a 長文 1.4週 nnze2
 さて、フィリアー(愛)はアリストテレスによれば三つの成立根拠こんきょをもっている。その一つは「有益なもの」であり、もう一つは「快いもの」であり、そして、最後に「善いもの」である。
 それでは、「有益である」ことに基づいて、他者と交わっている人はその他者を愛しているであろうか。ある意味では、愛している、と言えるかもしれない。すなわち、かれが自分にとって有益である限りにおいて。しかし、かれが有益でなくなれば、その人はかれを見捨てるであろう。たとえば、かれが老化したり、アルツハイマー病などになったり、体を壊しこわ たりして、仕事ができなくなれば、かれを有能な人間として評価し雇用こようしていた社長はかれを解雇かいこするだろう。もともと、かれは人間自身としてぐうされていたわけではなく、したがって、愛されていたのではなかったからである。
 では、快楽の故に他者と交わっている場合はどうか。ある人が機転が利いて、いつも面白い話をし、その魅力みりょくのゆえに人に愛されていたとしよう。この場合も、右の「有能さ」の場合と同様である。脳梗塞こうそくなどになって機転が利かなくなり、全然面白くなくなれば、人々はかれから離れはな てゆくかもしれない。
 この点について、パスカルは恐ろしいおそ   話をしている。ある男がある女性をその美貌びぼうの故に愛していたとする。あるとき、彼女かのじょ天然痘てんねんとうにかかり、その美しさを失ったとする。そのとき、その男はその女をなお愛し続けるか。もしも、そのとき、男が女から離れはな たとすれば、男は女を愛していたのではなく、自分の快楽を愛していたのである、と。パスカルはこの断章で、人間は人間を、ただ滅びほろ ゆく付けたりの性質によってしか、愛することはない(愛しえない)のだから、人間が人間を(あらゆる付属的性質を取り払っと はら たそれ自体として)愛することなどはありえない、という苛烈かれつな帰結を引き出している。
 厳しく言えば、それはそうかもしれない。しかし、ここで問題にしているアリストテレス的な良識の次元で言えば、利益や快楽に基づく愛は、第一に、自分自身の利益や快楽の尊重で相手自身の尊重ではないということ、第二に、そのような利益や快楽を生み出す相手の美質は安全性を欠くあまりにも移ろいやすい陽炎かげろうであるとい
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う点に問題があるのである。
 それゆえ、利益と快楽に基づく愛は、本来、愛の名に値しない。これらの交わりにおいては、人は相手の人を愛しているのではなく、自分の利益や快楽を愛しているからである。それはエゴイズムの一形態なのである。
 そこで、愛は、残る一つの成立根拠こんきょ、すなわち、「善」に基づく愛でしかありえない。なぜ、そうなのか。なぜなら、相手自身を愛するとは、相手のもつ様々な性質や能力を愛することではなく、相手の人格を愛することであり、人間の人格は善(徳)に基づいてしか成立しえないからである。どのように魅力みりょく的な性質や能力も時間の中で老化と衰弱すいじゃくへと運命づけられている。もしも、人と人との交わりがこれらの属性に依存いぞんしていたのなら、交わりもまた早晩衰弱すいじゃく消滅しょうめつせざるをえないだろう。
 しかし、善に基づいて形成された人間の「在り方」としての徳は、人間のもつ様々な在り方のうちで、もっとも恒常こうじょう的であり、安定的であり、したがって、信頼しんらいに値する、とアリストテレスは言う。いったん確立された徳は、いわば時間と老化とあらゆる加害を超えこ て存続する人格の基礎きそとして、生きている限り、決して滅亡めつぼうすることのない恒常こうじょう的存在である。

 (岩田靖夫やすお『いま哲学てつがくとはなにか』による)
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