a 長文 7.1週 nnzi
 ケンタウロスは、人間の上半身に馬のどうあしがついた生き物だ。人魚ひめは、人間の上半身に魚のどうがついている。インドのガネーシャは、人間の身体にゾウの顔がついている。これらの不思議な神話上の生物を作る技術を、現代のバイオテクノロジーは手に入れつつある。科学の進歩は、科学の悪用の可能性と不可分の関係にある。その典型的な分野のひとつが、かく物理学である。物質が持っている膨大ぼうだいな熱量の可能性を、人間はエネルギーとして利用することもできるし、兵器として利用することもできる。同様のことが、バイオテクノロジーの未来についても言えるのではないか。
 バイオテクノロジーの今後の発展から予想される第一の問題は、できることとやっていいことは違うちが という区別の基準がまだはっきりしていないことである。遺伝子の解析かいせき技術が発展すれば、各種の遺伝的な疾病しっぺいの改善には役立つだろう。しかし、それは遺伝的素質による就職や結婚けっこんの差別を生み出すことにもつながる可能性がある。人類のこれまでの歴史は、無条件に病気を悪、健康を善としてきた。しかし、不老不死が技術的に可能になりつつある時代に大切なのは、いかに生きるかという技術よりもいかによりよく生きるかという哲学てつがくである。自然界を見ればわかるように、生き物はみな成長し子孫を残し年老いて死んでいく。永遠の生命を求めることは、大きく見れば自然の摂理せつりに反することではないだろうか。自然の摂理せつりと人間の倫理りんりの統合がこれから求められてくる。
 問題点の第二は、科学の発達による恩恵おんけいが強力なものであればあるほど、あとでその弊害へいがいがわかったときに、手後れとなることも多いということである。特に、生命に関することについては、人間の知識は肝心かんじんなことは何もわかっていないと言ってよい。生命を生み出す知識さえないのに、生命を部分的に操作する技術だけはあるという状態が最も危険なのだ。この危険性を防ぐためには、多様性の確保を技術の発達以上に優先することだ。農業の品種改良で、F1雑種による成果が取り上げられることは多いが、それが地域固有種の絶滅ぜつめつに結びつくようなことがあってはならない。大きな恩恵おんけいは、大きな弊害へいがいと裏腹の関係にある。
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 バイオテクノロジーは大きな可能性を秘めている。それは、肉体の変容だけでなく、精神の変容に生かすことさえできるようになるだろう。大切なのは、その可能性を発展させるか、その危険性を抑止よくしするかということではない。どのような技術も、それを生かす社会の仕組みによって、人間を助ける乗り物にもなれば、人間を傷つける武器にもなる。ケンタウロスや人魚ひめやガネーシャが人間と一緒いっしょに暮らすようになってもよい。しかし、大事なことは、すべての生物が自分の存在に自信と誇りほこ と喜びを感じて生きていくための技術でなければならないということである。

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
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