1第一に、歴史においては、過去の事実は自然における事実と性質をことにする、ということです。過去の事実はすでに述べましたように、歴史家が直接観察したり、実験により再現することができない、一回性の「事実」です。2それに歴史家が到達できるためには、史料といわれる証拠に頼るほかありません。
史料は人間の過去の行為の記録であり、そこには記録という人間の加工が介在しています。3歴史家は、行為者・記録者などの人間の行為そこに表明された思想を、自己の思想により理解し識別してはじめて過去の時日に到達することができるのです。4ですから、ジョージ・クラークに従って、「過去の知識は、ひとりあるいはそれ以上の人間の心を通じて伝えられ、かれらの手で『加工』されたものであって、したがって、何ものも変更を加えることができないような根源的・非人格的原子からできているということはありえない」ということができます。5歴史家にとって事実とは、事実一般ではなく「歴史家の事実」なのです。
「関係の客観性」の意味する第二の論点は、歴史家は時日とは完全に別の存在なのではなくて、かれ自身が「歴史過程の一部分」とである、という位置確認です。6歴史家は認識の対象である歴史過程の外にある存在でなくてその一部であることから、歴史的制約をうけざるをえません。あるいは、歴史家が歴史過程において占める位置から生れる「偏向」とか「党派性」を歴史家は免れることができません。
7そのことを意識し、自己の認識の限界不完全性をつねに自覚することによってこそ、歴史家は客観性に近づくことができるのです。そういう意識をもたない歴史家は、えてして公正とか不偏不党を口にするのですが、じつは時代の支配的価値観の拘束を無自覚に受けているのです。8歴史認識における「偏向」は、客観性の否定ではなくその限界、不完全性、一時性を指示するものにすぎません。歴史家はいまでは、過去を概念的に把握するというような大それた企てを意図することはありません。9なしうることは、過去についてなにをいうことができるか、を示すことで、そうしたつつましい限度を越えることはありません。0(中略)
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