1荒木博之のあげたつぎのようなケースは、その典型例であろう。
――日本の小学校などでよく見かける光景であるが、先生が生徒に向かって「みなさんわかりましたか」とたずねると、生徒は全員声を揃えて「ハーイ」と答える。2この場合、先生の方はかならず全員一致して「ハーイ」と答えることを期待しているし、生徒の方もたとえほんとうにわかっていなくても、全員声を揃えて同調することが先生の期待に答える所以であることを知っているのである。3こういった全員一致的雰囲気のなかでただひとり「わかりません」ということがきわめて勇気がいる行為であることは、日本人であればだれしも体験的に知っていることであるだろう。――
4対照的にアメリカの小学校の子どもが、「先生が口を酸っぱくしてくり返しくり返し説明しても、わからなければ金輪際『イエス』とはいわない態度に驚きかつ感銘を受けたことがあった」、と荒木は報告している。
5日本人に顕著な集団への同調行動は、何も小学生に限ったことではない。きだ・みのるも、小さな村落(部落)での参加観察に基づいて、同様の事実を見出している。ある村人は、彼に向かってこう述べている。
6――そらあ、多数決の方が進歩的かも知れねえが部落会議にゃ向かねえや。……部落会議じゃあ、村議会でもそうだが十中七人賛成なら残りの三人は部落のつき合いのため自分の主張をあきらめて賛成するのが昔からの仕来りよ。7どうしても少数派が折れねえときにゃあ、決は採らずに少数派の説得をつづけ、説得に成功してから決を採るので、満場一致になっちもうのよ。――
要するに、「部落の決議は全会一致で、多数決は恨みを残し部落の運営の円滑を妨げる原因になるので採用されていない。8部落で一番嫌われる悪は部落を割ることだ。したがって十中七人も賛成することにはつき合いのため賛成することになる」というのである。9こうした「つき合いのための賛成」という態度は、近代主義者の目からすれば、当人の自主性を損ねていることになる。どうして集団のためにそうまでしなければならないのだろうか、と批判的なまなざしを向ける。
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