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 そもそも、食べることに強い関心を抱いいだ たのには、遅飯コンプレックスばかりでなく、もう十年もイタリアと日本を行き来するような暮らしの中で感じてきたひとつの思いがある。スローフードという言葉が、私の中の模糊もことした思いに、あるくっきりとした輪郭りんかく与えあた てくれた様な気がした。
 たとえば、数百年も前の史跡しせきと呼んで差し支えない石造りの家屋に人が今でも住んでいるフィレンツェのような都市では、新鮮しんせんな素材を納得のいく値段で買い、おいしいものを作ることはしごくたやすい。
 肉は肉屋、生パスタなら製めん屋、野菜は八百屋、パンはパン屋とそれぞれ昔ながらの専門店ががんばっている。でなければ、大きな中央市場まで足を運べば、野菜や果物もそれは色とりどりそろっていて、チーズもかたまりで買えるし、無農薬野菜の店もある。
 取材の合間にひまができれば、料理にうでを奮い、そんな日にはかならず友を招く。週末や日曜の昼には、食事に招き、また招かれる。夕食時まで仕事に捧げるささ  人はまれで、日本のようにノミニケーションなどといって職場の面々と飲みながら過ごすことは滅多にめった しない。何はさておき家族で食事である。そんなことをしているからイタリア人男性は妻に管理されっぱなしだという人もいるが、それは当てにならない。彼らかれ はよく外食も楽しむ。それにしたって、前菜に、パスタやリゾット、肉か魚のメインディッシュに野菜のつけあわせ、甘いあま 物にカフェ。人によってはチーズに食後酒までいただくものだから、ゆうに三時間はかかる。
 日本へ帰れば、そうは問屋が卸さおろ ない。
 まず友人たちを食事に招きたくとも、みんな何かと忙しいいそが  。招かれた途端とたんに、帰りの電車の時間を心配しはじめ、腕時計うでどけい覗きのぞ こんでいたりする。
 おそらく、日本というより東京といった方がいいのかもしれないが、町が肥大化し過ぎているのだろう。共稼ぎともかせ の友人はといえば、残業だらけでぐったりで、とてもではないが平日は夕食の買い物すらできないといって嘆くなげ その働く女性、忙しいいそが  母親たち―
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―もちろん、父親だっていいわけだが――の暮らしの救世主のごとき面持ちでちまた溢れあふ 返っているのが、レンジでチンするだけの冷凍れいとう食品、お湯に投げこむだけのレトルト食品お湯を注ぐだけのカップめん、コンビニエンス・ストアのお弁当、デパートのお惣菜そうざい売り場に、よりどり見取りのファーストフード・チエーン店である。
 ところが、それだけ急いで食べる時間まで節約しておきながら、だれもが「忙しいいそが  、時間がない」と口にしているのはどういうことなんだろう。家族が一日に一度さえ顔を合わせる時間もなければ、愛情の証だったはずの料理に手間ひまをかける時間もない。
 私たち日本人は、いったいいつから、ゆっくりと食事をすることもままならなくなってしまったのだろう。
 四割を越えるこ  子供たちのアトピー、若者にまで増えている骨粗鬆症こつそしょうしょうや動脈硬化こうか、サラリーマンの過労死、環境かんきょうホルモン、ダイオキシン、名前をもたない現代病……、すでに社会に深刻な黒いかげを落としている現象の根っこに、狂っくる た食生活があることにだれもが気づいているはずだ。
 この国は、これで大丈夫だいじょうぶなのだろうか?
 私には、スローフードという言葉が、その暗澹あんたんたる思いに一条の光を投げ込んな こ だかのように思えた。
 スローフード運動を推進する者たちは、単にファーストフード反対運動というような了見りょうけん狭いせま ところに留まらない。スローフーダーの真の敵は、ファーストライフという名の世界的狂気きょうきであり、それは、もっと複雑な現代社会の機構の中に妖しくあや  うごめくなにかなのだという。
 それはいったい何なんだろう?
 そんな疑問にこし押さお れるようにして、九六年のある日、ふいに思い立った私は、ファーストライフ症候群しょうこうぐん巣窟そうくつである日本の大都市を離れはな 、スローフード協会の本部があるという北イタリアの町へと旅立った。彼らかれ の言い分に耳を傾けかたむ 、イタリア人たちの食卓しょくたくをゆっくり見つめ直してみたくなった。
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