1そもそも、食べることに強い関心を抱いたのには、遅飯コンプレックスばかりでなく、もう十年もイタリアと日本を行き来するような暮らしの中で感じてきたひとつの思いがある。スローフードという言葉が、私の中の曖味模糊とした思いに、あるくっきりとした輪郭を与えてくれた様な気がした。
2たとえば、数百年も前の史跡と呼んで差し支えない石造りの家屋に人が今でも住んでいるフィレンツェのような都市では、新鮮な素材を納得のいく値段で買い、おいしいものを作ることはしごくたやすい。
3肉は肉屋、生パスタなら製麺屋、野菜は八百屋、パンはパン屋とそれぞれ昔ながらの専門店ががんばっている。でなければ、大きな中央市場まで足を運べば、野菜や果物もそれは色とりどりそろっていて、チーズも塊で買えるし、無農薬野菜の店もある。
4取材の合間に暇ができれば、料理に腕を奮い、そんな日にはかならず友を招く。週末や日曜の昼には、食事に招き、また招かれる。夕食時まで仕事に捧げる人は稀で、日本のようにノミニケーションなどといって職場の面々と飲みながら過ごすことは滅多にしない。5何はさておき家族で食事である。そんなことをしているからイタリア人男性は妻に管理されっぱなしだという人もいるが、それは当てにならない。彼らはよく外食も楽しむ。それにしたって、前菜に、パスタやリゾット、肉か魚のメインディッシュに野菜のつけあわせ、甘い物にカフェ。6人によってはチーズに食後酒までいただくものだから、ゆうに三時間はかかる。
日本へ帰れば、そうは問屋が卸さない。
まず友人たちを食事に招きたくとも、みんな何かと忙しい。招かれた途端に、帰りの電車の時間を心配しはじめ、腕時計を覗きこんでいたりする。
7おそらく、日本というより東京といった方がいいのかもしれないが、町が肥大化し過ぎているのだろう。共稼ぎの友人はといえば、残業だらけでぐったりで、とてもではないが平日は夕食の買い物すらできないといって嘆く。8その働く女性、忙しい母親たち―
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