべきだろう。
 6とはいっても、いまの日本の英語教育にもっとも欠けているのはやはり聞き取りと会話の能力であろう。会話に先天的な能力などはなく、中学生の頃(ころ)から自分をそうした環境(かんきょう)において、話す能力をつけていくしかあるまい。7また日本人の英語教師のすべてに是非とも(ぜひ  )海外留学の機会を与え(あた )、本場の英語に触れ(ふ )させるべきである。
 JETプログラム(地方公共団体による外国人教師招致(しょうち)事業)で英語使用国の数多くの若者が来日しているが、この人たちをもっと本格的に活用し日本人学生の外国人恐怖(きょうふ)心をなくしていくべきだ。
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8「ものいわぬは腹ふくるるわざ」だと兼好(けんこう)法師がいっている。幼少から外国人の中で暮らした少数の人を除いた、多数の日本人にとって、語学習得の近道はない。恥(はじ)をかき、反復をいとわずに勉強しながらも、過度に完全主義にならないことだ。9なかでも、よい教師や友人にめぐりあい、刺激(しげき)をうけることが、学ぶ者にとって大事である。
 グローバル化とアングロ・サクソン化は違う(ちが )のだが、英語を話す人口は約八億人と推定され、その数は増加する一方だ。0国際的取引や知的職業に属す人々の圧倒的(あっとうてき)多数が英語を話しており、インターネットの導入がそれを加速している。
 グローバル化にとり残されないために、我々はより効果的な英語教育に真剣(しんけん)に取り組まなければならない。日本人だけの心地よい以心伝心の世界に安住することは、もはや許されない。完璧(かんぺき)でなくても外国語をあやつり、国境を超える(こ  )骨太の論理を駆使(くし)して、他流試合に挑ん(いど )でいくたくましさを身につけたいものだ。
 そのためには、東洋の島国の腹芸と自己満足を脱却(だっきゃく)するのが必要である。とはいっても立て板に水を流すように、外国語に雄弁(ゆうべん)である必要はない。自分なりの論理とレトリックとユーモアを使って、訥々(とつとつ)とでもよいから相手を説得する努力をすることが大事だ。
 第二次大戦後、次々と優れた工業製品を作り出すことで世界の賞賛の的になったわが国は、いま政治、社会、文化、科学など幅広い(はばひろ )ソフトウエアの分野において、国際的な対話と共同作業に活発に参加することを求められている。外国語、とりわけ英語は、それを行うため避け(さ )て通れない手段なのである。手段にすぎないとはいえ、それが不如意(ふにょい)なため、わが国の潜在(せんざい)的能力が過小に評価され、世界の知的潮流に充分(じゅうぶん)に貢献(こうけん)できないという結果をもたらしている。思いつきでない大胆(だいたん)な解決策が、言語教育において焦眉(しょうび)の急であることは明らかである。

(明石康「地球を読む一日本人の英語力」『読売新聞』)
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a 長文 5.3週 nnza2
 1なぜ人を殺してはいけないのか。僕(ぼく)の考えを簡単に言うと、こうなります。人は自分を人間だと思っています。なぜ人間だと思っているかと言うと、自分を知っている他人が自分をそのように見て、そのように承認してくれていると確信しているからです。2つまり、これはへーゲルの説ですが、個人の自己の意識、オレはこういう人間だ、というアイデンティティの意識には、「他者の承認」ということが条件として組み込ま(く こ )れています。そして、人間だという意識は、このアイデンティティの一番の下部構造をなしているのです。
 3ところで、人間というのは、どんなことがあっても人を殺すべきでない、と僕達(ぼくたち)は思っています。何が起こるかわからないし、そうなれば自分がどうなるかわからない。殺人鬼(き)が迫っ(せま )てきて、相手がスキを見せたら、僕(ぼく)でも正当防衛のためにこの殺人鬼(き)を刺す(さ )かも知れません。4でも、とにかく、平常心では何があっても人は殺しちゃいけないと思っている。そのようにして、僕(ぼく)の人間意識は成立しています。
 ところで、その僕(ぼく)が、自覚してたとえば自分の都合で、人を殺したとします。5すると、きっと他人は僕(ぼく)を人間の規矩(きく)を外れた存在と見るだろう、という予期が僕(ぼく)には訪れます。むろん、本当のところはわかりませんよ。誰(だれ)もそんな僕(ぼく)に関心を持たないかも知れません。6でも、他人のことは結局誰(だれ)にもわからないのですから、大事なのは、どう他人が思うか、ではなく、どう他人が思うと僕(ぼく)が思うか、ということです。それが他人の像がとりあえず僕(ぼく)の自己の意識に持つ意味にほかなりません。7僕(ぼく)には、きっと他人に人間と見られないだろう、という確信が生じる。すると、どうなるか。僕(ぼく)の中で、自分が人間であるという意識、アイデンティティが揺らぎ(ゆ  )ます。つまり人を殺すと、その結果として、僕(ぼく)が自分で自分は人間だと思っている、その確信が揺らぎ(ゆ  )、壊れ(こわ )てしまうのです。
 8むろん、何が起こるかわかりませんから、僕(ぼく)だって人を殺すことがないとは言えません。日本で最大の宗教家の一人である親鸞(しんらん)
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は、「心のよくて人を殺さずにあらず」と言っていますね。悪いから人を殺すのでもないし、人間がよいから人を殺さないのでもない。9どんな心の清い人間でも、ある状況(じょうきょう)の中ではつい人を殺してしまうということもあるし、どんなに人を殺そうとしても、状況(じょうきょう)によっては殺せないということもある。人を殺す、殺さないは、その人とその人の置かれた状況(じょうきょう)の関係から生じると考えたほうがいい、と言うのです。0
 ですが、そのことは、だから人を殺しても人は元通りに回復されるということではないのですから、人を殺してしまう場合には、その人の中で、一度壊れ(こわ )た「人間」がどのようにどこまで再修復されるか、というドラマが生じることになります。
 たとえば、ドストエフスキーの『罪と罰(ばつ)』はそのようなことを描い(えが )た小説と言えるでしょう。これは、頭脳明断な青年が、誰(だれ)からも疎ま(うと )れているような金貸しの婆さん(ばあ  )を、人類的な理想実現のため殺していけない理由はない、という理論を実行するため、斧(おの)で殺す、という小説です。竹田青嗣(せいじ)があるところでこの小説に触れ(ふ )、面白い個所を引いているんですが、老婆(ろうば)を斧(おの)で殺した後その青年ラスコーリニコフに変な感覚が生まれます。彼(かれ)はその後世界で一番愛している母と妹と会うのですが、話をしていても、何か落ち着かない。「その話は後でゆっくりしましょうよ!」と母との話を打ち切るんだけれども、その時、絶対に、そんな時はもう二度と来ないだろう、という感覚が彼(かれ)にやって来るのです。
 なぜ人を殺したらいけないのか。そうすると、自分で自分を人間社会の一員だと思えなくなってしまう、人間としてのアイデンティティを失う、とさっきは言いましたが、それってどういうことなのか。自分の中で、何か大切なものが壊れる(こわ  )。人間としてのアイデンティティを失うとは、誰(だれ)とも心を開いては話せなくなる、ということです。だからやはり、人を殺すのは、自分にとってまず、よくない、そういう理由があると思うんです。

(加藤(かとう)典洋『理解することへの抵抗(ていこう)』)
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a 長文 5.4週 nnza2
 1「日本人は、奈良(なら)時代には梅が好きだった。ところが平安時代から好みが変って、桜を愛するようになった」
 と、こんなことを教室で教えられたり、本で読んだりしたことは、ないだろうか。少くとも私はそうだった。こう書いてある本も、いっぱいある。
 2しかし、そんな事実はない。太古以来、日本人は桜を愛してきたのである。
 それでは、どうしてこんな間違い(まちが )がおこったのか。じつは奈良(なら)時代にできた『万葉集』という歌集でいちばんたくさん詠ま(よ )れた花は、梅である。
 だから、みんな、梅が好きだったと思った。
 3ところが、これは当時の中国好みの貴族趣味(しゅみ)によるもので、ある歌人などは梅見に人びとを招集し、みんなでいっせいに四十首ほどの梅の歌を作った。おまけに、後からこの時をしのんで梅の歌を作った人もある。
 こうなるといっきょに梅の歌の数がふえてしまう。4その数を、歌の性質を吟味(ぎんみ)しないで数えたから、個人やごく少数の人の好みを、一般(いっぱん)の人の好みと勘(かん)ちがいしてしまったのである。
 反対に、単純に桜の歌を数えると、数は梅に及ば(およ )ない。しかし桜が民衆的には熱烈(ねつれつ)に愛されていることがわかる。
 5また、平安時代になっても、ごく初期のころには、宮中の正殿(せいでん)の前に、梅と橘(たちばな)が植えられていた。それが火事で焼けて、その後桜と橘(たちばな)に変った。そこでまた、人びとは梅から桜へと趣味(しゅみ)が移ったと誤解するのだが、最初は万事中国好みの宮廷(きゅうてい)だったから、梅を植えたのである。6やがては素直に、日本趣味(しゅみ)にしたがって桜を植えた。
 そこで、今後は若い世代にも「日本人はずっと桜を愛してきた」と、言おうではないか。
 しかし、そうなると日本人はどうしてこうも、長い間桜を愛しつづけるのだろうという疑問がわく。7もう桜は、遺伝子の中に組みこまれてしまった記号だろうか。(中略)
 もう桜は、日本人の遺伝子の問題である。
 ではどんな遺伝子なのだろう。
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 先ほど『万葉集』について述べたが、その中に、次のような一首がある。

  桜花 時は過ぎねど 見る人の 恋(こい)の盛りと 今し散るらむ

 8桜の花はどうして散るのか、作者は推測する。「この桜の花は次のように思って散るのではないか」と。つまり桜は「私を見ている人は、いまが一番私を愛してくれている」と思う。だから桜はしおれるのを待たないで散ろうと思う。
 そう、作者は桜の落花を納得した。
 9人間にいいかえてみると、恋人(こいびと)がいま、一番私を愛してくれている。だから自殺をしよう――そう思うことになる。
 そんな人がいたら、盛りの命の死を惜しま(お  )ない人はいない。
 もっと生きつづけて永遠の愛に生きればよかったのに、とやや批判をする人もいるだろう。0しかし反面、長くは生きられない命だから、花の盛りに死んでよかった、と賛成する人もいるだろう。
 いずれにしても、これらは時間の中で命を見ていることに変りはない。
 命は時間の力を、まぬがれがたい。
 このもっとも根元的な命の課題を、死からもっとも遠い花の絶頂期に考えることの、衝撃(しょうげき)力は強い。
 万葉の歌の作者は、桜の花をじっと見ることによって、無意識に体の中にたたえられていた命のうつろいが誘い出さ(さそ だ )れ、花の姿がわが命の代行者として映ったのだろう。人間の死の想いを誘い出し(さそ だ )たものは、花のあまりもの美しさだったことになる。

(中西進の文章による)
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a 長文 6.1週 nnza2
 1そもそも、食べることに強い関心を抱い(いだ )たのには、遅飯()コンプレックスばかりでなく、もう十年もイタリアと日本を行き来するような暮らしの中で感じてきたひとつの思いがある。スローフードという言葉が、私の中の曖()味模糊(もこ)とした思いに、あるくっきりとした輪郭(りんかく)を与え(あた )てくれた様な気がした。
 2たとえば、数百年も前の史跡(しせき)と呼んで差し支えない石造りの家屋に人が今でも住んでいるフィレンツェのような都市では、新鮮(しんせん)な素材を納得のいく値段で買い、おいしいものを作ることはしごくたやすい。
 3肉は肉屋、生パスタなら製麺(めん)屋、野菜は八百屋、パンはパン屋とそれぞれ昔ながらの専門店ががんばっている。でなければ、大きな中央市場まで足を運べば、野菜や果物もそれは色とりどりそろっていて、チーズも塊(かたまり)で買えるし、無農薬野菜の店もある。
 4取材の合間に暇(ひま)ができれば、料理に腕(うで)を奮い、そんな日にはかならず友を招く。週末や日曜の昼には、食事に招き、また招かれる。夕食時まで仕事に捧げる(ささ  )人は稀(まれ)で、日本のようにノミニケーションなどといって職場の面々と飲みながら過ごすことは滅多に(めった )しない。5何はさておき家族で食事である。そんなことをしているからイタリア人男性は妻に管理されっぱなしだという人もいるが、それは当てにならない。彼ら(かれ )はよく外食も楽しむ。それにしたって、前菜に、パスタやリゾット、肉か魚のメインディッシュに野菜のつけあわせ、甘い(あま )物にカフェ。6人によってはチーズに食後酒までいただくものだから、ゆうに三時間はかかる。
 日本へ帰れば、そうは問屋が卸さ(おろ )ない。
 まず友人たちを食事に招きたくとも、みんな何かと忙しい(いそが  )。招かれた途端(とたん)に、帰りの電車の時間を心配しはじめ、腕時計(うでどけい)を覗き(のぞ )こんでいたりする。
 7おそらく、日本というより東京といった方がいいのかもしれないが、町が肥大化し過ぎているのだろう。共稼ぎ(ともかせ )の友人はといえば、残業だらけでぐったりで、とてもではないが平日は夕食の買い物すらできないといって嘆く(なげ )。8その働く女性、忙しい(いそが  )母親たち―
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―もちろん、父親だっていいわけだが――の暮らしの救世主のごとき面持ちで巷(ちまた)に溢れ(あふ )返っているのが、レンジでチンするだけの冷凍(れいとう)食品、お湯に投げこむだけのレトルト食品お湯を注ぐだけのカップ麺(めん)、コンビニエンス・ストアのお弁当、デパートのお惣菜(そうざい)売り場に、よりどり見取りのファーストフード・チエーン店である。
 9ところが、それだけ急いで食べる時間まで節約しておきながら、誰(だれ)もが「忙しい(いそが  )、時間がない」と口にしているのはどういうことなんだろう。家族が一日に一度さえ顔を合わせる時間もなければ、愛情の証だったはずの料理に手間暇(ひま)をかける時間もない。0
 私たち日本人は、いったいいつから、ゆっくりと食事をすることもままならなくなってしまったのだろう。
 四割を越える(こ  )子供たちのアトピー、若者にまで増えている骨粗鬆症(こつそしょうしょう)や動脈硬化(こうか)、サラリーマンの過労死、環境(かんきょう)ホルモン、ダイオキシン、名前をもたない現代病……、すでに社会に深刻な黒い影(かげ)を落としている現象の根っこに、狂っ(くる )た食生活があることに誰(だれ)もが気づいているはずだ。
 この国は、これで大丈夫(だいじょうぶ)なのだろうか?
 私には、スローフードという言葉が、その暗澹(あんたん)たる思いに一条の光を投げ込ん(な こ )だかのように思えた。
 スローフード運動を推進する者たちは、単にファーストフード反対運動というような了見(りょうけん)の狭い(せま )ところに留まらない。スローフーダーの真の敵は、ファーストライフという名の世界的狂気(きょうき)であり、それは、もっと複雑な現代社会の機構の中に妖しく(あや  )蠢(うごめ)くなにかなのだという。
 それはいったい何なんだろう?
 そんな疑問に腰(こし)を押さ(お )れるようにして、九六年のある日、ふいに思い立った私は、ファーストライフ症候群(しょうこうぐん)の巣窟(そうくつ)である日本の大都市を離れ(はな )、スローフード協会の本部があるという北イタリアの町へと旅立った。彼ら(かれ )の言い分に耳を傾け(かたむ )、イタリア人たちの食卓(しょくたく)をゆっくり見つめ直してみたくなった。
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a 長文 6.2週 nnza2
 1かつて日本が貧しかった時代、日本人は――殊に(こと )青年は人生について社会について自分自身について本気で考えたものだった。なぜ働きたいのに仕事がないのか、なぜ働けど働けど貧しいのか、なぜ権力はこのように強大なのか、なぜ自分の命を戦場へ捨てに行くのか……。2どれも素朴(そぼく)なしかし切実な疑問だった。若者は社会の矛盾(むじゅん)に気づき、闘う(たたか )か妥協(だきょう)するか、全体のために生きるか、個人の幸福を優先させるかを迷い、考え、憤っ(いきどお )た。己れの無力卑小(ひしょう)を嘆き(なげ )、思うに委せぬ現実に切歯扼腕(せっしやくわん)して苦しみ、そして考えた。
 3だが経済大国になった日本の社会は、自由と豊かさによって「考えない日本人」を作り出した。いかに生きるかについて考えなくても、「フツー」にしていれば生きていけるのである。4青年が考えるとしたら大学受験と就職を考えればよいのである。壮年(そうねん)が考えることはいかに社会の流れと妥協(だきょう)して得をするかということであり、老人はいかに老後を楽しみ、いかに安楽にうまく死ぬかということを考える。
 5男子大学生に向って「万一、日本が軍事攻撃(こうげき)を受けた場合、どうするか」というアンケートを取ったところ、「戦う」にマルをつけたのは100人中ただ一人で、あとの99人は「安全な場所を捜し(さが )て逃げる(に  )」にマルをつけたという。6その話をした人は、若者から勇気や愛国心が欠如(けつじょ)したことを嘆き(なげ )たいようだったが、私は彼ら(かれ )はただ「何も考えない」だけなのだろうと思う。多分彼ら(かれ )は反射的に答を出しただけなのだ。彼ら(かれ )は考えない。すべてアドリブでことをすませてしまう。7考えるのは面倒(めんどう)だから考えないというよりも、考える習慣がなくなっているのにちがいない。
 「人間は一茎(くき)の葦(あし)のように弱いものだが、しかし人間は考えることを知っている」とパスカルはいった。「我々の品位は思考の中にのみ存在する。正しく考えるようにつとめよう」と。
 8だが今、人は考える葦(あし)ではなくなった。我々は宇宙に乗り出し、怖(おそ)れを知らずにそれを利用しつつある。科学の力で命を産み出し、死さえ遠ざけることが出来ると思っている。「考える」ことを捨てたのだ。9私は貧乏(びんぼう)な若者が好きである。若者の燃え熾(おこ)るエネ
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ルギーと貧乏(びんぼう)が、固く握っ(にぎ )たゲンコツのようにがっちりと組み合さって不如意(ふにょい)と闘う(たたか )姿が好きである。0
 「本郷西片町より高台の方を仰ぎ(あお )見れば、並びなせる下宿屋の楼(ろう)上楼(ろう)下、無数の窓我に向いてもの言うが如く(ごと )灯明らかにともされたり、此()の多くの窓の中の何れかの窓より未来の偉人(いじん)傑士(けっし)出(いず)る事ならんと思えば一層に懐かしき(なつ   )心地す、と同時に此()の窓の中に有為(ゆうい)の材を以て空しく一生朽ち(く )果つべき運命を有するものもあらんかと思えば胸潰()るる許(ばか)りなり」
 これは私の父の明治38年春の日記の一節である。並んでいる下宿屋の無数の窓に明々とともされた灯の下、貧しい学生たちが一心に書物を読んでいる姿を想像して胸を打たれた父の、その青年への想いが私の胸にも熱く伝わってくる。日本が貧しく矛盾(むじゅん)に満ちていた時代、刻苦勉励(べんれい)という言葉が生きていた時代だ。
 貧しさ故に若者は考えた。鬱屈(うっくつ)して考えるが故に広大な未来があった。可能性に満ちた洋々たる前途(ぜんと)、夢があった。それが若者の貧しい青春に輝き(かがや )を与え(あた )ていた。今、豊かさのみを追って考えることをやめた我々にどんな未来があるのだろう。若者たちを含め(ふく )た我々は何に向って生きようとしているのか、更(さら)なる豊かさと安住に向って?
 だがいったいそこにある希望とはどんなものなのだろう?

(佐藤(さとう)愛子『われわれが「考える葦(あし)」でなくなったこと』より。一部改変。)
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a 長文 6.3週 nnza2
 1子供の躾(しつけ)は、社会の圧力によって為さ(な )れるが、感化はそうではない。感化院というのがあるけれども、人を監禁(かんきん)して行なうことを感化とは言えまい。感化は受ける者が自由に受け与える(あた  )者の意図を超え(こ )て与え(あた )られる。これが原則である。躾(しつけ)は、そうはいかない。2躾(しつけ)には、強制と罰(ばつ)とが伴う(ともな )。それを喜んで受ける者はないだろう。そこで、躾(しつけ)の義務を合理的に説明する道徳教育が必要になる。しかし、躾(しつけ)を可能にさせるものは、道徳教育ではない。社会の圧力である。態と感化とのこうした関係は、反対から見ることもできる。3躾(しつけ)は、ある社会なり共同体なりが任意の基準で強制するけれども、受ける者はそれに反抗(はんこう)したり、無感覚になったりすることが可能である。感化のほうは、そういうわけにはいかない。感化には、どこか不自由になる喜びがあり、この喜びに反抗(はんこう)しようとする者はいないだろう。4躾(しつけ)は任意になされ、感化は否応なく起こる。躾(しつけ)と感化とは子供が教育される時の切り離せ(き はな )ない二つの側面になる。個々の人間が、自然の群れのなかではなく、社会のなかに産み落とされる限り、教育のこれら二つの側面は、必要なものだと思われる。5社会が複雑になるほど、躾(しつけ)は種々の共同体のなかで多様化し、分業化する。私が尊敬してやまないトンカツ屋のおやじは、修業時代には、ずいぶん厳しい躾(しつけ)を受けたに違い(ちが )ない。」の躾(しつけ)は、彼(かれ)が志した職業上の技術の習得と一体になったものであり、習得に欠かせない生活条件だったとも言える。6躾(しつけ)を欠いたままの技術教育は、まことに非効率なものである。逆に、技術教育の裏づけがない躾(しつけ)は、まことに不安定なものであり、すぐに馬鹿馬鹿しい(ばかばか  )頽廃(たいはい)をみる。
 しかし、この技術教育がほんとうの素質を育て上げるには、感化が要る。7模倣(もほう)への欲求を掻き立てる(か た  )一人の人物が要るのである。すぐれた料理人を育てる調理場には、必ず模倣(もほう)の対象となるようなすぐれた料理人がいる。このような人物は、単に技術がすぐれているだけではない。他人の内に模倣(もほう)への欲求を掻き立てる(か た  )何かが、そ
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の技術を根底から作り出すものになっているのである。8彼(かれ)は意図せずして、他人に感化を与える(あた  )。意図して為さ(な )れる教育は、意図せずして引き起こされる感化なしには、決して実を結ばない。
 もちろん、これは技術教育の現場では至る所にある事例だが、学校教育では極めて少ない事例である。先生たちが悪いのではない。9学校で教えられている事柄(ことがら)の本来の暖味さが、つまらなさが、学校での躾(しつけ)と感化とをほとんど不可能にしているのである。テレビドラマに出てくる先生は、躾(しつけ)抜き(ぬ )にいきなり感化を与える(あた  )が、誰(だれ)にとってもあれが無理なことに見えるのは、そうした感化に不自然を感じるからである。0学校には具体的な躾(しつけ)を必要とする技術教育がなく、尊敬される技術のないところに感化は起こらない。(中略)
 言い換えれ(い か  )ば、人間の技術とは、躾(しつけ)と感化とを必須(ひっす)の条件として磨か(みが )れる何かでなくてはならない。少なくとも、技術という言葉の意味をそんなふうに扱う(あつか )ことは、子供の教育にとってよいことだ。受験技術という言葉がある。高級な勉強とは別に、低級な技術があり、いやでもそれを呑み込ん(の こ )でいないことには、受験に失敗する、それは必要悪だ、そんな意味合いがこの言葉にある。技術という言葉が、こんなふうに貶(おとし)められているところに、子供を奮い立たせる教育などあるはずがない。
 「技術」という漢語は二つに離し(はな )て、「技」とか「術」とか言ったほうがいいのかもしれない。学問は、料理同様、社会のなかでひたすら磨か(みが )れる一種の技である。学校で教わる「教科」は、そうした技にまっすぐつながっていなければ、これはもう殺人的につまらないものだろう。このつまらなさが、子供から成長する力を奪う(うば )。感化される能力さえ奪う(うば )。高校がつまらなければ、さっさとやめてトンカツ屋の修業に行けばよい。このことは、効率の上でも、倫理(りんり)の上でも、まったく正当に言える。

(前田英樹『倫理(りんり)という力』)
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 1今の世の中、孤独(こどく)という言葉は、なぜか悪いイメージで塗り(ぬ )固められている。いつからそうなったのか、私は知らない。いつの頃(ころ)からか、引きこもりという言葉が、現代の若者や子どもたちの、社会や学校に出られないで家にこもり切りになる特殊(とくしゅ)な状態を指すようになってから、孤独(こどく)のイメージはすっかり悪くなった。2言い換える(い か  )なら、引きこもりの若者や子どもたちが何万、何十万という数になってから、いよいよ孤独(こどく)のイメージは、社会的に手を差しのべてあげなければならないもの、克服(こくふく)しなければならないもの、といった否定的なものになってしまったのだ。
 3もちろん、集中的ないじめを受けたり、心の病になったりして、まともに対人関係を保てなくなった場合には、周囲からの何らかのサポートが必要であることは言うまでもない。そういう場合の孤独(こどく)と、人間ひとりが生きていくうえで本来的にまつわりつく孤独(こどく)とでは、本質において違う(ちが )もののはずだ。両者の間に明確な線引きはできないにしても。
 4ところが、両者をいっしょくたにして、すべて孤独(こどく)はあってはならないものであるかのような風潮になっているところに問題がある。子どもには子どもなりに、心の成長や考える力をつけるためには、孤独(こどく)な時間はとても大事なのに、今の社会はそのゆとりを持たせようとしない。5ミヒャエル・エンデの『モモ』に描か(えが )れた「時間貯蓄(ちょちく)銀行」の銀行員のように、何もしないでいると、たとえば、「あなたはきょうは、二時間三十一分四十七秒無駄(むだ)にした。一生は六十六万六千四百三十二時間二十五分四十八秒しかないのだから、時間をそんなに無駄(むだ)にしてはいけない。6一分一秒でも何もしない時間は私どもに預けなさい」といったぐあいに迫る(せま )のだ。
 やれ塾(じゅく)に、やれお稽古( けいこ)に、やれ宿題に、と迫ら(せま )れることに耐え(た )られない子どもたちは、ゲームやケータイやパソコンに没入(ぼつにゅう)する。7大人たちは奇妙(きみょう)なことに、ちゃーんとゲームやケータイやパソコンを大量生産して、子どもたちがどんどんその世界に入るのを誘っ(さそ )ている。そういうものをどんどん子どもに与える(あた  )のは、「麻薬(まやく)
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を与える(あた  )に等しい」と言ったのは、医療(いりょう)少年院に勤務する精神科医・岡田(おかだ)尊司氏だ。
 8ダブルバインド(二重拘束(こうそく))という精神医学用語を紹介(しょうかい)したことがある。社会学や人類学などマルチな才能を持つベイトソンという学者が作った、人間の心の領域にかかわる用語だ。ベイトソンが紹介(しょうかい)している象徴(しょうちょう)的な症例(しょうれい)はわかりやすい。母親が精神病院に入院中の息子に面会に行く。9息子と並んで座った母親は、口では「あなたを愛してるのよ」と言うが、内心では息子を恐れ(おそ )ている。息子は言葉をそのまま受けとめ、嬉しく(うれ  )なって母親にキスをしようとする。ところが、母親は一瞬(いっしゅん)だがピクッと顔をこわばらせ、キスされるのを避ける(さ  )ように身をそらす。0内心が身体に表れたのだ。息子は鋭く(するど )母親の二面性を読み取り、病室に駆け(か )戻る(もど )。母親が帰った後、息子は暴れまくり、保護室に入れられてしまう。
 親が二律背反のことを同時に子どもに言うと、子どもはどちらを選んでいいかわからなくなり、精神的に混乱したり、身動きができなくなったりする。そういう親に育てられた子は、心の発達にゆがみが生じるおそれがある。これがダブルバインドとその結末だ。

(柳田(やなぎだ)邦男(くにお)の文章による。一部省略がある。)
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