a 長文 8.2週 nnzi
 荒木あらき博之ひろゆきのあげたつぎのようなケースは、その典型例であろう。
 ――日本の小学校などでよく見かける光景であるが、先生が生徒に向かって「みなさんわかりましたか」とたずねると、生徒は全員声を揃えそろ て「ハーイ」と答える。この場合、先生の方はかならず全員一致いっちして「ハーイ」と答えることを期待しているし、生徒の方もたとえほんとうにわかっていなくても、全員声を揃えそろ て同調することが先生の期待に答える所以であることを知っているのである。こういった全員一致いっち雰囲気ふんいきのなかでただひとり「わかりません」ということがきわめて勇気がいる行為こういであることは、日本人であればだれしも体験的に知っていることであるだろう。――
 対照的にアメリカの小学校の子どもが、「先生が口を酸っぱくしてくり返しくり返し説明しても、わからなければ金輪際『イエス』とはいわない態度に驚きおどろ かつ感銘かんめいを受けたことがあった」、と荒木あらきは報告している。
 日本人に顕著けんちょな集団への同調行動は、何も小学生に限ったことではない。きだ・みのるも、小さな村落(部落)での参加観察に基づいて、同様の事実を見出している。ある村人は、かれに向かってこう述べている。
 ――そらあ、多数決の方が進歩的かも知れねえが部落会議にゃ向かねえや。……部落会議じゃあ、村議会でもそうだが十中七人賛成なら残りの三人は部落のつき合いのため自分の主張をあきらめて賛成するのが昔からの仕来りよ。どうしても少数派が折れねえときにゃあ、決は採らずに少数派の説得をつづけ、説得に成功してから決を採るので、満場一致まんじょういっちになっちもうのよ。――
 要するに、「部落の決議は全会一致いっちで、多数決は恨みうら を残し部落の運営の円滑えんかつ妨げるさまた  原因になるので採用されていない。部落で一番嫌わきら れる悪は部落を割ることだ。したがって十中七人も賛成することにはつき合いのため賛成することになる」というのである。こうした「つき合いのための賛成」という態度は、近代主義者の目からすれば、当人の自主性を損ねていることになる。どうして集団のためにそうまでしなければならないのだろうか、と批判的なまなざしを向ける。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 しかし、当の村人にしてみれば、「部落は人数が少なく朝に晩に顔を会わしているのでおにっ子を作っては部落の運営がうまく行かなくなる」という現実的な判断が働いているのである。何とか全会一致いっちで決めたいし、かりに自分自身としては反対でも集団の「和」のためには賛成の方に回ったほうがよい、という思惑おもわくがある。結果的にそれは、自律性の喪失そうしつ、地域社会への屈服くっぷくであるかも知れない。しかしながら、ここで留意すべきことは、みなが、どうすれば「部落の運営がうまく行くか」ということを配慮はいりょしたうえで「賛成」している、という事実である。その場合の賛同は、単純に集団に同調する行動ではないしまた地域社会による「少数派の圧殺」でもない。(中略)
 このように考えてみると、日本人の集団主義的な傾向けいこうについてはその内容を再検討することが不可避ふかひとなる。日本人に特異だとされる集団主義が、はたして個人の集団・組織への投入や隷属れいぞくを意味するものなのかどうか、よく吟味ぎんみすることが必要であろう。結論を先取りして言えば、日本人の集団主義は、成員の組織への全面的な帰服を指しているのではなく、他の成員との協調や、集団への自発的なかかわり合いが、結局は自分自身の福利をもたらすことを知ったうえで、組織的活動にコミットする傾向けいこうをいうのである。普通ふつう「集団主義」という語は、「個人主義」の否定的対立こうとして用いられる。だが日本人の場合、その「集団主義」は、アンチ「個人主義」を意味しないのだから、タームとしては実は不適当なのであり、また既存きそんの語感にたよったまま日本人を集団主義者だと結論づけることは、完全に現実を見誤ることにもなろう。この点に関しては,「集団主義」という用語そのもののセマンティックスをもっと深く分析ぶんせきする必要がある。

濱口恵俊・公文俊平編「日本的集団主義」より。濱口恵俊執筆
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534